【考える本棚】
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 河原理子『フランクル「夜と霧」への旅』(平凡社)
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それでも人生にイエスと言う
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 2011年春、ふと目に飛び込んだ知り合いの顔写真につられて、なにげなく読み始めた新聞記事がありました。朝日新聞夕刊連載の「ニッポン人脈記」。「生きること」と題したシリーズは、すでに4回目を迎えていました。その日は、ユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルの名著として知られる『夜と霧』(みすず書房)をめぐる近年の“ある出来事”について書かれていました。

 ナチスドイツの強制収容所における過酷な体験記。1946年に初めてウィーンで刊行された同書は、「一心理学者の強制収容所体験」というそっけない題名の薄い本でした。初版は3000部。売行きは思わしくなく、ほどなく絶版になりました。ところがそれを、1953年から西ドイツに留学していた臨床心理学者の霜山徳爾氏が、偶然、本屋で見つけたのです。そして、この本に深い感銘を受けた氏は、ウィーンに著者フランクルを訪ねます。

〈あらかじめ手紙で、面会とその目的を求めていたこともあって、彼は暖かな心からの親切で、この極東の無名の一心理学者をもてなしてくれた。病棟の案内から臨床の陪席まで、数日のウィーン滞在中、あらゆる便宜を私のために計ってくれた。…… かくして快活、率直な彼の魅力的な人柄にひかれ、私は彼と十年の知己のごとく親密になった。 その内で最も印象的だったのは、或る夜、彼に招かれて、ウィーン郊外の有名な旗亭アントン・カラスで、ワインの盃を傾けながら、彼からアウシュヴィッツでの語られざる話を聞いた時であった。謙遜で飾らない彼の話の中で、私を感動させたのは、アウシュヴィッツでの他の多くの苦悩の事実ばかりでなく、彼がこの地上の地獄の内ですら失なわなかった、堅い良心とやさしい人間愛であった。それは良質のワインの味すらも、全く消し去るほどのものであった〉(霜山徳爾「『夜と霧』と私」)

 以来、この本を何としても日本に伝えたいという使命感に燃えた氏は、自らその翻訳を買って出ることにします。いまでは約40の言語に翻訳され、世界中で1000万部以上出ている大ベストセラーですが、世界で最初に翻訳が出たのはアルゼンチンで、1955年。翌56年の日本は、2番目の国でした。

「原題のままでは売れない」と判断したみすず書房の編集者が、当時評判になっていたアラン・レネのドキュメンタリー映画(ナチスの極秘作戦名をタイトルにした対独戦争の記録映画)の題名をそのまま拝借しました。ですから、『夜と霧』というのは、日本独自の書名です。さらに、痩せこけた囚人たちの裸の死体の山や死体焼却炉などのショッキングな「写真と図版」約40点と、ドイツの戦争犯罪に関する長い「解説」などを、フランクルの本文をはさむ形で加えました。こうして1956年8月15日、定価250円で発売されると、たちまち2ヵ月で12刷という爆発的な売行きを示します。

 当時の中吊り広告では「一千万人を虐殺した鬼気迫る、大殺人工場の実態」と謳われたように、かなりセンセーショナルな販売戦略がとられました。実際、私自身がこの本を手にしたのは1972年ですが、その時も、ナチスの残虐行為を暴露した体験記だという先入観がありました。

 とはいえ、霜山氏の情熱によって日本にもたらされた『夜と霧』は、ロングセラーとして定着し、フランクルの他の著作も順を追って紹介されていくのです。それが2002年、同じみすず書房から『夜と霧 新版』として新訳が刊行されます。霜山氏が依拠した1947年版ではなく、1977年版の新版にもとづく改訳でした。同時に、それまでの「解説」や写真を外して、フランクルの本文だけのシンプルな体裁として生まれ変わったのです。同書の「発見者」でもあり最大の功労者とも言うべき訳者存命中に、新訳が同じ版元から並行して出版されるというのは、かなり思い切った決断です。同業者として、この経緯を驚きながら見守ったものです。

 さて、話を最初に戻すと、夕刊の新聞記事はまさに、この新訳刊行をめぐるドラマを紹介したものでした。新旧それぞれの訳者の胸のうちに交錯した思い、「アウシュヴィッツ告発本のようなつくりを改めてほしい」というフランクル自身の要望、それを受けとめた版元担当者の心中などが語られ、『夜と霧』という一冊の本に寄せるさまざまな真情が迫ってくる、興味深い内容でした。誰しもがそれほどの強い愛着を抱く『夜と霧』とはいったいどういう本なのか。改めて考えないではいられませんでした。

 加えて、その連載シリーズは「生きること」と題されていました。連載のスタートが、2011年4月18日。東日本大震災からほぼひと月後でした。このタイミングになったのは、まったく偶然だったといいますが、「生きることの意味」を問い続けたフランクルの存在が、これを機に再び注目されるようになったことも事実です。

 本書は、その時の連載をもとにしながら、担当記者がさらに思索を深め、また再びヨーロッパの地を訪れて丹念な取材を重ね、じっくり熟成させた労作です。

〈どんな運命に見舞われたとしても、人は運命に翻弄されるだけの存在ではなくて、不条理を引き受け、運命に対してどんな態度をとるか決める精神の自由があるのだ、とフランクルは説いた。それでも人生にイエスと言うことができるのだ、と。そうした考えをフランクルは、あの強制収容所の生活のなかで確かめたのだ〉(まえがき)

