┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 月にウインクしてください
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 ひと月に満月が2回見られる「ブルームーン」だということを、先週8月31日の、その日の朝に教えられました。月の満ち欠けが正確には29.5日サイクルだという誤差から生まれる、数年に一度の天体ショー。「見ると幸せになれる」という言い伝えがあるそうですが、結局、バタバタしているうちに、すっかり忘れてしまいました。次は2015年7月31日だといいますから、挽回のチャンスは、またすぐにやってきます。

 それにしても、少しだけ残念だったのは、ちょうどその週は、月のことをしきりに思い描いていたからです。というのも、8月25日に、人類初の月面着陸をなしとげたアポロ11号のニール・アームストロング船長が亡くなっていたからです。82歳。「アポロ11号の月着陸成功は当時21歳の私の人生を変えた。彼はすべての宇宙飛行士の憧れであり、目標だった」と宇宙飛行士の毛利衛さんが語っているように、アームストロング船長のあまりに有名なあのメッセージ――1969年7月21日に発せられ、世界中の、一説によれば4億5000万人の人が聞いたといわれる月からの声がよみがえります。

 これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。 (That's one small step for [ a ] man, one giant leap for mankind.)

 彼が誤って、不定冠詞の“a”を省略したために、そのままではmanが人類の意味になるという論議が巻き起こったこと(アメリカ人でも間違えるのだから、われわれ日本人がtheとaで苦労するのも無理はない……)などの後日談を含めて、20世紀を代表する名言だったことは間違いありません。

 翌年の大阪万博の際、アメリカ館で展示された「月の石」(アポロ12号が持ち帰ったもの)をひと目見ようと長蛇の列が続いたこと。あるいは、ジャック・ヒギンズの傑作冒険小説『鷲は舞い降りた』(1975年)のタイトルが、月面に着陸した際に、アポロ11号からヒューストンに向けて送られた言葉(The Eagle has landed.)に由来していると知った時の、えもいわれぬ興奮(作中では、第二次世界大戦でドイツ空軍の落下傘部隊が企てた、とてつもない特殊作戦の暗号名として使われています)――等々、宇宙飛行士たちの偉業の余波は、しばらく形を変えながら続いたものです。

 けれども、それもいつしか一段落。東西冷戦を象徴する米国と旧ソ連との宇宙開発競争にひとまず決着がついたところで、人々の関心は「小さな一歩」から別の世界へと向かい始めていたのです。ところがそれを思いもかけない角度から、もう一度、強烈に呼び覚ましてくれたのが、立花隆さんでした。

 1981年春、その頃駆け出し編集者として働いていた「中央公論」編集部で、ノンフィクション特集の増刊号を刊行することになりました。編集部の何人かが手分けしていろいろな筆者のもとを訪ねたところ、立花さんから提案されたふたつのテーマのうちの一つが「宇宙飛行士たちのことを書きたい。彼らがその後どう生きたかに関心がある」というものでした。私たちは迷わず、その案に身を乗り出しました。

〈これまでに宇宙を飛んだ経験がある人間は、アメリカのアストロノーツとソ連のコスモノーツを合わせても、百人をほんのちょっと越しただけしかいない。百七十万年に及ぶ人類の歴史の中で、ただこれだけの人たちが、地球環境の外に出た経験を持つ。いや、正確にいえば、彼らも地球環境の外には出ていない。地球環境に固有の生命体である人間は、地球環境を離れては生きていくことができない。だから、宇宙飛行士たちも宇宙空間に乗り出すにあたって、地球環境を持参したのである。宇宙船と宇宙服の内部に地球環境を閉じ込めていったのである。地球が大きな宇宙船であるというアナロジーは正しいが、宇宙船は小さな地球であるというアナロジーも同様に正しい〉(立花隆『宇宙からの帰還』、中公文庫)

 いま読んでも、気迫のこもった見事な書き出しです。そして宇宙空間は真空であり、その宇宙において地球はきわめてローカルな場所であること、また宇宙空間は「上下・縦横・高低のない世界」であることなどに触れながら、アポロ9号の宇宙飛行士であったラッセル・シュワイカートが“宇宙船地球号”の概念を初めて提唱したバックミンスター・フラーと対談したときの話を紹介します。そしてシュワイカートがフラーに与えられた啓示によって、自分はこれまで8年前の宇宙体験を「あまりに狭くとらえていたこと」に目を開かれた、というくだりが述べられています。

〈別に宇宙体験にかぎったことではないが、体験はすべて時間とともに成熟していくものである。とりわけそれが重要で劇的な体験であればあるほど、それを体験している正にその瞬間においては、体験の流れの中に身をゆだねる以外に時間的余裕も意識的余裕もないから、その体験の内的含意をつかむことができるのは、事後の反省と反芻を経てからになる。もちろん、それは覚醒した意識上での認識の話であって、潜在意識下では、その体験の瞬間から、何らかの変化がはじまっている。どんな体験でも体験者を少しは変えずにはおかない。とるに足りない体験はとるに足りないくらいに、小さな体験は小さく、大きな体験は大きくその人を変える〉

 宇宙体験という人類史上きわめて特異な体験を経た宇宙飛行士たちが、その体験によって、内的にどういう変容をこうむったのか。それを直接会って取材したいというのが、立花さんの意図でした。

