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 The gate tower to the deep north
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 3月は、思いがけないことから、ほぼひと月を病院で過ごしてしまいました。自己最長の入院記録の更新です。幸い、ぶじに仕事に復帰することができましたが、退院するなり、春の大暴風雨の手荒な祝福を受けました。かと思えば、「花冷え」どころではない寒気に見舞われたり、「南海トラフ巨大地震」の予測に心を揺さぶられたり、病院の外は外で“天下大乱”の気配が濃厚です。

「東日本大震災から1年」という節目を病院内で迎え、そのタイミングに合わせて進めてきた「東北」特集号を、まさか病室のベッドの上で校了にすることになろうとは、夢にも思わない展開でした。それだけでも十分すぎる出来事だったのですが、毎日、窓から眺める風景にも“想定外”の出会いが待ち受けていました。

 10階にある病室からは、「こんなに近いのか」と驚くほどに東京スカイツリーがよく見えました。夜勤の看護婦さんによれば、この部屋からは隅田川の花火がよく見えるので、ちょうど部屋が空いていた年には、患者さんを集めて花火見物をしたそうです。直径約30cmの尺玉だと東京タワー(約333m)とほぼ同じ高さまで上がるといいますから、直径約90cmの3尺玉なら、スカイツリーくらいの高さまで上がって、そこから大輪の花を咲かせることになるのでしょう。きっと壮観に違いありません。ただ、窓を閉め切っていますから、お腹に響き渡るような、あの「ドーン」という音が聞こえないのが、最大の難点になりますが……。

 さて、「武蔵国」にちなんで634mにしたというスカイツリー。部屋から眺める限り、さほど高いとは感じませんでした。「東京タワーに代わる新たな東京のランドマークに」という期待もあるようですが、タワーがまとっているイメージはだいぶ異質な感じを受けました。特に「3・11」後という時代状況が重なると――。

 正式開業は5月22日ですから、夜間照明もまだわずか。いまから比較するのは無理というものです。ただ、両者の本質的な違いといえば、まず東京タワーがもたらす感動は、やはり戦後復興から高度成長へと向かう時代の、あの前向きな精神(その裏には戦争で犠牲になった死者たちへの鎮魂の思いや、後ろめたさ)が密接に結びついていました。「ALWAYS 三丁目の夕日」に代表される、戦後日本の「希望」を象徴するモニュメントです。そして、病室から見る東京タワーというと、どうしてもこの文章が頭に思い浮かびます。

〈もう数年前からだが、オレンジ色と銀色とが互い違いになった東京タワーの照明を、私は大変に気に入っていた。けばけばしく派手でなく、威圧的に明る過ぎもせず、かすかに愁いを含んで白銀の色がくっきりとシャープで、品があって聖なる気配さえ帯びている。入院してから手術までの二週間、私は毎晩、東京タワーと向かい合ってきたのだった〉

 1990年冬に書かれた日野啓三さんの文章です(「東京タワーが救いだった」、『断崖の年』中央公論社刊 所収)。日野さんは腎臓がんの開腹手術を受けた直後から、痛み止めの強力な麻酔による幻覚の嵐に襲われます。ようやくそれがしずまった後も、夜になると、病院の窓の外に妖しい異形の幻影を見続けます。「赤い光の点線で虚空に描き出されたライオンやクマやトラなど猛獣の巨大な顔が東京中心部の上空高く低く跳びまわり、隣の古い病棟の屋上には、幽霊ではないとしても幻覚的存在としか考えられない『いつかどこかで会ったことがある』人たちのあやふやな記憶像が立ったり坐ったりしていた」(「風が哭く」、『落葉 神の小さな庭で』集英社刊 所収)。

 そうした怪しげな魔物が跳梁する夜の風景の中で、ただひとつ、何の幻覚にも変質しない例外が存在していました。ゆるぎなく、ひたすら静かに、銀色に聳える東京タワーです。

〈東京タワーだけが確かなもの、本物だった。私の意識のゆらぎが呼び出した幻覚ではなく、万人にとってあの通りの東京タワーであることを、常に私に信じさせ続けた。…… 東京タワーだけがなぜそうだったのか。ひとつにはあの照明の静かな威厳があるだろう。あの照明をした女性照明デザイナーに、私は心の底から感謝した。あれがもっと俗っぽい感じのものだったら、私の乱れていた幻視力は東京タワーも滑稽な幻影に変形していただろう。 だがもっと本質的な理由は、東京タワーだけが純粋に塔だ、と私が信じられ続けたことにあるだろう。東京タワーも東京12チャンネルのテレビ塔を兼ねているとも聞いているけれど、ほとんど私の記憶にはなかった。東京タワーはただ“東京の塔”であって、企業の金もうけの道具ではない、と私は思いこんでいた。見える限りの東京のすべての建物が、物体が、金もうけのための直接間接の手段である中で、東京タワーだけが純粋に無償の存在だ、と私は信じ続けたのである。東京タワーだけが、東京の夜の中で何もののためでもなく、ただおのれ自身のために存在した。存在するためにだけ存在した。静かに銀色に。 あの数日間、もし窓の正面に東京タワーを見つめ続けることができなかったら……自分がどうなっていただろう、とさえ思う。少なくともたったひとりになる夜の間、東京タワーだけが救いだった〉(「東京タワーが救いだった」)

 古来より天空に向かって高く聳える塔は、聖なるものへの切なる祈りとして、あるいは人間の垂直への意志を体現するものとして、仰ぎ見られてきました。バベルの塔、ピラミッド、オベリスク、町の中央の時計塔、教会の尖塔、仏塔、パリのエッフェル塔、そして東京タワー、通天閣……。その起源も形態も、背後にある思想も異なりますが、天に向かって上へ上へと伸びるシルエットに、人は畏敬の念を抱いたのです。