 ひとつ告白すると、こうしたフランクルの本質的な問いかけをすっかり取りこぼしていたのが、最初に『夜と霧』を読んだ時でした。大学に入学した直後の一般教養の授業で、ある名物教授がサブテキストとして推挙した本の一冊に『夜と霧』がありました。他には、ヴィルヘルム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』(せりか書房)やルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所――所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』(サイマル出版会、現在、講談社学芸文庫)などがあり、ソルジェニーツィンの『煉獄のなかで』、『ガン病棟』(ともに新潮文庫、絶版)などと合わせて、まとめて一気に読んだというのが思い出です。

 何とも乱暴な話で、ナチスの残虐性を「告発」する激烈な内容を期待していた目には、静かな筆致で「人間精神への絶対的な信頼」を語るフランクルの書は、やや当てが外れたように思えたものでした。ところが、本書を読むと、この著者もまた『夜と霧』との最初の出会いは、必ずしも幸福なものではなかったと述べています。同書とまっとうな出会いをするまでに、20年近くもの時間を要した、と。

 偶然とはいえ、本を購入した場所も同じ、また「読んだ」とは言えないほどの読書体験に終わったことも同じ、でした。違うのは、「十代の終わりに手にとり、ろくに理解しなかったフランクルの本」を、著者はその後、何度も読み返しながら、奥深くに分け入り、フランクルの声にじっと耳をそばだてていたことです。

 それにしても、日本ではなぜ、フランクルの本が多くの人々に読み継がれてきたのでしょうか。本書の中でも実にさまざまな人たちが彼の言葉に深い影響を受けています。詩人、作家、心療内科医、ガンを患ったエッセイスト、凶悪な殺人事件で肉親を奪われた人、精神障害者施設の支援者、ソーシャルワーカー、児童養護施設出身の若者を支援するNPO法人の主催者、カウンセラー、ロゴセラピスト(相談者が生きる意味を見つけ出すのを手助けするフランクル式セラピーの継承者たち)……。フランクルの言葉を希望の杖にしてきた人々の幅と広がりを見るだけでも、驚きを禁じ得ません。

 フランクル自身の人生を追う旅も、抑えた筆致で胸に迫ります。37歳から40歳までの約2年7ヵ月を4つの収容所で過し、その間に衰弱した高齢の父を看取り、母をアウシュヴィッツのガス室で喪います。最愛の妻は1945年4月15日に解放されますが、再会を果たすことなく病没します。押しつぶされそうな体験を重ねながら、しかしフランクルは生還を果たします。著者は彼の送り込まれた収容所跡や、ゆかりの人々を現地に訪ねながら、フランクルの言葉の背景を探っていきます。

〈ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、……もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される〉(『夜と霧 新版』池田香代子訳、みすず書房)

〈人間はあらゆることにもかかわらず――困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても――人生にイエスと言うことができるのです〉(『それでも人生にイエスと言う』春秋社)

 彼の思想の中核をなす考えやメッセージが、「癒しや励ましのおまじないではなくて、……苦悩を焼き尽くす状況のなかで、鋼のようにして鍛えられた思想だった」ことを、彼の足どりをたどることで、著者は身をもって感じ取っていきます。

 あるいはまた、「人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる」と言い、人間は善人にも悪人にもなり得るのであって、集団に「悪魔」のラベルを貼って単純化するのではなく、罪は個人に問うものだというフランクルの主張が、ナチスを許す発言だと誤解され、反発を受けた事実にも目を向けます。

「ナチズムは人種的狂気をひろめました。けれども、本当に存在するのは二つの『人種』だけです――品格ある人たちと、そうでない人たちと。……強制収容所のなかでも、ときにはちゃんとした親衛隊員に出会うことがありましたし、またならず者の囚人もいたのです。ちゃんとした人たちが当時少数だったこと、またいつもそうだったこと、これからも少数派にとどまることを、私たちは受けいれるしかありません」

「だからあえて言う。どこの国だって、別のホロコーストを引き起こす可能性があるのです!」

 ナチスドイツによるオーストリア併合から50年目の1988年3月10日、ウィーン市庁舎前広場で開かれた記念式典で、フランクルはこう訴えたといいます。

 豊かな現代日本においても、いつの時代においても、生きる意味を見いだしかねて「実存的空虚」に苦しむ人は絶えません。その中にあって、『夜と霧』をはじめとするフランクルの著作がいかに「人生からの問い」に向き合う手がかりを与えてくれるか、「良心」にてらして社会に抗する勇気を与えてくれるか――が、自問する著者の文章を通して、染み入るように伝わってきます。

 本書を閉じると、ここに登場したさまざまな人たちの言葉が蘇ってきました。その中に、霜山徳爾氏に夜学で教わったという女性の言葉もありました。大学近くの印刷屋でぎりぎりまで働いて、授業にかけこんでいたそうです。帰りは寒くてひもじかった。けれども「霜山先生の授業をきいた夜は、暖かかった」、「『夜と霧』は祈りみたいな本でした」と。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)