【考える本棚】
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 栃折久美子『モロッコ革の本』(筑摩書房)
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美しいアルチザン------------------------------------------------------------------------

 6月29日に今年の三島由紀夫賞、山本周五郎賞の贈賞式が行われます。昨年度から受賞者に授与される副賞の記念品として、受賞作の特装本が贈られることになりました。その作品にふさわしい手づくりのルリユール(一点制作の製本工芸)作品を、製本家の藤井敬子さんに特注して制作してもらうというものです。一昨年は「電子書籍元年」などと騒がれ、紙の本はやがて消滅するのではないか、とも取り沙汰されていました。そういう時期であるからこそ、逆に貴重な試みだと思って見守っています。

 ルリユールを実際にご覧になった方はお分かりでしょうが、1冊のために素材を吟味し、繊細で緻密な作業を繰り返しながら、根気強く、大変な時間と手間をかけて仕上げていくものです。聞きかじりの知識ですが、大きく分けて42工程の土台づくりと、15工程の表紙づくりに分かれていて、ヨーロッパの伝統的な製本方法には、「パッセ・カルトン(とじつけ。背とじ紐を表紙ボールに開けた穴に通し、糊で貼り付けてから表紙貼りをする最も丈夫で本格的なやり方)」と、「ブラデル(くるみ製本。表紙と本体を別々に作っておいて、後から表紙をかぶせるやり方。いまの機械製本の原型)」とが、その代表的なものとしてあります。

 そもそもルリユールという書物の存在を教えてくれたのが、この本でした。吉行淳之介、吉田健一、森有正といった人たちの著作の装幀者として記憶にあった、トチオリクミコというめずらしい名前の人が本を書き、それが静かな評判を呼んでいたのです。書店で見つけてすぐに読んだ記憶があります。ただ、著者の情熱の対象となったルリユールのことよりも、それを勉強するために、わざわざベルギーまで単身で出かけていった女性の留学記として面白かった覚えがあります。

 初版が1975年10月25日。いまと違って、まだ海外が遠くに感じられたご時世です。ましてや、著者はその時すでに40代半ばの職業女性。ずいぶん思い切った決断だという印象がありました。一方で、「装幀の栃折久美子さんってどういう方なの?」と何人かの読書家主婦に尋ねられました。印象に残るその名前と、装幀という目新しい仕事が結びついて、時代の先端を駆け抜ける颯爽とした女性のイメージがあったのです。

 栃折さんは東京女子大学卒業後に筑摩書房に入社。編集の仕事のかたわら、造本や装幀を手がけるうちに、いつしかそちらが本業となりました。1967年に退職してフリーのブック・デザイナーとなりますが、「自分の仕事を少しでも正確にするためには、本の歴史を頭ではなく、自分の指で学びたい」と考え、ルリユールの習得を思い立ちます。本書は、1972年、ベルギーの国立高等建築視覚芸術学校「エコル・ド・ラ・カンブル」(ラ・カンブルの学校)に留学してからの恩師たちとの出会い、本づくりへの新たな意欲の目覚めなどを、みずみずしく描いた「留学記+感情旅行記」です。

 今回再読してみて改めて確認したのは、日本を出発した当初は、「実を言えば、遊び半分の長い休暇のつもりだった」、「留学というよりも見学に近いと自分では思っていた」という点でした。ところが、現地で受け入れてくれた人々の魅力がたちまち彼女を虜にします。彼らの卓越したルリユールの技術と本に対する愛情が、著者の心に火をつけます。いや、著者の内部にそれまでに蓄積されていた何かが、彼らと出会って激しい化学反応を起こしたのです。

〈やさしいことではないよ。できないかもしれないけれど、まあやってごらん。そう言われればとたんに「言ったな。ようし」という具合に乗ってしまうのが私の阿呆なところで、そうなると「ほどほど」にしておくことができなくなってしまう。……いつのまにか私は出発前の計画を変更し、お金のつづくかぎりブリュッセルに留って、一通りの技術を身につけて帰ろうと考えるようになっていた〉

