小津安二郎は、「戦争映画」を一本も作らなかったと言われています。しかし、彼の映画人生は、戦争と無縁どころではありません。そもそも安二郎が誕生した1903年の翌年2月には日露戦争が開戦。からくも日本の勝利で終結したものの、1914年に勃発した第一次世界大戦に参戦(日独戦争)、20世紀はじめの日本はいつも戦争の前夜と渦中にあり、少年小津はそのなかで成長したのです。

 20歳になった小津は徴兵検査で甲種合格。すでに松竹で撮影助手になっていた彼は、長い兵役を避けるため1924年、一年志願兵になりました。誰もが尉官に昇進できるシステムなのに、連隊の仲間の証言によれば小津のサボタージュは徹底的で、必修の出張演習にも「十日位前になると、決まって軽い咳が出る」演技力で気管支炎の診断をかち取って、最後まで一度も参加せず、伍長どまりで一目散に除隊したそうです(『小津安二郎―人と仕事―』)。

 映画の現場に戻った小津は念願の監督の道に進み、1927年に処女作『懺悔の刃』に取りかかりますが、途中で召集令状が来て3週間の予備役に駆り出されました。以降の小津は堰を切ったようにモダンな活劇や庶民生活を描く喜劇を撮りまくり、『生れてはみたけれど』(1932)『出来ごころ』(33)『浮草物語』(34)とキネマ旬報ベストテン1位を独占。翌年、またしても応召で入隊。今度の駐屯地は東京だったため、行軍を抜けて新宿中村屋でカレーライスを食べたり、洗足池畔で天ぷらとビールを楽しんだり、不埒でのんきな兵隊ぶりです。けれども日本は中国への介入を深め、時代はいやおうなくより大規模な戦争に向かって傾いていきました。

 1937年、日中戦争勃発。9月、33歳の小津は「一寸戦争へ行ってきます」の言葉を残し、中国に出征しました。ふたつの手帖が遺されています。食い、排泄し、作戦を遂行し、泥濘をさまよう日々を克明に綴る「従軍日記」(『全日記 小津安二郎』田中眞澄編、フィルムアート社)。愛する友山中貞雄の遺書に触発されて書いた「撮影に就てのノオト」ほか、極限状態の人間に焦点をあてた「陣中日誌」(『小津安二郎と戦争』田中眞澄編、みすず書房)。後者には「禁公開」の文字が記され、2年に及んだ最前線の体験については、そののちもほとんど語ることはありませんでした。帰国後の作品『戸田家の兄妹』(1941)『父ありき』(42)には、1人の軍人も登場しません。

 戦争末期、小津監督はシンガポールに派遣されます。参謀本部の意向でインド国民軍の映画を撮る目的でしたが、仕事はいっこうにはかどらず、戦況ももはやそれどころではなかったのです。かわりに押収されたアメリカ映画──『風と共に去りぬ』『怒りの葡萄』『わが谷は緑なりき』『ファンタジア』『嵐が丘』『北西への道』『市民ケーン』など100本を、毎夜観つづけました。敗戦をシンガポールの地で迎え、民間人として抑留された小津は翌年、やっと帰国します。42歳になっていました。

 人生から多くを奪った戦争、凄惨を極めた戦場、そして稀有な映像体験。それらは、小津に何を遺したのか。彼の映画にどのように影響を与えたのか──。戦後、平穏な日常と家族を描いた作品に、監督がどうしても忘れられなかった真実が潜んでいるように思えます。