┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 素っ裸、真っ裸
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 いまから40年ほど前の、町のちょっとした本屋さんには、『言語生活』(筑摩書房)、『言語』(大修館書店)、『月刊文法』(明治書院)、『國文學』(学燈社)、『国文学 解釈と鑑賞』(至文堂)といった雑誌の並んだコーナーが売場の片隅に必ずありました。大学の「文学部」の看板にいまよりもう少し威厳が備わっていて、学生数も多かった時代の話です。

 なかでも『言語生活』には、国立国語研究所の見坊豪紀(けんぼうひでとし)さんの「ことばのくずかご」という気取らない定番コラムが載っていて、これが読みたくてつい手に取るのが常でした。いまの日常的な日本語がどのように変化し動いているのか――言葉の誤用や言い間違い、新語・流行語・俗語・珍妙語など、国語辞典にはまだ載っていないけれども、現に使われている実例を採集し、その生態を丹念に紹介していくページでした。代表的な例として、「喜んではいけません」という次の文章があります。

〈「おじさまは気のおけない人ね」とカワイコちゃんから言われたら、私は喜ぶ。ところがどっこい、これは「気が許せない」と言っているのだ。彼女たちは本気でそう信じている。……今の若い人は、「気のおけない人」を「気の許せない人」の意味に使っている……いったい、いつからこう変わったのか。何歳ぐらいがさかい目なのか〉(『〈'60年代〉ことばのくずかご』ちくまぶっくす)

 また「若者のことば」という項では、作家の遠藤周作氏と歌手のいしだあゆみさんの対談の一部が引かれています。

〈周作 家へ帰るとなにをやる?いしだ ボケッとしてます。足をバーッと投げだして。周作 いい言葉だな、ボケーッか。きょうの収穫だぞ(大いに笑う)〉(同上)

 基本的には、新聞、雑誌などから抜き出された、ほんの数行の文章が並んでいるだけなのですが、これがユーモラスで面白い。「仕事を進めていくうちに、自分の胸にしまっておくのは惜しい、人に知らせ共に驚き、感心したいような例が次々と出てきて」という言葉集めの粋を、毎月ご披露いただいている感じでした。

『言語生活』には、他にも「現代文学とことば」という作家のインタビュー・シリーズがありました(1976年1月号~12月号)。連載の翌年にすぐに単行本(『作家の文体』筑摩書房)としてまとめられますが、登場する顔ぶれを並べてみるだけでも、吉行淳之介、井伏鱒二、小島信夫、円地文子、永井龍男、里見とん、尾崎一雄、庄野潤三、田宮虎彦、瀧井孝作、網野菊、小林秀雄、武者小路実篤、堀口大学、大岡昇平といった錚々たる人たちです。いまと比べて作家の肉声を伝えるメディアが少ないせいもありましたが、作品から受ける印象とはまた違う作家の素の語り口が新鮮でした。

 とくにこの企画がユニークだったのは、作家に作品論を語らせようというのではなく、聞き手の関心が「文体論」に限られている点でした。したがって、文学表現の技法やその効果について言語学的にどう考えるのか、という観点から、質問がきわめて具体的、直截的に繰り出されていました。たとえば、井伏鱒二氏とは次のようなやりとりです。

〈――文章の好き嫌いはかなりありますか。井伏 藤村はいい文章でしょうが、僕は嫌いだな。谷崎さんも嫌いだ。木賊(とくさ)で磨いたような文章。 ――いい文章だというのは、実際にそう感じられるんでしょうか、世評じゃなく。井伏 いい文章のようですよ。粗雑でないし、鍛えてある感覚だけど、どうも好きになれない。……酒を呑まない人は心臓がいいから長い文章になる。谷崎さんも酒を呑まないので長い文章ですよ。…… ――一般に、長いのはお嫌いですか。井伏 ええ、頭がごちゃごちゃになっちまう〉

