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 アラバマとマティーニ
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 友人の書棚を見て感心したことがあります。本が世界の都市別に整理されていたからです。ソウル、ロンドン、バルセロナ、ウィーン、ニューヨーク、そして東京だったでしょうか。彼の偏愛する町をテーマにしながら、地図、旅行ガイド、写真集はもとより、小説、エッセイ、歴史などの本が「都市しばり」でひとまとめにされていたのです。当人曰く、「その町のことが出ていると、つい専門分野だと思ってね。チェックしておかなければという気になって」

 たしかに思い入れの強い土地や、故郷の町が舞台になっているような作品は、その固有名詞を見ただけで好奇心がざわめきます。この日曜日、東京・京都の日帰りをした際に、トマス・H・クックの新作『ローラ・フェイとの最後の会話』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を新幹線の“車中の供”に選んだのも、まさにそういう理由からでした。

 クックは米国アラバマ州生まれのミステリー作家の大御所です。元アトランタ市警察刑事の私立探偵フランク・クレモンズのシリーズを読んだのが最初の出会いですが、その作風を一変した『熱い街で死んだ少女』(文春文庫、1992年)で忘れられない作家となりました。この作品は、公民権運動がもっとも激しく繰り広げられた「1963年5月、アラバマ州バーミングハム」を舞台にして、ある黒人少女の殺人事件を描いた物語です。

 1863年、リンカーン大統領が南北戦争のさなかに奴隷解放宣言をしてから、ちょうど100年目。ワシントンのリンカーン記念堂の前を埋めつくした全米からの20万人を超える群衆を前に、黒人指導者マーチン・ルーサー・キング牧師が“I have a dream.”と高らかに宣言したのは、同じ年の8月28日のことでした。それからほぼ半世紀を経て、アメリカに黒人初のオバマ大統領が誕生した時には、この歴史的な映像が繰り返し報じられました。60年代アメリカを象徴する画期的な事件であり、徐々に気運がみなぎっていた人種差別撤廃運動の波が最高潮に達した瞬間でした。

 その「長い暑い夏」をテーマにしたクックの小説を、たまたまアラバマ州の大学町に約9か月暮らした直後に読んだのです。舞台となったバーミングハムを訪ねたことも、もちろんありました。以来、アラバマという地名を目にすると、思わず「チェックしておかなければ」と反応する、パブロフの犬のようになりました。

 今度のクックの新作『ローラ・フェイとの最後の会話』も、アラバマ州の「死にかけた田舎町」グレンヴィルが舞台です。時代はほぼ現在――なのですが、中心となる「事件」は20年前の出来事です。ということは、私がちょうど住んでいた頃の話ではありませんか! 

 主人公の父は、この町で安物雑貨店(バラエティ・ストア)を営んでいて、貧しい深南部(ディープ・サウス)そのものを体現するような人物です。粗野で、退屈で、無能な存在としか、息子のルークの目には映っていません。対して、読書家で美しい母は、みじめな結婚生活で失われた希望を瞳の奥にたたえている、憂鬱で夢見がちな性格であると。

 成績優秀な高校生で、将来はハーバード大学に進み、アメリカの「心臓の鼓動が感じられる歴史」――市井の名もない労働者や農民たちの「本物の感情が脈打つ、手でさわれる、生きた歴史」の偉大な本を書きたいというのが、ルークの野心でした。そのためには、何としてもこの町を抜け出し、自分の人生の流れを変えなければ、という思いが彼を駆り立てていたのです。

 アラバマの夏のむし暑さ、木々のくすんだ緑、人通りの絶えた昼下がりの町のけだるい空気、空っぽのショーウィンドウのさえない商店――フォークナー風の南部の牧歌的風景とは裏腹の、息苦しく融通のきかない田舎町のありさまが、主人公の焦燥や、彼のすがろうとしている野望の哀しさを切々と伝えます。

 さて、そのハーバード大学を卒業し、やがて歴史学者となったルークは、自著のプロモーションを兼ねた講演会のために、セントルイスを訪れます。ところが、講演は一向に盛り上がりません。語り口がこうも干からびていては、著書に関心を示す聴衆も皆無です。自分の書くものには何かが決定的に欠落している――「生きた歴史」を書くために必要な感覚が、すべて「乾き、冷えきり、死んで」しまった。かつて夢見たような感性あふれる本は、決してこの先も書けないだろう、とルーク自身が悟っています。しかし、一体いつから、なぜ、こうなってしまったのか?

 その時、会場に思いもかけない人物が現れます。20年前、父の店で働いていた女性。ルークが町を抜け出す直前に、家族にふりかかった災厄の元凶。にもかかわらず、父の葬儀の時も、自分を乗せたバスが最後に町を出て行く時も、「ぼんやりとした、訝しげで、どこか不満そうな」表情を浮かべていた女性。それがなぜ、いま、ここに?

