【考える本棚】
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 磯田道史『無私の日本人』(文藝春秋)
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先人に学ぶ生き方------------------------------------------------------------------------

 本書には、3篇の人物評伝が収められています。その中でもっとも長い冒頭の作品「穀田屋十三郎(こくだやじゅうざぶろう)」が、どういうきっかけから生まれたものか――。著者がその経緯を「あとがき」に書いています。東日本大震災をはさんだ、それ自体がひとつのドラマです。

 約10年前に書いた『武士の家計簿』(2003年、新潮新書)が評判となり、やがてそれが映画化され(2010年、森田芳光監督)、しばらくたったある日のこと。著者のもとに一通の手紙が舞い込みます。差出人に心あたりはありません。住所は「宮城県黒川郡大和町吉岡」となっていました。

 封を開くと、「自分は東北に住む老人である。『武士の家計簿』を読み、映画も見た。実は、自分の住む町にこういう話が伝わっている。涙なくしては語れない九人の篤志家たちの物語だ。この人たちがいたおかげで、自分たちの町は江戸時代を通じて人口も減らず、いまに至っている。磯田先生に頼みたい。ぜひこの話を本に書いて、後世に伝えてはくれないだろうか」――。

 実のこもった文面に心を打たれた著者は、さっそくこの9人について、史料を集めはじめます。埋もれた古文書を探し出し、「死者」の声をよみがえらせてきた著者ならではの本能と直観がそう命じたのでしょう。東京大学農学部の図書館で仙台叢書を閲覧すると、そこに『国恩記』という記録がありました。内容は、想像を絶するものでした。

〈調べてみると驚いたことに、この九人は武士が百姓から米を獲(うば)うだけの世の中に疑問を抱き、逆に、百姓が武士から金を取るあべこべの仕組みを作ろうとしていた。この九人については『国恩記』という詳細な記録が残されていることもわかった。やがて忘れ去られるであろう九人のことを書き記さねばと思った一人の僧侶がこつこつと書きためた記録であった。読んで、泣いた。古文書を読みながら涙がでてくることなど、これまでなかったが、とめどもなかった。それから、というもの、わたしは憑かれたように、この九人の話を書きはじめた〉

 近代文学が成立する以前の「ただの事件記録」であるにもかかわらず、『国恩記』には江戸人の表情がいかにもリアルに活写されていました。こんな例は滅多にみない、と著者が作中で感嘆するほどです。その迫力、躍動感をありのままに再現する――そのためには当時の時代空間(地方藩の統治形態、行政のあくなき収奪の論理、東北農村の社会的心性など)をしっかり書き込みながら、読みやすい小説仕立ての史伝にして、著者はこの240年前の物語を生き生きと現代によみがえらせます。見事な手腕という他ありません。

 吉岡宿とは、仙台藩の重臣・但木家所領の町ですが、藩の苛斂誅求をきわめる年貢の取立てのみならず、宿場町ゆえに課せられる人馬の強制的な徴発が耐えがたく、村は年々、疲弊するばかりでした。住人は一人、二人と流出し、家数は減り続け、「このままでは吉岡は亡ぶ。なんとかできぬか」と危機感を募らせたのが、町の有力者である穀田屋十三郎と菅原屋篤平治(すがわらやとくへいじ)の二人でした。彼らは、奇想天外な企てを思いつきます。困窮にあえぐ宿場町とはいえ、出せる者がまずなけなしの金を拠出して、千両(いまの約3億円)の基金を作ろう。そしてその千両を藩の蔵元(御用商人)に預けて運用すれば、年々、約100両(いまの3000万円)の利子がとれる。これを住民に配分して、町全体の負担を軽減し、吉岡宿再生の秘策としようではないか、というものです。

 賛同する者7名が集まります。彼らは足かけ8年、あらゆる辛苦に耐え、それだけの資金を準備します。並大抵のことではありません。倹約につぐ倹約を重ね、家屋敷・家財・衣類など一家の身代を犠牲にしても、町の公益のために悲愴な覚悟を貫きます。もちろん、その過程では揺れ動く人情のドラマがないわけではありません。また千両の準備もさることながら、この奇抜な計画をいかなる手順で実現するかといえば、そこには幾重にもたちはだかる煩雑な手続きが必要でした。おそろしく長い道のりでした。

 この時代の統治機構の壁、あるいは芸術的ともいえるようなお役所体質。すなわち、肥大化した行政組織の非能率、無責任、不作為――官僚主義の「たらいまわし」は、この時代に完成の域に近づいたかと思われるほどです。前例のないことは極端に嫌われ、彼らの嘆願も、一度は冷たく却下されます。しかし、実は藩の財政も火の車でした。やがて、この基金創設は認められ、町は危機を脱します。

 満願成就となって、9人は藩から金一封を賞与されます。「数年心がけ志願の儀、奇特である」との理由でした。ところが、彼らはそれすら私のものとすることなく、宿場の人々に与えつくします。「満願成就しても、なんの栄誉もうけぬ」という誓いをお互いに立てていたからでした。4年後に、58歳で世を去る穀田屋の遺言にはこうありました。

