【考える本棚】
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 デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』(柏書房)
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静かな革命------------------------------------------------------------------------

「数年前のあるとき――いつだったか、正確には覚えていないが――、腰を落ち着けて本を読むのが難しくなってきたことに気づいた。わたしのように本を読むのが仕事の人間にとっては、じつにまずい。それどころか、本を読むことが人生そのものだったわたしにとって、事態はまずいどころか深刻だった」――こう告白するところから、「本離れ」に関する著者の自己省察が始まります。

 根っからの本の虫でした。本があふれている家で育ち、最も幼い頃の記憶では、はしごをのぼって床から天井まで続く本棚の中から、魅力的な表紙絵の本を探していました。思春期には、手当たり次第に乱読しました。大学を卒業した年の夏には、バックパックひとつでヨーロッパ中の書店めぐりをし、またジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を片手にアメリカ大陸横断の旅をしたこともあります。これらの旅に連れ立った恋人との新婚旅行では、敬愛する作家がかつて暮らしていた浜べにたたずみ、作品に描かれていた光景を心の中に刻みつけました。現在は大学で創作を教えるかたわら、さまざまなメディアに書評を書いて暮らしている……そんな読書家に、深刻な危機が忍び寄っていたのです。

 どういうことかといえば、注意力が散漫になり、本に集中できなくなったというのです。読書をするのはもっぱら夜でした。家族が寝静まってから、本の世界に没頭していました。「ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくな」りました。しかも少し読むと、すぐに気が散って、いつの間にか「本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどる」ということを繰り返しているのです。

 どうしてこんなことになったか、といえば、高速インターネット回線をつないだからだ、と原因はハッキリしています。情報を一瞬で手に入れる楽しさに夢中になって、気がつけばパソコンをフル稼働にしていました。そんなものはテクノロジーがもたらす雑音だ、と理性が告げるにもかかわらず、その魅力と好奇心につい身をまかせ、「カルチャーに関する世間の騒ぎや、だれかれのブログの更新や、新しいニュースや、とにかく、ネット上のあらゆる叫び声」に、集中力がこま切れにされた自分を発見するのです。

 それをズバリと衝いたのは15歳の息子でした。中学校の授業でフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んでいるという息子が、「文学はもう死んでるね」とそっけなく言ったのです。読書家でない息子の精神活動は、おもに「パソコンの回路や通信速度や低い作動音の中で行われてい」ます。「だから、もう、だれも本なんて読まないんだ」――これは、読書家である父に向かっての“自立宣言”でもありました。

 著者はうろたえると同時に、はっと気づかされます。その通りだ、息子が間違っているとは、自分だって思えないのだ、と。息子は自分がこれまで直視することを避けていた不安を、鋭く、槍で突くように指摘したまでなのである――。

 こうして始まったのが、この読書論です。ここで著者が「本」としているのは、主として「文学」の話です。ただ、いわゆる小説だけではなく、1776年、トマス・ペインによって書かれた『コモン・センス』は、その中でも特別の位置を占めています。アメリカ独立革命の導火線に火をつけたこの匿名のパンフレットは、植民地時代のアメリカで空前のベストセラーとなりました。15万部が売れ、さらにそれが広まり、数十万人以上の耳目を集めたといいます。ジェファソンの『アメリカ独立宣言』は、これを下敷きにして書き始められました。そして忘れてならないのは、印刷物は当時の最先端技術の産物だったという事実です。いまでいえば「ブログを介した全地球的コミュニケーション」のようなニューメディアでした。

 違っているのは、影響力という点です。本にせよ、ブログにせよ、現代社会で『コモン・センス』のように広く、深く、継続的な影響力を及ぼすメディアは、まず皆無だといっていいでしょう。折々に話題となるものは現われますが、またたく間に消費され、人々の関心は他のものへとうつろいます。そうした現状を容認した上で、なお読書の意味、そして文学の存在理由を見出すとすれば、それはどこにだろうか? 著者は息子の“反逆”に応えるために、いや何よりも自らの確信を得るために、本書を書き起こします。

 情報社会がもたらす弊害については、すでに多くの言葉が費やされてきました。本書にはオバマ大統領が、ある大学の卒業式で行なったスピーチが紹介されています。興味深いのは、「Change(変革)」を旗頭に掲げ、インターネットの力を最大限に利用して勝利を収めたとされる大統領が、次のように語っていることでした。少し長くなりますが、引用いたします。

〈みなさんは、二十四時間絶え間なく情報を提供し続ける社会の中で成人しました。この社会はわたしたちにあらゆる情報を浴びせかけ、あらゆる種類の議論をみせつけます。しかし、それらを真理の秤にかけてみると、必ずしもすべてが重要なわけではありません。iPodやiPad、エックスボックスやプレイステーション。どれひとつとしてわたしは使い方を知りませんが、それらの出現によって情報は気晴らしとなり、娯楽となり、エンターテインメントの一種となっています。力を与えてくれるものでもなければ、わたしたちを解放してくれるものでもありません。そうした情報のあり方はあなたたちを圧迫しているばかりか、わたしたちの国や民主主義さえ、これまでになく圧迫しているのです。 卒業生のみなさん、われわれのこの時代は驚くべき変化の時代です。歴史を振り返っても、これほどの変化が起きた時代はほとんど見出すことができません。この変化を止めることはできませんが、良き方向へ導き、自分たちの思うように形作り、対応することはできます。それを可能にするのが教育です。これまでの卒業生たちにとってもそうであったように、教育はみなさんを強くし、この時代の試練に立ち向かうための力を与えてくれます〉