 また、井伏さんの『厄除け詩集』(講談社文芸文庫)に載っている、つとに名高い漢詩訳「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生ダ」の、訳の魅力について尋ねると、

〈井伏 あれを五七五にしたら上品な訳になっちまう。肩が張ってしょうがない。それを七七調の土俗趣味にした。あれは安来節で唄えますよ、櫓(やぐら)の上で。親しい気持になるんだな。七七にすると失敗したって構わない。五の字ってもんは恐ろしいもんだよ、日本人には。軍歌をこさえたり、悪いことをしてきた。女で歌を作る人なんか、嫌でね。五七調がいけないんじゃないか。イヤらしいのがいるよ、歌詠みの。俳句はそんなことはないけど。それから、将棋をさす人はいいが、碁を打つのは嫌な奴が多いな。どうもそういう気がする。 ――碁と短歌は通うものがあるんですか。井伏 上品なんじゃないかな。阿佐谷会で将棋をさしてた人が、碁が好きになっちゃったら、みんな癌で死んじゃったよ。 ――やっぱり将棋と釣が一番ですか。井伏 釣好きは助平だ。酒呑みで、気が短くってね〉

 この井伏インタビューについては後日談があって、後にこの本が文庫化される際には、上記の一部が削除されました。しかしその後、別の単行本に収められる時には元通りになっていた、といういわくがあります。それはさておき、こうしたざっくばらんな談話を引き出していた聞き手が、当時は少壮の国語学者であった中村明さんです。そんなご縁から、氏の著作は努めて目を通すようになりました。『名文』(ちくま学芸文庫)、『悪文』(同)、『日本語のコツ』(中公新書)、『笑いのセンス』(岩波現代文庫)、『笑いの日本語事典』(筑摩書房)、『語感トレーニング』(岩波新書)など、いずれも日本語表現の多様性や奥の深さを伝えてくれる好著です。

 また、『比喩表現辞典』(角川書店)、『感情表現辞典』(東京堂出版)、『感覚表現辞典』(同)、『人物表現辞典』(筑摩書房)などの編纂もされていて、それらの蓄積が2010年11月の『日本語 語感の辞典』(岩波書店)につながりました。「意味」だけでは説明し切れない、言葉のもつ「雰囲気」、微妙なニュアンスを伝えようとする画期的な試みです。最終的に約1万1000語が収録された労作で、類書のないユニークな辞典はたちどころに評判となりました。

 文学作品からの引用がふんだんにあること、『小津の魔法つかい』(明治書院)という著作もある中村さんだけに、小津安二郎監督の映画作品の事例も多く、引用を読んでいるだけでも楽しめます。たとえば、書評などでまず取り上げられたのは、「ふくらむ」と「ふくれる」の違いでした。

〈川端康成の『雪国』に、主人公の島村がヒロイン駒子の乳房を求める場面で、「掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た」という例が出てくる。このような胸の「ふくらみ」が、もしも「ふくれ」などと書かれていたとしたら、すぐ病院で診察を受けたほうがいいような病的な雰囲気に変化する。「ふくらむ」と「ふくれる」という両語の語感の違いがそこに端的にあらわれている〉

 中村さんにお会いした際に伺ったのは、思いがけない成り行きから項目に加えられた事例のことでした。『新明解国語辞典』(三省堂)の編者のひとりである柴田武さんが、会う人ごとに訊いていた質問に、「『素っ裸』と『真っ裸』は同じか、違うか」というナゾかけがあったそうです。これを、ある人から酒席でいきなり持ち出されて、四苦八苦して答えた分析を『語感の辞典』に取り入れたというのです。

 すっぱだか[素っ裸]「全裸」の意の和語。「素裸」の会話的な強調表現。〈下着も付けない――〉 すはだか[素裸]「全裸」の意の古めかしい和風の文章語。〈風呂から出て――で扇風機に当たる〉 北杜夫の『狂詩』に「すっかり葉の落ちた枝々(略)は、――になって繊細な神経をさらけだしているかのようだ」という木に用いた比喩的な例がある。