「ラ・カンブルの学校」のベルフロワ教授、あるいは彼女の師にあたり、学校を定年退職後は自宅で個人指導を続けているチェケルール先生(ロシアの亡命貴族で、ルリユールの技術は名人芸とされます)から、普通だと4、5年はかかるという特殊な技術を、わずか5ヶ月間で短期集中学習して帰ろうというのです。生半可なことではありません。が、東京へ帰れば教えてくれる人は誰もいなくなるのです。この二人からそれぞれのエッセンスを最大限に吸収して帰る。そしていつの日か、日本の伝統工芸を活かした「私のルリユール」を生み出すことはできないか、と夢見るようになるのです。

〈十年、もしかしたら二十年、私の手をただの「手」としてでなく働かせつづけたら、私にもつくれるだろうか。「途中」にとどまってはいない本が。 道のりの遠さを実感した時に、私は自分がそこへ往きたがっているから遠さを感じていることに気がついた〉

 5ヶ月間の“腰掛け遊学”になってもおかしくなかったはずの滞在が、すっかり様相を転じます。そして、この人たちから習えるだけのものを習いたいという情熱は、偉大な職人たちの魂をも揺さぶります。全盛期が去り、明らかに衰退の運命を辿りつつあるルリユールの真髄を伝授するのにふさわしい人物が、はるばる日本から目の前に現われたというわけです。

〈「お前はどんな本を美しいと思うか」と私に聞いた。「よく選ばれた材料を使った、確かな仕事、無駄な飾りのないもの」「私もそう思う」 先生は席を立ち、別室から一冊の本を持って戻ってきた。「これは昨夜ケースを仕上げたところなんだ」…… 先生がケースの背を下にして机の上に立て、口元に本を持って行って手を放すと、本は何秒かかかって静かに入ってゆき、最後にことりと音を立ててケースの中に収まった。それを手に持つと、斜めに傾けるだけで本が出て来る。その仕事の厳密さ、精度に私は驚嘆した〉

「そこにつくり手がいたことを忘れさせてしまうほど」自然な、ただ1冊の本。先生の本の表紙には何の装飾もなく、モロッコ革の生地そのままのシンプルなものでした。それだけにごまかしのきかない本でした。こうして、師と弟子との「手」の交流は、別れのその時まで、どこかしら憂愁の色を漂わせながら続いていくのです。

 ところで、最初に読んだ時に気になったのが、「パリに住んでいる人」としてほのめかされる人物の影でした。なぜブリュッセルへ行くのか、という理由として著者が挙げていたのは、ドイツ流、イギリス流、フランス流といくつかあるルリユールの流れの中でも、とりわけ繊細で、文学書の装幀を深めてきたフランスのルリユールに心惹かれること、ベルギーはその流れを受けついでいて、しかもこうした古い伝統工芸の技術が、よく保存され伝えられている国であること、ブリュッセルはパリのような大都会よりもこぢんまりとしていて、日本人も多くはなく、生活費も安上がりなこと、それに「パリに住んでいられる方の近くにいたいと思った」から――と知人に手紙で打ち明けています。そのパリ在住の人物の来訪を待ちながら、結局まる二日間をフイにしてしまうというエピソードが、かなりのページ数を割いて描かれているのです。

 その答えをようやく確かめることができたのは、2003年に著者が『森有正先生のこと』(筑摩書房)を著した時でした。パリの人とは、哲学者であり作家の森有正氏のことでした。1967年に、『遙かなノートル・ダム』の装幀担当者として初めて森さんに出会い、「そのときから、森氏が亡くなられるまでの足かけ十年間を、その前の十年間の五倍くらい『生きた』ように感じている」(「森有正『バビロンの流れのほとりにて』」、『美しい書物』みすず書房所収)というような恋愛関係が生まれます。『森有正先生のこと』は、その時期を27年後に振り返った作品で、ブリュッセルでの待ちぼうけ事件や、そもそもルリユール留学自体の背景が、ここで初めて解き明かされます。

