【考える本棚】
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 戸板康二『物語近代日本女優史』(中央公論社、絶版)
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演じた役を糧として------------------------------------------------------------------------

 年末が近づくと、その年に鬼籍に入った人たちのことが話題に上ります。今年はいつになく、映画・演劇関係に物故者が多かったような気がしてなりません。二谷英明、淡島千景、中村雀右衛門、新藤兼人、地井武男、山田五十鈴、津島恵子、大滝秀治、馬渕晴子、若松孝二、そして森光子……。中でも、山田五十鈴、森光子のお二人には仕事で接する機会も多かったので、思い出すこともいろいろです。

 山田五十鈴さんには、まだ駈け出し編集者だった30年ほど前に、連載対談でお世話になりました。歌舞伎役者の先代・中村又五郎さんとの『芝居万華鏡』(中央公論社、絶版)。池波正太郎さんが陰でお膳立てしてくださった贅沢な企画でしたが、いま振り返ると後悔ばかりが浮かんできます。又五郎さんが60代半ば、山田さんがその少し手前。お二人から芝居の話を聞くには願ってもない時期だったにもかかわらず、こちらがなにぶん未熟過ぎました。いまのように昔の映画をDVDライブラリーで見ることのできる時代でもなく、歌舞伎、演劇を観ている絶対量も不足していました。

“宝の山”を前にしながら、玄関先で引き返してきたような感じです。人事異動のために途中交代しなければならなかったくやしさもさることながら、自分の力不足を思い出しては、なんともお二人に申し訳なかったと反省するばかりです。

 そんな身のほど知らずの仕事を引き受ける遠因となったのが本書です。入社後すぐに配属された編集部で、その時にスタートした雑誌連載の企画だったのです。直木賞作家であり、また演劇評論の大家でもあった著者の『ちょっといい話』(文藝春秋)が評判を呼んでいた時期でした。戸板さんを知らない読者も増えていると思うのですが、洒脱なエッセイをものする一方で、無邪気な宝塚ファンという横顔をもつ面白い方でした。太い万年筆で書かれた肉筆原稿を見て、初めてプロの仕事の風格というものに接した気分を味わったものです。

 書かれているのはタイトルそのままの物語ですが、素顔の女優たちを通して眺めた肩のこらない近代演劇史でもありました。日本の女優の草分けである川上貞奴に始まり、森律子、松井須磨子、山本安英、水谷八重子、岡田嘉子、東山千栄子、杉村春子、そして山田五十鈴といった名優たちの肖像を描くとともに、宝塚出身の人々、新劇女優の系譜、商業演劇の女優たちにも幅広く目配りされています。そして、『ちょっといい話』の著者ならではのとっておきの逸話や伝説の数々が、節度と品位のある筆致で紹介されているのが楽しみでした。

「日本の女優の歴史は、まだ四分の三世紀しか、経過していない」――。女優という言葉が定着したのが明治20年代後半で、女優の第一号といわれる川上貞奴がデビューしたのが明治36年。そこからの道のりも平坦ではなかった、と著者は筆を起こします。

〈そのむかし、女優志願の女性が、明治が四十年代に至るまで出て来なかったのは、芝居の世界が、社会的に低く見られていたからにちがいない。 松井須磨子は……大正時代のスターだったが、舞台に立ったという理由で、親類から絶縁された。 森律子は出身校の卒業者名簿から姓名を抹殺され、その弟は姉について学友からからかわれたのを恥じて自殺している。 そういう時代が、かつてあったのである〉

 やがて映画、テレビの誕生とともに、女優の活躍の場は大きく拡がり、社会的にも高い評価が与えられます。いまや女優の志願者はひきも切らないありさまです。しかし、ほんの少し前までは、こういう苦難の時代があったというわけです。

 司法官の家に生まれ、貿易商の夫がすでにあった東山千栄子は、35歳の時に、築地小劇場の研究生に応募し、さっそく舞台に立つという稀有なキャリアの持ち主です。女優になると夫に告げた時、「まア教育者になったつもりでやるんだな、ただし金をとろうと思わないことだ」と言われ、夫の仕事にひびいてはと芸名を作ることにしたといいます。

「風紀上の問題がおこる」という理由で、徳川幕府が女歌舞伎を禁じて以降は、女性の舞台出演がずっと認められなかったのが日本です。維新後、かなり時代が下っても、杉村春子の当り役、「女の一生」の布引けいではありませんが、「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」は、女優たちの誰しもが、大なり小なり胸に秘めていた“覚悟”を伝えるセリフです。

 その物語のほぼフィナーレで取り上げられているのが山田五十鈴です。水谷八重子、杉村春子と並ぶ舞台の三大女優として、あるいは田中絹代と並ぶ映画の二大女優として、さらには「日本映画史上に残る三大美人といえば、入江たか子、原節子、山田五十鈴であることは何人も異存のないところである」(高峰秀子『わたしの渡世日記』新潮文庫)という評判からしても、この「空前絶後」の人については語るべきことがあまりに多いと言わなければなりません。戦前から続くキャリアの長さ、演じた役柄、芸域の幅の広さからいっても、ずば抜けた存在だと言えるでしょう。

 それだけに、山田さんからはもっと聞くべき話があったはずなのに……と冒頭に述べた後悔がこみあげてくるのです。『君美(うる)わしく』(文春文庫)でインタビューした川本三郎さんが、その取材の直前は「食事も喉に通らないほどに緊張した」と語っているにもかかわらず――。