「わしのしたことを人前で語ってはならぬ。わが家が善行を施したなどと、ゆめゆめ思うな。何事も驕らず、高ぶらず、地道に暮らせ」

 こうして9人の恩恵を受けた吉岡宿は、やがて毎年暮れになれば、利息の100両を手にすることができ、「幕末にいたるまで、人口が減ることはなかった」といいます。踏まれても蹴られても、町の危機をわが身に引き受けて、初志を貫いた人たちへの感嘆が、著者の文章にはみなぎっています。「この人たちを埋もれさせてはいけない。忘れてはいけない」の一念が、この作品を書かせたといってもいいでしょう。

 本作執筆のために、著者が吉岡の町を訪ねようとした時に、あの大震災が起きました。被害を受けた現地を訪れ、手紙をくれたあの老人を探します。しかし、会うことはかないませんでした。重い病を得て、入院した後でした。そして本書の「あとがき」を著者が書いている最中に、その訃報を聞くことになりました。

〈ご老人の名は吉田勝吉という。一生かけて吉岡の九人の資料をあつめられ、これからというときに、病にかかり、「吉岡の九人のことを誰かに書き継いでもらいたい」とわたしにバトンを渡されたということがわかった。瞑目するほかなかった〉

 さて、残りの2篇もまた「奇特な生き方」をあえて選んだ人たち(近世の“畸人”の名を冠することもできるでしょう)の史伝です。「江戸時代を通じて空前絶後の詩才の持ち主」と評価され、また荻生徂徠にその学才を激賞されたにもかかわらず、仕官の気持ちはいっさいなく、極貧の中で儒学の研究に身を捧げ、「村儒者として生き、村儒者として死んだ」中根東里(なかねとうり)。「驚くべき思想の高みに達しながら、世に知られず、今日まで埋もれている不思議な人物」(磯田道史『日本人の叡知』新潮新書)を、徳川治世の時代にもっとも清貧に生きた学者として、著者は鮮やかに描き出します。

 いまひとりは、杉本秀太郎氏の著作によっても知られる幕末の歌人、大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)です。才色兼備の美女であったがゆえに、33歳で出家してもなお言い寄る男が絶えないために、自分の歯を一本、一本引き抜いて「老婆のごとき面相にみずからを変化(へんげ)させよう」とした「烈婦蓮月」の逸話があります。

 40歳過ぎから蓮月焼という陶器を創作して生計をたて、「常人の理解の域をこえ」た無欲さで、自分に拘泥しない質素な暮らしを続けます。一方、ふとした縁で知り合った45歳年少の、後の富岡鉄斎となる少年には事あるごとに助力を惜しまず、「ありったけの愛情と、芸術的感性」を注ぎ込みます。

 意表をつく行動を見せたのは、鳥羽伏見の戦いの後でした。旧幕府追討の軍を発しようとしていた西郷隆盛に和歌をしたため、江戸城総攻撃を諫めたのです。「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」。

〈後年、この話は伝説にすぎない、という者も出たが、そうではない。 西郷はこの和歌をみた。大津の軍議で、諸将にこの和歌を示し、この国内最大の内戦の在り方について、大いに悟るところがあったという。……江戸を火の海から救ったのは、蓮月という一女性の、まともすぎるほど、まともな感覚であった〉

 著者はこう述べて、素直な心の声を和歌に託した彼女の凛冽の人生を描きます。このように本書に登場する3人の人物には、はっきりとした共通点があります。「世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人」だということです。

 著者は、本来、日本人が育んできたはずのこの深い哲学が見失われることを恐れて、「いまどうしても記しておきたい三人のことを書いた」と語ります。そして「古文書のままでは、きっとわたしの子どもにはわからない」だろうから、こういう史伝の形を選んだのだ、と。

 ところで、ほぼ同時に刊行された著者の新刊に『歴史の愉しみ方』(中公新書)があります。その「まえがき」の中で、自分は「東日本大震災をきっかけに、研究の方向転換を余儀なくされた」と述べています。日本列島が地震の活動期に入った確率は高く、そうなれば、自分の役割は「これから起こる地震津波について、歴史から何が予見できるのか」を、古文書を読み解きながら書くことではないか、と思ったというのです。

〈江戸時代と同じように、南海トラフの地震が連動すれば、人口密度からして、今回の東日本大震災の一〇倍の死者が出ても不思議ではない。とくに静岡県西部、浜松市付近は、近代的な大都市を大津波が直撃する人類史上はじめての事例になるおそれがある。しかし、古文書を解読でき、なおかつ歴史時代の地震を研究する大学の日本史研究者が、東海地方には一人も常駐していない。これは困ったものだと思い、機会があったので、自らのぞんで、浜松の大学に転職し、江戸時代以前の地震や津波の古文書を探して研究する仕事をはじめた〉

 南海トラフの大地震は100年、150年おきに起きていて、500年に1回は途方もない大津波を起こしているといいます。けれども、三陸海岸でも明らかになったように、地元には必ず過去の災害記録が残されていて、そこには多くの貴重な情報が含まれています。だからこそ、自分の持ち場はいまだに解き明かされていない古文書の山に分け入ることではないか、というわけです。

『無私の日本人』が書かれるべくして書かれた理由の一端が、ここにも窺われるといえるでしょう。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)