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 頭の中の「煤払い」
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「落語って何だ?」と聞かれると、「人間の業(ごう)の肯定である」と答えたのが、1年前に亡くなった立川談志さんでした(2011年11月21日没)。

〈人間というものは、眠くなると寝ちゃうし、遊びたくなりゃ仕事を放り出すし、いくら“勉強しろ”と言われたって嫌(や)なもんは嫌だし。貧しい中でも奮励努力して立身出世して偉くなりました、という「業の克服」を描くのが講談で、逆に落語は“業を克服しろ”などと言わない。そのまま認めちゃう、肯定しちゃう。“人間てなあ、その程度のもんだよ”と〉(『談志人生全集 第2巻 絶好調』講談社)

 そんな話をふと思い出したのは、このあいだ、「忠臣蔵」のことが話題になったからです。年末ともなると、以前は決まって第九と「忠臣蔵」の特番ドラマをやっていましたが、最近はどうなのだろうか……と。

 そういえば、「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓……かかる折しも一人の浪士が雪をけたてて、サク、サク、サク、サク……」という三波春夫の長篇歌謡「俵星玄蕃」も、前は必ずどこかの忘年会で、誰かが演じていたものです。それも久しく見なくなった気がします。

 旧暦ですが、ちょうど310年前の、明日が討入りというわけです。時刻は午前3時頃。当時の感覚では、1日は日の出から次の日の出までなので、14日という認識でよいのだと聞きました。

 そんな話をしているうちに、立川談春さんの『赤めだか』(扶桑社)に出てくるエピソードが頭に浮かんできたのです。談春さんは中学生の頃に、上野鈴本に落語を聴きに行き、初めて談志師匠の高座を体験します。その時、談志さんは赤穂浪士の例を引きながら、落語について語りました。

〈忠臣蔵は四十七士が敵討ちに行って、主君の無念を晴らす物語だよな。普通は四十七士がどんな苦労をしたか、それに耐え志を忘れずに努力した結果、仇を討ったという美談で、当然四十七士が主人公だ。スポットライトを浴びるわけだ。でもね赤穂藩には家来が三百人近くいたんだ。総数の中から四十七人しか敵討ちに行かなかった。残りの二百五十三人は逃げちゃったんだ。……逃げちゃった奴等はどんなに悪く云われたか考えてごらん。理由の如何を問わずつらい思いをしたはずだ。落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ〉

 眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。理性ではどうにもならない人間の駄目な心の働きを「業」という。それを肯定するのが、落語なんだよ。「落語とは人間の業の肯定である」。よく覚えときな。学校じゃこんなこと教えてくれねェだろうから……。そして最後を、こう締めくくります。

「嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな」

 談志さんの話をし始めると、ついついそちらに引っ張られてしまいますので、話を忠臣蔵に戻します。ともかく赤穂浪士の側に脱落者が数多く出た(人間の業を逃れられなかった人々がいた)ということに照応するかのように、敵役である吉良側にも「討入り」について不可解な点が残されています。というのも、「吉良邸には、討ち入りをした人数の約三倍の手勢がいたのにもかかわらず、赤穂浪士側は死者なし。打撲傷を受けた者が三人とされている。これに対して、襲われた吉良側は、上野介の『首級(しゅきゅう)』を取られただけではなく、討死が十六人、手負いが二十一人であった」(谷田左一『敵討と切腹』)とされているからです。

 映画や年末特番ドラマで見ると、小林平八郎とか清水一学といった吉良方の剣士数名が奮戦し、派手な立ち回りが演じられたことになっていますが、実際はあっけないほどの彼我の攻防で、初めから勝負にもならない一方的な展開だったというのです。なぜ、そんなことになったのか。教えてくれたのは、思いがけない本でした。

 江戸時代には江戸城でも市中の商家でも、師走の13日に「煤払い(大掃除)」を行うのが年末の恒例となっていたそうです。吉良邸でもそれにならい、13日に「煤払い」を済ませ、翌日に年忘れの「茶会」を催そうということになりました。茶会があるということは、14日は上野介が間違いなく本所の吉良邸にいるということ。これは浪士たちにとって決定的な情報となりました。上野介の茶の湯の師匠である山田宗偏に食い込んでいた大高源吾が、「14日夜に年忘れの茶会がある」という極秘情報をつかみ、それが別ルートでも確認されたのです。討入り決行の日が、こうして確定したというわけです。

 茶会は上野介がホストとなって行う吉良家の一大行事です。茶の仲間である高家衆を招くとなれば、一家挙げての準備や進行が必要です。それが無事に終われば、一同安堵して、ぐっすり眠りについたとしても不思議ではありません。その寝込みを襲われたとすれば、吉良家の劣勢は明らかでした。

