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 「勝ち組」の洗礼
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 激烈な“大競争時代”を生き抜いた人々や企業を「勝ち組」、時代に取り残され、淘汰されたグループを「負け組」と呼ぶようになったのは、たしか10年ほど前からだと思います。そして格差社会の「闇」の部分に目を凝らすようになるまでは、時代の風を巧みにとらえた成功者たちにのみ脚光が浴びせられる時期がしばらくありました。

 その頃は、この単純すぎる割り切り方への違和感が先に立ち、「勝ち組」「負け組」という言葉の起源に思いを馳せることもありませんでした。ところが先週、人に勧められて映画「汚れた心」を見ることになりました。ブラジル人の著名なジャーナリストが描いた同名のベストセラー・ノンフィクション(2000年刊)を映画化した作品で、ブラジル人の気鋭監督によって、100%ブラジル資本で製作されています。ただし、舞台は第二次世界大戦終結直後のブラジル日系人コロニーで、ほとんどの俳優が日本人、セリフの大半も日本語という異色作です。

 終戦を迎え、「祖国の敗戦」という紛れもない真実が告げられたにもかかわらず、「それはデマだ」「敵国のプロパガンダに踊らされてはいけない」と、あくまで日本の戦争勝利を信じ続けていた、在外日系人社会の「勝ち組(信念派)」の存在はよく知られるところです。一方で、敗戦の事実を冷静に受け入れた人たちは「負け組(認識派)」と呼ばれ、異国の地に暮らす日本人同士の間に深刻な分裂、対立が生まれました。この作品はそこに起きた衝撃的な事件――「勝ち組」による「負け組」の粛清(抹殺)という歴史のタブーを真正面から見据えようとしています。

 上映館は都内で1館のみ。宣伝を目にすることもなかったので、客席はガラガラだろうと心配しながら出かけました。4分の1ほどの入りでしたが、もう少し注目されていい秀作です。

 2組の夫婦が登場します。写真館を営む寡黙で純朴なタカハシ(伊原剛志)と、人目を忍んでひそかに運営されている日本語学校(ブラジル政府によって禁止されている)で、子どもたちに日本語を教えている妻ミユキ(常盤貴子)、そして日系農民たちの組合長ササキ(菅田俊)と妻のナオミ(余貴美子)。それに両家の間を行き来するササキ家のひとり娘アケミ(セリーヌ・フクモト)。彼らは家族ぐるみの親しい付き合いを続けていました。

 ところが、そんなある日、日系人社会を揺るがす出来事が起こります。故国日本の勝利を信じて疑わない元陸軍大佐ワタナベ(奥田瑛二)らが集会を開いていたところに、官憲が踏み込み、日章旗を「侮辱」する行為に及んだのです。

 これを許しがたい暴挙だと受け止めたワタナベは、同じ思いを抱くタカハシらを集めて、保安官事務所へ実力行使に出向きます。保安官はただちに応援の部隊を呼び、ワタナベやタカハシらを拘束しますが、ここで当局の日本語通訳として現われたアオキ(矢崎勇)の姿を見て、一同の怒りの矛先は、一転して彼に向かうのです。「日本の勝利を信じられない奴は日本人じゃない。お前は心が汚れている。非国民め!」。

 やがてアオキの家の壁には何者かによって「國賊」の文字が大書されます。一方ワタナベは「敵は我らの中にある。裏切り行為を働く者は、断固許すことはできない!」と檄を飛ばし、裏切り者の粛清を宣告します。こうして「勝ち組」による血で血を洗う抗争――「負け組」への襲撃事件が始まります。

 当時、サンパウロには実際に「臣道連盟」という日本愛国主義の秘密結社が存在し、その「特行隊員」が「負け組」を標的にしたテロ活動を繰り返しました。結果として23人が暗殺され、147人が負傷。事態を重く見たブラジル警察によって31,380人の日系人が取り調べを受け、うち381人が起訴、80人が国外追放の刑に処せられ、アンシエッタ島の刑務所に収監されました。日系人社会でもその後ながらく封印されてきた、凄惨きわまりない悲しい裏面史です。

 しかもそれは、現代から想像するような、一部の狂信者による破壊活動などではありませんでした。むしろ、終戦時に約20万人だったという日系移民のおよそ8割の人たちが、心情的には「勝ち組」に与し、「負け組」の人々はせいぜい2割にも満たなかったというのです。なぜこういうことが生じたのか――理由はいろいろ指摘されています。

(1)1908年(明治41年)の「笠戸丸」に始まった日本のブラジル移民ですが、1927年(昭和2年)の世界大恐慌とともに経済危機が発生し、受入国であるブラジルに大きな国情の変化が生じました。そして新たなナショナリズムの高揚を背景にした、時のヴァルガス政権の一連の政策により、日本人移民社会には厳しい制限が加えられます。まず1934年憲法で、新たな移民の数に上限が定められ、後続の流れが妨げられました。さらに日本語教育の禁止、日本人学校の閉鎖、公の集会や街頭における日本語使用の禁止(ポルトガル語使用の強要)などが布告され、外国語による放送、新聞・雑誌の発行などがすべて禁止されました。これによって、圧倒的多数の日本人移民は、正確で信頼に足る情報から完全に遮断された状態に置かれてしまいます。