 まっぱだか[真っ裸]「真裸」の会話的な和語的強調表現。〈湯上がりに――で涼む〉 全裸の状態をさす点では「素っ裸」と同じだが、両語は発想が違う。「素肌」「素手」「素足」と同様、「素っ裸」は衣類を一枚でも身につけているか否かという観点から、最後の下着を取り去った瞬間に実現する。一方、「真っ赤」「真っ正直」と同様、「真っ裸」は厚着から次第に薄着の状態に近づくというように連続的に全裸状態に接近する最終の結果である。前者は身をおおう布が一かゼロかというデジタルの世界であり、後者はいわばバスタオルを少しずつずらしながら最終的に実現するアナログの世界と見ることもできるだろう。若年層は俗に「まっぱ」と略して言う。

 なんだか微笑ましくなる記述です。そして、ここまでの解説を読んで、ふと頭に浮かんできた文学作品については、心にくいフォローがありました。

 まはだか[真裸]「全裸」の意の古めかしい和風の文章語。……川端康成の『伊豆の踊子』に「手拭もない真裸だ」、「私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ」という例が出るが、とりまく文章環境の品格から見て、「まっぱだか」でなく「まはだか」と読むべき表現と思われる。

 辞典においても、ご自身の著作においても、解説のそこはかとないユーモアが絶妙です。「ことばのくずかご」の見坊豪紀さんは「新聞を二時間、月刊誌を一時間、単行本を一時間という割合」で毎日欠かさず用例採集に精を出し、そこから「言語的事実」を丹念にカード化していきました。中村さんが引く事例のバラエティがじつに豊富で適切なのは、「やはり日ごろからカードを作っておられるのですか?」と尋ねたところ、「カードは作りません」という返答。本を読んだ時に気になった箇所の上に2本線の目印をつけておくか、それが面白いと思った「笑い」表現の場合には、「W」のマークを記す程度だとか。あとは記憶の引き出しから「あの本のあのあたりにあったはずだ」と勘で探し出すというのです。

 語感は主観に左右されますし、時代とともに移ろいやすい点は、おそらく言葉の「意味」以上でしょう。それだけに、辞典という“長期保証”の書物にはなじみにくい性格なのですが、裏返せば、これを誰かが記録しておかない限り、歴史的な証拠が跡形もなく消え失せてしまう恐れがあります。ある時代の言葉の生きた痕跡をとどめておくためにも、こうした「ドン・キホーテ的な企画」(中村さん)は不可欠です。もちろん、個々人の語感をさらに磨くためにも、こういう刺激は必要です。

 試しに「考える人」の「考える」を引いてみました。「筋道立てて思いめぐらす意で、くだけた会話から硬い文章まで幅広く使われる日常生活の最も基本的な和語」とあり、次のように続きます。

 かんがえる[考える]……「自分のことばかり――・えて、周りの迷惑など思ってもみない」という表現からも、心に瞬間的に浮かぶ情緒を表す「思う」に対し、この語が頭である程度の時間をかけて行う理知的な思考をさすことがわかる。井伏鱒二の『鯉』の初めのほうに、今は亡き友人からもらった鯉を「不安に思ったが、暫く――・えた後で」下宿の瓢箪池に放す場面が出てくる。「不安に」とくれば「考える」という動詞は続かず、「暫く」の後に「思う」という動詞はぴったりしないから、ここでも両語の置き換えは日本語として不自然になる。ちなみに、その後引っ越し先に池がなく置き場に窮したその男は、思い余って早稲田大学のプールに放し、毎日面会に訪れる。とぼけた鎮魂歌だ。

「時代はほのぼのした深い笑いに飢えている。それ自体が感動を呼び文学となる、そういう上質のユーモアが待ち遠しい」(*1)という、中村さんの願いが伝わってきます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)