 スピーチの直後から、早速ネット上では、「大統領は現状に疎いという嘲りの声がわき起こった」といいます。さもありなん、です。しかし、ここで問いかけられている問題の本質に異論を抱く人はほとんどいないはずです。ある精神科医の言葉も紹介されています。

〈有史以来、今日ほど、人の脳が多くの情報を処理しなければならない時代はなかった。現代人はあらゆる方角から飛びこんでくる情報の処理に忙しく、(中略)考えたり感じたりする習性を失いつつある。現代人が触れる情報の多くは表面的なものばかりだ。人々は深い思考や感情を犠牲にしており、しだいに孤立して、他者とのつながりを失いつつある〉

 著者がでしばしば引用している本に、日本でも2年前に翻訳されたニコラス・カーの『ネット・バカ――インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社)があります。ラッダイト(イギリス産業革命時に、機械打ち壊し運動を行った者たち。転じて技術革新嫌い)のような単純なテクノロジー批判ではなく、インターネットへの過度の依存がわれわれの脳にどういう影響を及ぼすのか、ということについて、さまざまな学問を総動員して検証を試みた本でした。「ネット・バカ」とありますが、原題は『The Shallows(浅瀬)』であって、インターネットによって人が“バカ”になるのではなく、“浅薄”になる――物事について深く、概念的に、創造的に考えることができなくなる傾向に警告を発したものです。

 最近、言語脳科学を専門とする酒井邦嘉さん(現・東京大学大学院総合文化研究科教授)の『脳を創る読書 なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』(実業之日本社)でもこの問題が同様に扱われていますが、ニコラス・カーの指摘で驚いたのは、ある単語ひとつをとっても、印刷された文字として読む場合と、コンピュータの画面上で読む時とでは、われわれの脳が受ける刺激はかなり違うということでした。

 端的に言えば、印刷された文字はわれわれを“注意散漫”にすることはありません。むしろ「ひとつの静止した対象に持続的で途切れることのない」注意や思考を向けさせます。ところが、大量の情報や刺激が行きかうインターネットやコンピュータの画面上で文字を追っていると、その逆の方向――つまり「間断なく反射的に焦点を移すこと」に振れがちなのです。

〈一連の印刷されたページを読み進むことは、読者が作家の言葉から知識を得るために有益なだけでなく、作家の言葉が読者の心の中に知的な感動を引き起こすためにも有益だ。長時間にわたって一冊の本に熱中することで開かれる静かな場で、人々は自分自身の方法で物事を関連づけ、自分自身の方法で推理や類推をし、自分自身の考えをはぐくむ。本を深く読みながら、彼らは深く考えてもいるのだ〉

 また、電子書籍と比較した際の「紙の本」の利点として、「何もしない」ことが挙げられています。すなわち、紙の本は「読書以外にすべきことは何も提供せず、目の前でページを開いて横たわり、わたしが目を落とすのを静かに待っている」と。

 このように、読書をめぐるさまざまな知見が集められ、興味深い議論が展開されます。人間にとってそもそも、記憶とは、経験とは、時間とは、そしてアイデンティティとは……。笑い話もあります。洪水のような情報に抗して、「内省や深い思索のための時間的・空間的聖域」を確保しなければ、という目的で、アメリカでは「テクノロジーの安息日」が提案されたというのです。2010年3月、「安息日マニフェスト」というグループが、「一週間に一度、パソコンのスイッチを切ろう」というマニフェスト10ヵ条を発表しました。そして、そのためのウェブサイトを立ち上げたというのです!

 さて、著者が結論として選び取ったのは、実はこの安息日のアイディアと遠く隔たるものではありません。要は文明との付き合い方であり、時間の切り分け方である、というわけです。どんなふうにテクノロジーを使いこなし、関わり合うのかというこちら側の主体性の問題なのだ、と。そして読書は、現代がかつてない情報社会であるからこそ、われわれがあえて死守しなければならない“戦略的行為”だと位置づけられます。

〈最近、わたしはこれを静かな革命の試金石ととらえている。静かな革命とは、トマス・ペインの思想と同じくらい反逆的な思想だ。結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ〉

 そう、読書は私たちが人間らしさのバランスを失わないために、時代の喧騒からほんの少し身を退くことによって、「世界そのものを取りもどし、他者の精神に映る自分の姿を発見する」ための静かな革命なのである、と。そして、本書は次の言葉で締めくくられています。

〈こんなふうに、読書はひとつの瞑想的行為となる。そこには瞑想に伴う困難と恩寵のすべてが含まれている。わたしは腰を下ろす。静けさを呼び入れようとする。以前よりもそれは難しくなっている。だが、それでもなお、わたしは本を読むのだ〉

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)