 ところがさらに、もうひとつの裏事情があると、園田英弘氏の『忘年会』(文春新書)が教えてくれます。そこに引かれている尾崎士郎のエッセイを、初出の『週刊新潮』(昭和31年12月10日号)で読んでみました。

〈年忘れの宴というのは、ずいぶん古くからあったらしい。昔のお公卿(くげ)さんが考えだしたものであることも確かなようである。…… 私の少年時代、忘年会という言葉は耳あたらしい響きを持っていた。私が史上、はじめて忘年会という言葉のあることを知ったのは、元禄十四年、十二月十四日の晩、本所松坂町の吉良上野邸に催された忘年茶会である。 私の郷里、三河、吉良町は吉良上野の所領で、吉良上野は死後三百年にわたって名君としての行状を伝えられているので、雪の夜の忘年会はこと更、強く凄愴たる思いを印象づけたのかも知れぬ〉

 つまり、ここで茶会といわれているのは、私たちが想像しているような優雅な茶会というよりは、飲食を伴った盛大な宴会だったらしいのです。言いかえれば、現代にも通じる「年忘れの酒盛り」で、つい深酒をしてしまった上野介の家来たちが、「寝込みを襲われてまともに戦えずに主君の首を刎ねられた」(園田)という解釈になるのです。

 これも人間の「業」を感じさせる話です。吉良邸の様子を窺っていた堀部安兵衛が、たまたま吉良家出入りの茶の宗匠・山田宗偏の門人から、宗偏と上野介の関係を聞き込んで、耳寄りの情報として大石内蔵助に伝えます。

 さっそく大高源吾が呉服商を装って、山田宗偏に近づきます。「江戸へ呉服を売りにきたが、お得意で茶を出されたとき、田舎者の悲しさで作法がわからず、いつも恥をかいている……」。こうして弟子入りを願い出るのです。

〈宗偏は大高源吾を一目見たとき、町人にあるまじき面ずれから、すぐさま赤穂浪士の一人と気づいたが、世を捨てた茶人としての自分の立場を考え、黙って入門を許した。源吾はおかげで吉良邸で催される茶の湯の納会の日どりを知り、目指す仇の在宅の日を確かめ、みごと本懐をとげたといわれている。講談などでは、宗偏が多額のワイロをとり、茶会の日記を読みやすいところに置いたとか、極秘情報をこっそり教えたことになっているが、これは脚色であろう。宗偏が浪士たちの忠義心と苦労に同情し、源吾に上野介の動静を暗示したという説もあるが、これも作り話めいており、すべてを見て見ぬふりをしていたというのがほんとうのところではないか〉(読売新聞社編『茶人物語』中公文庫)

 この山田宗偏といい、最後にやはり諜報活動に絡んでくる羽倉斎(荷田春満・かだのあずままろ)といい、脇役に一流の顔ぶれが揃っているのも忠臣蔵の面白さです。ともあれ、忘年会で派手な酒盛りをやったことが、吉良側の無抵抗、戦意喪失のいくばくかの理由になったことは間違いないようです。大雪の降った晩に、熱燗の酒はさぞや五臓六腑にしみわたり、一年の苦労が心身から溶け出すようだったでしょう。まさに「一年の憂さを忘れる」忘年茶会。そこから急転直下の出来事でした。

 談志さんの論法でいけば、討入り後の吉良家の家臣もまた、「どんなに悪く云われたか」想像がつくというものです。「理由の如何を問わずつらい思いをしたはず」です。

 さて、先の『忘年会』によると、この年忘れの宴のルーツは「一つの起源を持っているのではなく、いくつかの由来を異にする会合が、徐々に一つの行事になっていった」といいます。室町時代の皇族が認めた『看聞日記』には、その年の連歌会の納会は「先有一献。其後連歌初。会衆如例。夜百韻了一献。及酒盛有乱舞。其興不少歳忘也」とあり、時代が下って『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎、中公新書)では、仕事納めの日に同輩と、行きつけの店で酒を楽しむ様子が記されています。

 このように会合の形式も多様、主催者もさまざま、開催日のしばりもなく、宗教的な性格もない。いたって融通無碍な年中行事の一つでありながら、いまなお飽きもせず繰り返されているのが忘年会です。「由緒正しくない行事が時代を超えて生き抜く力があるという、逆説。これが忘年会の面白さだ」と著者は言います。

 とはいえ、時代の変化のせいか、年のせいか、次第に一年の過ぎ去るスピードが速く感じられ、忘年会に対する情熱は明らかに減退しています。年忘れというけじめもまたはっきりしなくなってきています。それでも「何かで一年を締めなければ」という気持ちが、まだ残っているのも確かです。

 衆院選と都知事選、ふたつの盛り上がらない選挙を脇目で見ながら、「業の肯定」もいいけれど、「業の克服」がないことにはね、と感じている年の瀬です。せめて頭の中の「煤払い」くらいはして、来年に備えたいと思います。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)