 テーマの壮大さ、切り口の斬新さ、独創性、そして何よりも話者から聞き出されるはずの物語への興味……。予想するだけで、ワクワクするような企画でした。

 しかし、いまと違ってインターネットのある時代ではありません。FAXすら普及していない頃。事前の資料を集めることにもひと苦労がありました。私が受け持ったのは東大図書館に通って、まず1960年代の米誌「Life」の記事を調べることでした。デジタル化されたデータがあるわけでなし、膨大なマイクロフィルムから当該記事を探し出し、それを書き写したり、コピーを取りながら、翻訳の作業を延々と繰り返しました。朝から夕方まで、これを何日くらいやったでしょうか。それを終えると、他の雑誌にも範囲を広げていきました。聞きしにまさる立花さんの気迫を前に、抗う術はありませんでした。

 ですから、いまだに『宇宙からの帰還』と聞いてまず思い出すのは、目をショボショボさせながら東大図書館で過ごしたあの数日間です。かたや、メールもない時代にどうやって取材の申し込みをし、アポを取り、段取りを組んでいったのか、にわかには信じがたい気がします。当然ながら、失態もありました。先輩担当者自らが、「後に立花さんから叱責されることになる私のしでかした大きなミス」について証言しています。

〈それは五十人近い宇宙飛行士にアンケートを送付するにあたって、書式が不備だった上に返信用の封筒を入れ忘れたことである。……アメリカからの立花さんの第一声が「なんにも連絡がとれてないぞ」であったときは目の前が真っ暗になった。駐日アメリカ大使館に何度も足を運んだ結果、宇宙飛行士との連絡をあれほど確約してくれたではないか。こうなったからにはオンブにダッコどころかすべてを立花さんの行動力と運に頼るほかはない。祈るような気持ちの三週間が過ぎた。成田で出迎えた立花さんは予想外に収穫の多かった取材にやや満足そうだった。私の祈りは通じたのだ〉(平林孝「『宇宙からの帰還』事始め」、『立花隆の本の世界』所収)

 当時、立花さんは41歳。若くてエネルギッシュで、取材にかける熱意と執念には凄まじいものがありました。進んで協力してくれる人たちも現われました。“返信用封筒事件”があったにもかかわらず、何人かの宇宙飛行士からは快い返事が届いていたのです。遠く離れた日本から、わざわざ自分のところを訪ねてくるらしいが、いったいどんな人間なのだろう……。歓迎と好奇心のニュアンスが、それとなく伝わってくるようでした。

 立花さんは勇躍、一人で旅立って行きました。いま考えると、その逞しさ、頼もしさに頭が下がります。同時に、編集部もなんと無謀なお願いをしたものかと冷や汗が出てきます。編集者が同行して、取材の雑事の大半を処理するのが常識である現在からは、考えられないような“暴挙”です。

 こうして1981年8月から9月にかけて、立花さんはアメリカ各地をまわり、さまざまな新生活を送り始めていた12人の元宇宙飛行士たちを取材してきました。その成果をまとめたものが、『宇宙からの帰還』です。当然ながら、臨時増刊「ノンフィクション特集号」の1回100枚の記事では完結するはずもなく、そこから本誌「中央公論」連載へと書き継がれていきました。

 その昔、司馬遼太郎さんの『新選組血風録』が「小説中央公論」に掲載されていた時、編集部員が争うようにして、毎回ゲラ刷をわれ先にと読みたがった、とよく聞かされたものですが、それを再現するような“好調連載”となりました。

 ともあれ、予備取材を含めたプロセスが刺激的であった上に、毎回の内容も圧倒的に面白く、単行本にまとまるとベストセラー、ロングセラーとして評判を呼び、立花さんの代表的な仕事のひとつになりました。この連載を担当した先輩編集者の奮闘もまた特筆ものでした。残念ながら、定年を待たずして病に倒れ、10年前の11月に他界しましたが、隣同士の席だった彼の熱中が、懐かしく思い出されてくるのもこの作品です。

〈私がこれまでにしてきたさまざまの仕事の中で、この宇宙飛行士たちとのインタビューほど知的に刺激的であった仕事は数少ない。これだけのインタビューをものにするために、大変な苦労を積み重ねなければならなかったが、その苦労をすべて忘れるほど、一つ一つのインタビューが面白かった。 宇宙飛行士たちにとってもそうであったらしい。かなり多くの人が、「こんな面白いインタビューははじめてだ」「こんなことを聞かれたのははじめてだ。よく聞いてくれた」「いままで人に充分伝えられなかったことをやっと伝えられたような気がする」などといってくれた。宇宙飛行士たちから本書にあるような内容の話をこれだけまとめて聞き出したのは、世界でもこれがはじめてである。従って、本書の読者は、宇宙飛行士たちが長く胸に秘めておいた本音のメッセージの世界最初の受け取り手となるわけである〉

 立花さんの「むすび」の言葉です。

 惜しむらくは、この本にアームストロング船長は直接には登場していません。また船長に遅れること19分後に月面に降り立ったバズ・オルドリン飛行士も、取材を申し込んだ中でただ一人、「スケジュールの都合がつかないというような消極的理由ではなく、『宇宙体験については語りたくない』という積極的な理由」から取材を断ってきました。アームストロング船長との感情的な軋轢――月への歴史的な第一歩をしるしたのが自分でなかったことを人生の「挫折」と受け止めていたことなど、精神的な変調をきたした彼は「努めて余計な対人接触を避け、努めて宇宙飛行士時代を思い出さないように」しているとありました。

 一方で、アームストロング氏は栄光を手にした英雄とみなされることを避けるかのように、メディアの取材にも応じることなく、その後も静かな生活を求め続けたそうです。「晴れた日の夜、月があなたに微笑んでいたら、ニールを思い出して、月にウインクしてください」とはアームストロング船長の遺族が、8月25日、彼の死後に発表した声明です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)