〈「わたしがだれかわからないのかしら、ルーク?」 女の顔立ちが変化し、再形成されて、焦点が合い、それからどっと飛びだして、一瞬のうちにぞっとする面影がひらめいた。「ローラ・フェイ?」わたしは信じられないという顔で聞き返した。……「わたしを見て驚いているようね」と彼女は言った。“驚愕した”とわたしは思った。“呆然とするほどに” にもかかわらず、彼女はそこに、現にわたしの目の前に立っていた。あの女。あのころはとても若かった女。はるかむかしに、わたしの父が恋に落ちた、あるいは欲情に身を焦がした女。……かつてほっそりしていた腕は太くなり、肌は乾燥して、目は眼鏡の分厚いレンズで拡大されていた。まだ老女とは言えないが、確実にそこに近づいている女〉

 そして彼女が口にした「わたしたち、話すことがたくさんあるんじゃないかしら?」「だって、残っているのはわたしたちだけなんだから」という言葉に否応なしに引き込まれて、ルークはあの忌まわしい「事件」の記憶を呼び覚まします。胸を撃ち抜かれて血だまりの中に倒れていた父、もうひとつの血だまりの中で倒れていたローラ・フェイの夫、そしてベッドの上で息絶えた母――「哀れな、つまらないグレンヴィルの町が、一瞬、貧しい南部の白人版シェイクスピア劇の舞台と化した」20年前の出来事です。

 物語はここから、現在と過去を行き来するふたりの会話だけで展開していきます。巧みな尋問ともいえるローラ・フェイの誘導で、封印していた過去の記憶を詳細によみがえらせるルーク。これがふたりの交わす「最後の会話」になるはずだとほのめかすローラ・フェイの真意が分からないままに、ぎこちなく、不穏な会話が重ねられます。

〈この女のなにかを探るような暗い瞳。ときとしてふいにナイーブな少女のようなきらめきを放つかと思うと、次の瞬間には、人を射抜く冷たい鋭さをたたえているように見える、とらえどころもなくコロコロと変わる青い瞳〉(訳者あとがき)

 ローラ・フェイの意味ありげな言葉、表情、しぐさが、ルークの心をどのように揺るがせ、回想と告白を促すか。それとともに事件の真相がどのように解き明かされるか。読み進めるにつれて、次第に恐怖感が募ります。しかも、予想は二転三転しながら、最後まで予測がつきません。

 ローラ・フェイは映画好きらしく、過去の名画のタイトルがいくつか挙がります。「十二人の怒れる男」、「深夜の告白」、「ブラック・ウィドー」、「ブレードランナー」、「サイコ」等々。なじみのあるそれらの鮮烈なイメージが、フラッシュバックされるふたりの回想を増幅して、読む者の不安を掻き立てます。どんなおぞましい結末が待ち構えているのか。手練れのストーリー・テリングにすっかり翻弄されながら、延々と続くふたりの「最後の会話」に呑み込まれます。

「希望が無に帰したとき、わたしたちは生き返った」というエピグラフの言葉が、なるほどと感じさせられる傑作です。鮮やかな会話劇。作者の力量が遺憾なく発揮された新たな代表作のひとつでしょう。それだけに、気になる点がひとつありました。ふたりはホテルのラウンジで赤ワイン(ピノ・ノワール)とアップルティーニの杯を重ねながら、緊迫した心理劇を繰り広げるのですが、とくに重要なのは、ローラ・フェイの飲むアップルティーニです。

 アップルティーニは「ウォッカとグリーン・アップル・パッカー」のカクテルで、グリーン・アップル・パッカーは「とても酸っぱい」リキュールだと、ルークはローラ・フェイに教えます。「緑色のマティーニか。ふん」「人はずいぶんいろんなものを考えだすものね」と、彼女は面白がって試します。そして、これがすっかり気に入ります。作者はおそらく熟慮の末に、このカクテルを選んだに違いありません。ただ、本当にこれでいいのでしょうか。物語の基調と、なんだか不似合いに思えて仕方がありません。

 加えて、ローラ・フェイはこれをゆっくりと飲むのです。これも気になります。マティーニ派なら誰しも思うはずですが、マティーニは“very dry”で、かつ「『北国の寒夜を思わせる』凍てつくほどの冷めたさ」が要諦です(阿川弘之『食味風々録』、新潮文庫)。ベースがウォッカにせよ、ジンにせよ、冷え切っていないことには話になりません。大切なのは、キリッとした冷たさ。ゆっくり飲んでいたら、ぬるくなって台無しです。

 ふたりが会っているのは12月のセントルイス。雨がやがて雪に変わっていくという寒い日です。こういうお膳立ての中で、なぜマティーニをこんな扱いにしたのか。作者の意図をさらに考え続けています。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)