 山田さんと、最後に仕事上のやりとりをしたのは2000年前後でした。女優として初めて文化勲章を受章なさる前だったと思います。病を得て入院されたのは、それからしばらくしてからでした。当時は帝国ホテルに住んでおられましたが、「ホテル住まいは劇場に近くて、交通渋滞もなくて安心だから」という理由でした。すべてが芝居を中心にした人生でした。まっすぐ芸ひと筋の見事な生き方だったと思います。

 さて、森光子さんは戸板さんの本の中では、「商業演劇」の女優のひとりとして登場しますが、さほどのスペースが割かれているわけではありません。ただ面白いのは、著者が森さんの代名詞となった「放浪記」(菊田一夫)よりも、むしろ「おもろい女」(小野田勇)のミス・ワカナ役を高く評価していることです。

〈この役では、若い時に修業した漫才のエロキューションをたくみに再生して、女主人公が大阪放送局のスタジオで熱演する場合など、誰にもできる役ではないと思わせた〉

「おもろい女」は1978年(昭和53年)に芸術座で舞台化されますが、作者の小野田勇氏は、「森しか考えられない役。関西芸人の息が出ている」と評し、森繁久弥さんもまた「林芙美子をやる人は他にいても、ワカナをやる人は森しかいない」と絶賛しています(菅野拓也『日本の女優50人』新潮社、絶版)。

 そうした森さんの芸の幅もまた、私たちが少し忘れかけている部分です。先日、音楽評論家の安倍寧さんから、浅利慶太演出でブロードウェイ作品「リンク」(1984年)を、森さんと前田美波里の母娘役で上演するという“幻の企画”があったと聞きました。これも驚きでした。

 安倍さんと森さんは、1958年(昭和33年)、森さんが菊田一夫(劇作家・東宝取締役)の招きに応じて上京した時からの付き合いだといいます。安倍さんの著書『喝采がきこえてくる』(KKベストセラーズ)の巻末には森さんとの対談が収められていて、打ち解けた口調で語られる森さんの思い出話が愉快です。

 その安倍さんが最近のブログ(「好奇心をポケットに入れて」)で、「森光子のディナー・ショウはバーブラのノリだった」というかつての文章を再録しています。1996年、生涯一度だけというディナー・ショーを、森さんが開いた時の話です。「放浪記」のモノローグから始まる幕開きに、まず安倍さんは感心させられます。少し長くなりますが、引用します。

〈人は唐突と思うかもしれないけど、私はバーブラ・ストライサンドのワンマン・ショウを連想し、心中ひとりでニヤリとしていたのである。 94年6月、ニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンで見たバーブラのコンサートは、第二部の冒頭、映画「追憶」のロバート・レッドフォードとのラヴ・シーンを映し出し、それをバックに彼女が登場するという演出だったが、森さんが「放浪記」で始めるというのは、つまりそれと同じノリではなかろうか。 このコンサートでバーブラは、「追憶」はじめ「晴れた日には永遠が見える」「ファニー・ガール」など自分の主演映画について、さまざまな思い出話を披露して、私たち観客を楽しませてくれた。もっとも、この手のお喋りはバーブラの専売特許ではなく、シャーリー・マックレーンやライザ・ミネリなどアメリカのエンターテイナーならば誰でもよくやる常套手段である。 とは言っても、彼女たちのようにブロードウェイやハリウッドでのキャリアがなくてはでき得る芸当ではない。単なる歌うたいでは、やりたくてもやれないだろう。 森さんのディナー・ショウを見て、日本の歌い手の同じ類のステージがなぜつまらないか、改めてとてもよくわかった〉

 読みようによっては非常に厳しい批評ですが、ここで絶賛された森さんは、この時、さまざまなレパートリーの歌を披露し、合間には当意即妙の語りをまじえ、文字通り聴衆の心をつかんだことが分かります。

 その森さんも女優になるまでの道のりはなだらかではありませんでした。まず突然の母親の死によって、進学した京都の女学校を1年で退学し、14歳にして従兄弟の俳優・嵐寛寿郎に預けられます。その後は、時代劇映画の端役として出演し、映画界に足を踏み入れますが、大きな花は咲きませんでした。歌手をめざし、歌謡ショーの前歌(まえうた・前座歌手)を務め、戦争中は軍の慰問団に加わって戦地を回り、戦後は進駐軍回りをしてジャズを歌いました。

 無理がたたって2年間の結核療養生活を送り、芸能界に復帰してからは、関西で喜劇役者として注目され、やがて出演していた芝居の演技を、たまたまハイヤーが到着するまでの暇つぶしに見ていた菊田一夫が目にとめて、それが彼女の東京進出への道を開きます。「運命の3分間」として知られる出会いです。

 そういう一代記を含めて、何度か会ってお話しする機会がありましたが、彼女の代表作である「おもろい女」「雪まろげ」「桜月記」などが上演される機会も減り、ましてや「千羽鶴」(川端康成)での山田五十鈴との共演を観ることもないまま、もっぱらテレビと「放浪記」で森光子という人を考えるしかありませんでした。歌手として、ディナー・ショーなどでのエンタテイナーとしての森さんを知ることもないままでした。これも、もったいなかったと思えて仕方がありません。

「女の役を演じる女優は、その役に同化する苦労をしながら、女としても、スクスク伸びて行く」、「演じた役を肥料として枝葉をのばし、花を咲かせ、実を結んで行った」と戸板さんは書いています。「川上貞奴以来、誰も、みんな、そうだった。そのひとりひとりが、どんなふうに大成して行ったかを探ってみるのは、ぼくには尽きぬ興味のある、うれしい仕事である」――と。

 戸板さんがいま再び「女優史」の筆をとれば、苦労の末に大輪の花を咲かせ、大成してなお向上心を失わなかった、森光子のために1章を割いたに違いありません。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)