『モロッコ革の本』にある「ここへ来るために今まで生きてきたような気がする。長いことかかったけれど、遠廻りをしたとは思わない」という言葉は、著者にとっての「本」との新たな出会いを語っていますが、同時に森有正氏とのひとつの季節の終焉の暗示でもあったことが分かります。

〈「ここへ来るために、いままで生きてきたような気がする。」 と、おだやかな気持でつぶやいた。 心の中にあちこちから集まってきたものが、一つの考えをかたちづくってゆく。 ルリユールは、今までしてきたことが、ぜんぶ生かせる仕事。絵を描いていたことも、詩や小説を書いてみたりしていたことも、出版社で本つくりにかかわってきたことも、ぜんぶ。量産本のブック・デザインではなく、作品として本をつくりたい。 旅立つ前には考えもしなかったことだった。……その時私は、三年先に開く展覧会と、それに先だって書く本のことを考えているのだった〉(『森有正先生のこと』)

 ベルギー留学から戻った栃折さんは、ブック・デザイナーとしての仕事に励みながら、予定通りに本書を著し、1975年11月には東京と大阪で最初の個展を開きます。また1977年、都内にアトリエを開設。週に2回だけ工房を開放して、若い人たちとルリユールの勉強を続けます。さらに1980年には西武百貨店に開校していた池袋コミュニティ・カレッジに「栃折久美子ルリユール工房」を立ち上げ、以来、2002年にその工房の責任者の立場を後進に譲るまで、多くのルリユール愛好者の指導にあたりました。

 最初は4クラス、のべ24人の受講生ではじめた工房が、90年代半ばには生徒数が常時、100人を越える状態になったといいます。また教える側も栃折さんひとりだった講師に、フランスで4年間勉強してきた人や、ベルギーの「ラ・カンブルの学校」の後輩などが加わり、総勢8人の講師が顔を揃えるまでになりました。近年は、そうした第二世代、第三世代の人たちの活躍に目覚しいものがあります。

 ちょうど一年前になりますが、栃折さんのお話を伺う機会がありました。「いまは特に気がかりなこともなく、身も心も軽く悠々自適」と言って、都内の老人向けケア付きマンションにひとりで暮しておられます(部屋の真ん中にはやはり製本用の木製プレス機が置かれているそうです)。

 この日もいくつかのルリユール作品を拝見しました。さすがだ、と思ったのは、個々の作品の内容に即した体裁であることはもちろん、作品に対する理解や思いの深さが図抜けている点でした。綴じや美装の面にどうしても関心が向けられがちですが、栃折さんのルリユールには、著作に対する敬意と愛情、それに書物としての合理性やシンプルな美しさ、強さ、品格、安定感などが備わっています。

 ブリュッセル留学から帰国した後も、できあがった作品を携えては恩師たちを訪ね、批評を仰いでいたそうです。日本のルリユールの先駆者となり、さらには「パピヨン(『やまととじ』という和書のとじ方の原理と、西洋式ルリユールの技術とを組み合わせた新たな製本方法)」を考案して、「外国人に教えられた私のルリユールが、はじめて自分のものになったような気がする」と語ります。

 面白いと思ったのは、これまで身近なお弟子さんたちに決して「先生」とは呼ばせず、一貫して「親方」を貫いてきたということでした。アルチザン(職人)であることを誇りとし、あえて「芸術家」色を掲げないところがこの人の意地なのだと理解しました。もうひとつ面白かったのは、「最近、iPadで遊んでみたけど、文字が大きくなるのは便利ね。読みやすかった」とおっしゃったことです。「紙の本以外は決して認めない!」というふうにならないところも栃折さんらしいところです。

 本の大半が大量生産仕様(パルプ紙に印刷された無線とじの本)で作られるようになり、将来はさらにこれが電子化されて端末機器に配信され、本がモノですらなくなる時代が来るのでしょう。それを本と呼ぶかどうかは別としても、その対極に位置しながら、「本」という歴史的な存在を守り、同時にその幅をさらに拡げていく生き方を彼女はまっとうすることでしょう。著述に対する感動を作品として表現する「美しい書物」のアルチザンとして。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)