(2)1941年の太平洋戦争勃発とともに、日本とブラジルの国交は断絶されました。駐在公館は次々に閉鎖され、日本政府関係者は第三国のヨーロッパに退避します。日本人移民は祖国からも孤絶した状態で、そこに取り残されることになりました。

(3)ブラジル政府による敵性外国人に対する重圧を受けていた移民たちは、この地への「永住」ではなく、日本への「帰国」を願うものがほとんどでした。成功した暁にはいずれ「故郷に錦を飾る」ことが彼らの希望であり、それを夢見て過酷な労働にも逆境にも耐えてきました。この点がハワイやアメリカ西海岸への移植者たちとはかなり事情が異なる点です。否定的な社会評価をできるだけ早く払拭して、“良き米国人”として受け入れられることを願っていた日系アメリカ人とは対照的でした。

 今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也、新潮社)には、戦後にブラジル遠征をした柔道界のスーパースター木村政彦が、歓迎の宴席でいきなり「勝ち組」の洗礼を受けたというエピソードが出てきます。終戦からすでに6年を経た1951年の出来事です。

〈「日本が勝ったんだろ!」 目を吊り上げて詰め寄る勝ち組の者たちに、木村たちは正直に答えた。「日本は負けました」「嘘を言うなっ!」「しかし……」「負けてないだろ! はっきりここで言ってくれ!」「だから……」 三人はなんとか状況を説明しようとするが、目の前の猛り狂った群衆は聞く耳を持たず、かえって非難を浴びせてくる。そのまま数時間にわたって詰問された〉

 結局、適当に言葉を濁してその場を取り繕うしかなく、「良心が痛みはしたが、勝ったと言っても負けたと言っても命の危険さえあるのだ。勝ち組は一種の新興宗教のようなものだった」とあります。新たな戦後移民を迎える昭和30年代になって、ようやく事態は鎮静化に向かうのです。

「汚れた心」の冒頭には、主人公のタカハシが「どうしてポルトガル語を話さないのか」と少女に尋ねられるシーンがあります。「日本人だから、ポルトガル語を話さないのだ」と答えますが、このひと言からも「勝ち組」のメンタリティが窺われます。ひとつには現地語を使わなくても、日本語だけでなんとか暮していけるという安心感。裏返せば、「国策移民」としてブラジルまで来たけれども、あくまで帰属意識は日本にあるという思いが伝わってきます。ポルトガル語を覚えてこの地に「同化」するよりも、いずれは母国に帰りたいという願いです。

 当然、日本人であること、日本語を話すことには矜持を抱いています。ですから、日本を敵国視するブラジル社会の空気には反発を覚え、現地人に対しては怒りや憎悪を、またねじれた優越感を抱いていた気配が感じられます。

 一方で、そういう思いを募らせている祖国からも見放されているかもしれない……という、将来に対する不安と焦燥のニュアンスも読み取れます。いずれにせよ、ふたつの国のはざまに置かれた不安定な状況にこそ、「勝ち組」がすがりつこうとした「日本」のイメージが仄見えてくるような気がします。

 タカハシは妻を愛するごく平凡な男でした。その彼がいつの間にか粛清という名の殺人に手を染めていき、やがてはササキをも殺害し、夫婦の愛も破局を迎えることになります……。荒涼としたブラジル開拓地の風景。全編がセピア色の抑えた色調の画面の中で、日の丸の旗と流される血の赤だけが際立ちます。ちょうど、俳優たちが感情を抑制した演技で好演していることによって、血なまぐさい暴力シーンとのコントラストがよりいっそう鮮明になるのと照応しています。

 戦争と移民というテーマからは、現代にも通じる多くの問題が浮き彫りにされます。「適応とアイデンティティという問題」――「不寛容、人種差別、原理主義、真実という概念」――などを監督は挙げていますが、それにもまして思い出されたのは、たとえば次のような言葉です。

〈結局、日本のいちばんの問題点は、戦争が終わって、その戦争の圧倒的な暴力を相対化できなかったということですね。みんなが被害者みたいになっちゃって、「このあやまちはもう二度とくり返しません」という非常にあいまいな言辞に置き換えられて、だれもその暴力装置に対する内的な責任をとらなかったんじゃないか〉(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)

 言い換えれば、日本人が曖昧にした「あの戦争」のむきだしの本質を、地球の裏側で終戦後もなお、愚直なまでにあぶり出したのが、「勝ち組」「負け組」の惨劇だったような気がするのです。「汚れた心」はそういう意味で、鮮烈な赤の印象とともに、今日性を孕んだ衝撃の物語だと思えます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)