【考える本棚】
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 エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』(岩波文庫)
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底なしの森へ------------------------------------------------------------------------ 目覚めてからよく思うのですが、どうして夢というのはあんなに辻褄の合わない、突拍子もない話になるのでしょう。理屈の上では、レム睡眠(浅い眠り・夢見睡眠)特有の大脳の機能のせいだと理解しています。眠りながら脳内の情報を再編成する際に、起きている時のようには統制のとれた活動ができないために、現実とはかけ離れた荒唐無稽な内容になるのだ、と。

 本を読んでいて、これぞまさに「夢のようではないか」と思いながら、グイグイ引き込まれた作品が、このほど岩波文庫のラインナップに加わりました。とても自分の頭では考えつきそうもない奔放で奇想天外なイメージの炸裂。そのスケールに圧倒され、幻惑され、ハラハラさせられながら、しかもあまりの脈絡のなさに笑い出してしまうほどの不思議な寓話。再読してもその魅力はいささかも衰えることなく、むしろ作品によってもたらされる思考の振れ幅がより大きくなったような気さえして、本書の魔術的な力を強く感じさせられました。

〈わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。…… 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた〉

 書き出しからして、とにかくぶっ飛んでいます。どういう話がこれから始まるのか、と眩暈を起こしそうになるくらいです。実際、とんでもない叙述がこれに続くのです。

〈父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのため専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのため毎日やし酒を造ってくれることであった。 父は、わたしに、九平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には五十六万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、百五十タルのやし酒を採集してきてくれたが、わたしは、午後二時まえにそれをすっかり飲みほしてしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに七十五タル造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友だちは数え切れないほどにふくれあがり、朝から深夜おそくまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。ところで、十五年間かかさず、このようにやし酒造りは、わたしのためやし酒を造ってくれたのだが、十五年目に突然父が死んでしまった。父が死んで六カ月たったある日曜の夕方、やし酒造りは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、その時ふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。やし酒を運んでくれるのを待っていたわたしは、いつまで待っても彼が戻ってこないし、今までにこんなに長くわたしを待たせたこともなかったので、友だち二人を呼んでやし園までいっしょについていってもらうことにした。やし園に着いてからやしの木を一本一本見てまわり、そのうちに彼が倒れて死んでいるやしの木の根っこをみつけた〉

「だった」と「ですます」がごちゃ混ぜになった「へたうま」調の翻訳からも伝わってくるように、ナイジェリアの作家チュツオーラが“独創的な現地英語(ヨルバ語と英語とのクレオール的文体)”で書き上げ、1952年にロンドンで出版された作品です。「チュツオーラほど物議をかもし出した作家は少ない」(訳者解説)とあるように、その型破りで力強い文章に魅了される人もいれば、ナイジェリアのインテリ層からは、「あんなカタコト英語が、破格の、でたらめ文法で語られること」は、アフリカの後進性に根拠を与える“国辱もの”だという議論まで噴出したみたいです。

 一方、ヨーロッパの文学界では、英国の詩人ディラン・トーマスやフランスの作家レーモン・クノーなどに絶賛をもって受け入れられ、「カフカと比較されたり、ダンテ、バニヤン、ブレイクはてはグリムの童話と対比され、大変な評判になった」ということです。ともあれ、この作品が「アフリカ文学の存在を誇示した、いわば英語圏アフリカ文学の草分け的」な役割を果たしたことは間違いありません。

 さて、専属のやし酒造りの名人が死んで、思うようにやし酒が飲めなくなった「わたし」は、この死んだ名人を連れ戻すために、彼のいる「死者の町」をめざして「クエスト(探索)」の旅に出ます。これが大冒険の始まりです。住みなれた町を一歩離れると、その先に広がるのは深くて、鬱蒼とした底なしの森林です。そこには「死神」や頭蓋骨だけの奇妙な生き物、地を這う巨大な魚、親指から生まれた凶暴な赤ん坊、得体の知れない魑魅魍魎、化け物、精霊が、次々と現われては主人公を脅かし、恐怖のどん底に陥れます。