 日野さんが東京タワーに見ていたものも、塔にこめられた純粋な精神そのものでした。病んだ自分の意識の古層から心ならずもわき出してきた、おぞましく、不確かで、いかがわしい幻覚に、威厳をもって拮抗する孤高の姿。それは聖なるものの実在、究極の美の顕現として受け止められました。

 その一方で、東京タワーと切っても切り離せない関係をもっていたのは、日本の怪獣映画です。1933年の米映画「キングコング」では、スマトラ沖の島に生まれた巨大ゴリラが美女を抱えて、完成して間もない世界一高いエンパイア・ステート・ビルに登りました。以来、文明の記号であるランドマークと、自然の化身である怪獣とは、それぞれが明と暗、光と影の形象を担ってきました。人間の建築への意志が託されているタワーだからこそ、破壊の対象ともされたのです。

 東京タワーの正式オープンは、1958(昭和33)年12月23日でした。スクリーン上に生まれたのが1954年である初代ゴジラは、残念ながら東京タワーに相まみえることはありませんでした。1961年の東宝映画「モスラ」で初めて、巨大な蛾の怪獣モスラの幼虫が東京タワーに取り付き、それをへし折って、そこに白い繭をかけたのです。小学校2年生で見て、もっとも衝撃を受けた場面です。

 この映画は、中村真一郎、福永武彦、堀田善衞という3人の文学者が『ガリバー旅行記』などを翻案しながら原作を書きました。作品にこめられたさまざまな寓意(日米安保条約など)を語り始めると切りがありませんが、ただ一点だけを指摘すれば、映画のモスラは、東京湾からの上陸をあきらめ、奥多摩の小河内ダムに突如出現した後、一路、東京タワーをめざします。水と電気の供給源であるダムと、時代の先端をいくテレビ塔。戦後モダニズムを象徴するふたつの建造物を結んで、米軍の横田基地を破壊し、武蔵野から山の手を越えて、まっしぐらに東京タワーへと直進します。このインパクトが強烈でした。

 太平洋上の水爆実験によって海底での長い眠りをさまされたゴジラが、東京湾に上陸し、首都の中心部を容赦なく破壊していくという物語が、もう少し後に書かれていたならば、銀座和光の時計台や国会議事堂ではなく、ゴジラが真っ先にターゲットに選んだのは東京タワーだったに違いありません(もっとも身長50mの初代ゴジラはタワーを倒すのに、少し手を焼いたかもしれませんが)。

 翻って、東京スカイツリーはどうだろうか、と考えてみました。どうも勝手が違うみたいです。怪獣が東京湾や小河内ダムから、ここに吸い寄せられて来るだろうか、と疑問を感じます。戦後から遠く隔たったという時代の違いももちろんあります。しかしそれ以上に、場所の問題が大きいように思えました。墨田区押上という東京の「地霊」のせいというべきか、文化的なアイコンとして異質な感じを受けるのです。

 病室からもうひとつ見えたものは筑波山でした。実は東京生活40年以上になりますが、こちらの方向を眺めて暮したのは初めての経験です。平坦でだだっ広い関東平野の真っただ中にあると、わずか標高877mの山でも、富士山とともに、貴重なランドマークだと聞いていましたが、初めてなるほどと思います。

 そして、毎日のようにスカイツリーと筑波山を交互に見ていると、ふと芭蕉が『奥の細道』で、奥州をめざした道筋が思い浮かぶようでした。深川の住まいを後にした芭蕉と曾良は、舟で隅田川をさかのぼり、千住に上陸して、そこで見送りの人々に別れを告げます。時は元禄2年の旧暦3月27日のことでした。そこから草加、春日部へと向かい、翌日は利根川を渡って武蔵国から下総国へと足を伸ばします。おそらく高ぶる思いと不安を抱えながら、未知の領域へと向かう右手に、霞たなびく筑波山が見えたことでしょう。そして小山(おやま)を過ぎ、「けぶり立つ」の歌枕で知られる「室の八島(むろのやしま)」に立ち寄ります。

 糸遊(いとゆう・陽炎)に結(むすび)つきたる煙哉(けぶりかな)

 こうして歴史に彩られた歌枕・旧蹟を訪ねながら、そこで句を手向け、それに感応して立ち上がってくる「土地の精霊」たちの声に耳を傾ける、彼らの本格的な旅が始まりました。

 以前、リービ英雄さんと東北をあちこち旅した時に、「奥の細道」は“The narrow road to the deep north”と英訳されていることを教えられました。アメリカの南部は「深層」という意味でdeep southと呼ばれていますが、日本の「奥」はdeep northなのか、と興味深く思ったものです。そう考えると、隅田川べりに立つスカイツリーは「これより奥州へと至る」と記された道標のようにも思えます。つまり、deep northへの玄関口としてのスカイツリー。

 これが東京タワーとの決定的な違いではないでしょうか。東海道ベルト地帯と、明治以来の近代化の延長線上に建てられた東京タワー。それに対して、deep northとの交通の要衝に聳え立ち、(偶然とはいえ)ポスト「3・11」に開業を迎える東京スカイツリー。塔の照明も「粋(いき)」と名付けた隅田川をイメージした水色の電飾と、「雅(みやび)」と名付けた江戸紫を基調とした電飾が、1日おきに演出されると聞きます。東京というよりはお江戸。そして隅田川の向こうにあって、その先に広がる東北への足がかりとなるタワー。

 そんな「春のまぼろし」が病室からは見えました。そして、うがち過ぎた見方でしょうが、スカイツリーはポスト「3・11」が抱え込んだ「原子力発電」というアポリアを、遠く北に見はるかすお江戸の火の見櫓(ひのみやぐら)のようにも思えたのです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)