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 歩け、歩け
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 長い夏が終わり、散歩日和が続く季節になりました。だから、というわけではありませんが、本日発売の「考える人」最新号では、「歩く 時速4kmの思考」という特集を組みました。1時間に4kmというのは子どものころに、親や学校の先生から“目安”として言われたスピードです。ダイエット目的のウォーキングであれば、当然もっと速く歩くでしょうし、それでなくとも普段の生活では、いつも目的地に向けてせわしなく足を運んでいるのが実情です。

 けれども、移動の「目的」をいったん脇にどかせて、「歩く」こと自体に意識を集中してみると、この数字はなかなか絶妙な速さだということに気づきます。かなりゆっくりしたペースを心がけなければ、すぐに時速4kmを上回ってしまうからです。「道行(みちゆき)」という言葉がありますが、道すがらの風景に目をとめたり、出会う人たちの表情を楽しんだり、ふだんやり過ごしてしまっているものに注意を喚起しなければ、いつの間にか足を送るピッチは早まり、歩行は単なる「移動」にしか過ぎなくなるからです。

 かつてレオナルド・ダ・ヴィンチは人間を運ぶ乗り物としては馬が最適であるとして、その理由は「それが人間にとっていちばん幸せなスピードだからだ」と言ったそうです。この言葉の真意はいまひとつ不明ですが、もしいま「人間にとっていちばん幸せなスピードは?」と聞かれれば、足裏に地表の凹凸や地形の変化を微妙に感じつつ、周辺の光景に余裕をもって目配りできる、時速4kmの歩行というのは決して悪くない答えだと思うのです。

 サッカー日本代表のキャプテンを務めた長谷部誠選手に、『心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣』(幻冬舎)というベストセラーがあります。常に平常心で試合に臨み、持てる力を十分に発揮するためのメンタルコントロール術を語った本ですが、そこでなぜか取り上げられなかった「歩く」という習慣こそ、まさに自分を整えるためのもっとも基本的な行為とは言えないでしょうか。

 かの永井荷風先生は、「家にいて女房のヒステリイ面に浮世をはかなみ、或は新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した火鉢を敷島の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである」と言って、『日和下駄 一名 東京散策記』(講談社文芸文庫)をものしました。

〈元来が此の如く目的のない私の散歩に若し幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺って行く中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、或は寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝(どぶ)や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となく其のさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時(しばし)我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである〉

 実際は「のんき」な遊歩人を装っているどころでなく、身辺には重大事が次々と押し寄せていたにもかかわらず、荷風先生は「てくてくぶらぶら」を実践することで自らを鼓舞し、心を整えようとしていたようです。江戸の切絵図を片手に、移ろいゆく東京の風景に江戸の残り香を求め、あちこちを精力的に散策した荷風は、“散歩の達人”というより明らかに意志的な表現者です。

 そんなやむにやまれぬ事情がない場合でも、たまに「町を歩こう」と自覚して歩いてみると、徐々に感覚の働きや思考のリズムが活性化されてくるのを感じます。ふとした情景から意外な記憶が掘り起こされたり、連想が思わぬ方向に広がってみたり、その時々の気分や頭を占めている関心事にしたがって、さまざまな感慨が心の中に湧き起こってくるものです。そして気がつくと、いつの間にか自分の心の水位が周りの世界と均衡しているような、晴れやかな瞬間が訪れます。もやもやしていたものが消し飛んで、心が落ち着いてくるのを感じます。

 以前、「ひとは山に向かう」の特集(2012年冬号)の際に、ノンフィクション作家の角幡唯介さんが、「現代人には……生の感覚を身体的に取り戻したいという欲求があるんじゃないでしょうか。……身体で考える、身体を使って何かを知覚するというのは、人間が生物である限り逃れられない宿命です。皇居のジョガーも山ガールも、無意識にせよ、そういうものに衝き動かされているのではないでしょうか」と語っていました。情報社会が高度に発達し、その奔流に押し流されないようにすることだけでも手にあまりそうな状況で、アナログな存在である人間と外界との調和をいかに図っていくかは喫緊のテーマのひとつです。バーチャルな世界が支配的に思われる現代だからこそ、歩くことで肉体的な感覚を研ぎ澄まし、人間の能力の深淵に“気づき”を促すようなバランス作用が自然に働き始めているのかもしれません。

 がんらい歩くことは、遠い昔にヒトが二本足で立ったころの原初的な知覚を呼び覚まし、周囲の環境情報を受け入れながら、自らの内面を探求、開放していく創造的な行為でした。人類の長い歴史の中にはこうして生まれた歩行の文化史があり、文学、芸術、思想、宗教など、歩くことによってもたらされたさまざまな恩恵に浴しながら、いま私たちは生きています。

 特集に登場した方々と歩くこととの関わりも、当然一色(ひといろ)ではありません。「あるく、みる、かんがえる」というスタイルも異なれば、そこから生まれた表現もさまざまです。確かなのは、「歩くこと」が広げてくれた世界から何ものかを得、それを表現しながら、さらに前に向かって歩を進めている、ということです。

 そんなことを思いながら、この日曜日、夕暮れの東京の町を荷風先生にならって「てくてくぶらぶらのそのそと」歩いてみようかと楽しみにしていました。ところが、大型台風の襲来にせっかくの出鼻をくじかれました。東京はにわか雨が多いので信用がおけないと、いつも日和下駄をはき(下駄ならば舗装されていないぬかるみ道で泥が跳ねても大丈夫だと考えて)、そして蝙蝠傘を携えて歩いた洋行帰りの荷風先生ですが、台風ばかりはさすがにお手上げでしょう。

 代わりにといっては失礼ですが、大竹昭子さんの『日和下駄とスニーカー』(洋泉社)を“疑似体験”と思って読みました。荷風先生を先達と仰ぎ、彼の『日和下駄』の世界を現代の東京に探りながら、“荷風の目”となってそれを追体験しようとした散策記です。いまやどこでもビニール傘が手に入るので、蝙蝠傘をわざわざ持ち歩く必要もなく、「日和下駄の代わりにスニーカーをはいて」という身軽さです。

〈わたしも荷風にならって、気持ちがくさくさしたり、つまらぬことで心が狭くなったり、呼吸が浅くなっているときは思い切って外を歩いてみる。足を動かし、目に見えるものに注意を向けるうちに、ネガティブな感情は不思議にも去っていき、物事を肯定したい気持ちが頭をもたげてくる。目的なく歩いているとき、人は五感をくまなく使って原始の状態にもどっているのだろう。空っぽになった器にはきっと前よりもいい考えが浮かんでいるのである〉

 難しいことはさておき、この秋は少し外を歩いてみませんか。文学散歩、歴史探訪、地形探索、地霊研究など、昔に比べると圧倒的に歩き方のメニューも充実してきました。羨ましい限りです。「東京人」は「東京地形散歩」(8月号)、「山の手100名山」(10月号)といった特集を組んでいます。面白そうな手引きは選り取り見取り。あとは一歩を踏み出すだけです。

 いや、無目的こそが理想なのかもしれません。歩くこと自体が、私たちを必ずどこかへ連れて行ってくれるはずだからです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)