 途中で妻をめとるまでのいきさつも奇想天外です。ある町の長と知り合ったところ、奇っ怪な生物に誘拐された自分の娘を連れ戻してくれれば、そのお礼にやし酒造りの居場所を教えようと言われます。娘は市場で見かけた、どこから見ても完璧な紳士に心を奪われて、彼のあとを追いかけたのです。男は跡をつけないで家に帰るように言いきかせるのですが、娘は言うことを聞き入れようとはしませんでした。ところが、それまで来た道をそれ、恐ろしい生物だけが生息する森へ入ると、男は次第に正体をあらわし始めます。身体の各部分はすべて借り物で、左足、右足、腹、アバラ骨、胸、両腕、首、頭の外皮と肉、という順番でそれぞれの所有主に返していくと、ついには頭蓋骨だけになってしまいます。こうなると、もう男は放してくれません。娘は食べることも口を利くこともできなくなり、そのまま囚われの身となってしまいます。そこからどうやって彼女を救い出すか。種明かしはともあれ、ぶじに娘を連れ帰ったところで、彼女はめでたくやし酒飲みの妻となるのです。

 主人公は、自分では「ジュジュ(呪力)」のある神だと大見得を切るのですが、それにしては幾度となく危険な目にあって、その都度、知略を働かせて何とか窮地を脱します。妻となる娘を救い出すのも、こうした勇気と機転の賜物です。そしてこの後、二人は襲いかかる妖怪の魔手を逃れながら、命からがら森林の旅を続けます。ある時には、大きな二本の手を伸ばしてくる真っ白な木の化け物が、背後から恐ろしい声で二人に命じます、「停れ」と。

〈わたしたちは、後ろを振り向いて、大きな手を見た時恐怖のあまりゾッとした。そして、そのために、「両手」が、わたしたちをさし招いて、来いという合図をした時、妻はわたしを指さし、わたしは妻を指さし、妻はわたしに、まず先に、むりやりに行かせようとし、わたしは妻を押して先に行かせようとして、妻とわたしは、お互いに相手を敵に売ったのだった。わたしたちがお互いに譲り合っているのを見て、「両手」は、「木は、お二方を所望されているのであって、どちらの一人も欠くわけにはいかないのだ」と言った。……すっかり怖気づき、またぞろ逃げ出しはじめたのだが、逃げて行くわたしたちを見た時、「両手」は、驚いたことに今度は木から手をスルスルと際限なく伸ばして、逃げていくわたしたち二人を地面からつまみあげた〉

 さてこの妻ですが、物語の中盤からは予言者のような謎めいた言葉で、次第に主人公をリードする役回りを務めます。「この森林は、心にとって、恐怖の種ではありましょうが、決して危険ではないでしょう」、「(この男は)すばらしくよく働く労務者ではあるが、将来きっとすばらしい泥棒にもなりましょう」、「中味がギッシリ詰まった袋が原因で、七日間おどり明かすことになるでしょう。しかし、その町には『賢い王様』がおいでになる」等々。すべて、これらが的中するのです。

 こうして私たちの想像力をはるかに凌駕するようなとんでもない旅を続けながら、次第に待望の「死者の町」へと近づいていきます。そして夜明けを待ち、朝八時になった時、ついに目的の場所へ入ります。ところが、この町では「生者が死者に会いに来るのは法度(はっと)になっている。だから自分の町へ戻りなさい」といきなり出会った男に言い渡され、「絶対に前向きには歩かない」――つまりこの町では後ろ向きにしか歩かない、と注意されるのです。たしかに、死者たちの仕草を見ていると、それが自分たちの仕草とまったく対応しないことに気づきます。生者と死者の世界は全然別個の、非連続の世界であるということを悟らされるのです。

 とはいえ、はるばる探し求めてきた「死者の町」です。何とか再会を果たしたやし酒造りの名人には、ここへ来るまでに実に十年かかったこと。そしてその間、幾多の艱難を乗り越えて、ようやくたどり着いたのだと、長い旅の顛末を語ります。だから、「あなたに会えて本当にうれしいし、もし一緒にわたしの町までついて戻ってくれるなら、こんなうれしいことはない」と懇願するのです。

 その訴えに名人がどう応じるか。そこから物語がどう展開していくか。ここがこの作品の最後の読みどころになっています。全篇がアフリカ人の根源に潜む想像力の解放とも言える神話的な物語で、訳者の注釈を得て、はじめて理解できることも少なくありません。また作家の横顔や作品の歴史的背景を知ることで、面白さがいっそう膨らむことも確かです。ただ、何も知識がないままでも、この特異で巧みな語り口に乗せられて、夢の世界を旅するだけで十分過ぎるほどに頭の窓が開かれます。

 やし酒の酔いというのがどういうものかは分かりませんが、この文体の酔い心地だけは自信をもって保証できます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)