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 さらば、銀座シネパトス
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 4月2日の「歌舞伎座新開場」が間近に迫ってきている一方で、3月31日のク
ロージングに向けてのカウントダウンに入ったのが、三原橋地下街の「銀座シネ
パトス」です。1998年に銀座並木座が閉館となった後は、銀座唯一の名画座とし
て映画ファンに親しまれてきました。ところが、東日本大震災をきっかけに、こ
の地下街の耐震性の問題が急浮上し、昨年の7月に、晴海通りを管理する東京都
が取り壊しを決定したのです。

「三原橋地下街」とはいっても、実際は晴海通りの下をくぐり抜ける長さ50メートルほどの地下道です。「何だろう?」と思って覗き込むような階段を下りていくと、幅10数メートルの通路の片側に飲食店と理髪店、そしてシネパトスの1館、もう一方の側に2館が並んでいて、昭和の名画から硬派のドキュメンタリー、アクション、バイオレンス、ホラー、ポルノまで、まさに「なんでもあり」のラインアップで映画がかかっています。

 もともと三原橋というのは、江戸時代に作られた運河の上に、1929年(昭和4年)に架けられた橋の名前です。ところが、昭和20年の東京大空襲によって夥しい量のガレキが生じ、それらを処理するために、運河が埋め立てられることになりました。そして昭和27年、この作業が完了した後に、残された橋を活かす形で「三原橋地下街」が誕生するのです。ですから、よく見ると地下街の天井はアーチ形の橋の面影がそのままです。上を走る晴海通りも、路面がやや橋の形に盛り上がっていることが分かります。

 つまり、「三原橋地下街」というのは戦前の名残りをとどめる一方で、戦災処理の結果として生まれた、きわめて戦後的な空間です。さらに言えば、焼け跡闇市以来の日本人のバイタリティーそのままに“ごった煮”といってもいい雑多な映画をかけながら、文字通り“アンダーグラウンド”のいかがわしさ、戦後復興期の猥雑な空気を、今日までしっかりと受け継いできた“聖地”だと言うこともできます。しかも、銀座の表玄関である4丁目交差点とは目と鼻の距離にありながら――。

 ですから、ここに来ると、同じ映画を見ていても、昔に引き戻される感覚があります。テレビが登場する以前の、映画が「大衆娯楽の王様」であった時代の匂いのようなものを呼び覚ましてくれるのです(私の世代ではもう微かな記憶でしかありませんが)。

 実際、ここにそれほど足しげく通ったわけではありませんが、たまにこの地下街を覗いてみると、チケット売場のあたりには昼下がりの時間などに、ヒマを持て余しているとしか思えない人や、素性のよくわからないオジさんや、明らかに時間つぶしに来ている営業マンなどを見かけたものです。「これを観るぞ」という目的があって来ているわけではなく、ここに来れば何かやっているのではないかと、フラリと立ち寄ったふうの人たち。マチガっても、デートでやって来るカップルがいないことだけは確かです。

 そんな“小屋”ですから、すぐ足元を走る地下鉄が轟かせる「シネパトス・サウンド」もまたご愛嬌でした。映画のシーンとはまったく無関係に挿入されるこの効果音あってのシネパトス。こじつけの感もありますが、それすらも劇場の個性の一部だという不思議な魅力がありました。

 だからこそ、ですが、閉館決定の知らせが流れた瞬間にも、普通では考えられないような“化学反応”が起きました。一人のシネパトス信奉者の心の中に、「コノヤロー」という憤りとともに、突飛なアイディアがほとばしったのです。「あのまがまがしい震災がこうしてわれらが映画のサンクチュアリをぶち壊すのなら、最後にこの劇場を舞台にした映画を作って狂い咲きの花火をあげようではないか」――と。

 映画評論家の樋口尚文さんです。「通りいっぺんのサヨナラ興行で淋しく幕を閉じるのではなく、ここを舞台にしていろいろな観客が集う映画を作って、この劇場のラストショーにするのはどうか?」。樋口さんは、ミニシアターがブームとなったバブル前後の時期にも、シネパトスが「アート作品ばかりに偏ったシネフィル向けの劇場」にすり寄ることなく、「すべての映画を分け隔てなく肯定し、応援してきた」ことにいたく共鳴していました。「しかも、そういうグレートな志をたたえる劇場であるという『自意識』をついぞ劇場自体が持ったことがないところが、さらにシネパトスを愛すべき映画館にしています」と。

〈思えば、この劇場が伝えようとしていた「昭和」は……誰もが好きなことでハメをはずし、弾けることで文化も経済も右肩上がりに発展した日だまりの時代でした。しかし、今の元気のないニッポンでは大人も若者もはみ出すことを恐れ、いじいじと守りに入っています。

 昭和の血が騒いだ私は、この無謀な映画づくりの思いつきを、気でもふれたかのごとく、昭和の日本映画を愛する名スタッフ、名キャストの皆さんに語り歩きました。この時点ではシナリオなど一切ありません。大多数の方に首をかしげられ、あえなくこの夢物語は頓挫するであろうと踏んでいたところ、意外にも!どなたも断る方はいませんでした。それどころか、こんな昭和っぽい無茶な思いつきに、私の話の終わらぬうちに皆さん「乗った!」とおっしゃってくださったのです〉(樋口尚文「昭和の逆襲」、作品プログラムより)

 こうして、劇場映画は初監督となる樋口さんが自らメガホンをとり、「映画愛」のかけ声のもとに、「震災の影響で閉館が決まったおんぼろ名画座」を舞台にした、映画「インターミッション」の企画が動き始めたのです。

 樋口さんの呼びかけに応じた人たちは、文字通り「手弁当」で結集しました。主な出演者を挙げていくと、主人公となる名画座の支配人夫婦を演じた秋吉久美子、染谷将太ほか、香川京子、小山明子、水野久美、竹中直人、佐野史郎らの名優たち、寺島咲、杉野希妃、奥野瑛太、森下悠里らインディペンデント映画で活躍する若手たち、それに日頃から何か面白いことがしたくて「ウズウズしていた」というベテランスタッフらが顔を揃え、日本映画史上例を見ない「手作り産直公開映画」が誕生したのです。

 ともかくありきたりでない熱量が作品にはみなぎっています。映画館の閉館を意識した、しみじみとした懐古調はゼロ。最後に一発、派手な花火を打ち上げようぜ、という祝祭的な気分が横溢しています。ノスタルジーではなく、「みんなが楽しく無茶をやっていた昭和のアナーキーな精神をこれから未来に向けて『伝承』する、とことんポジティブな作品」を志向しています。

「インターミッション」とは、長編映画などで設けられる休憩時間のこと。作品紹介は控えておきますが、オムニバス形式の14の物語が展開する構成です。舞台となる映画館に現れる怪しい観客たちが、それぞれ奇想天外の、先の読めないドラマを演じるのです。過去のさまざまな映画的記憶をくすぐる演出や、映画好きにはたまらない仕掛けもたっぷりありますが、ともかく作品自体が「なんでもあり」のびっくり箱になっていて、シネパトス精神の真髄というべきものを、ここにすべてぶち込んだという感じです。

 樋口さんは商業映画初監督だといいますが、学生時代に作った自主映画を激賞してくれたのが大島渚監督だとか。以来、30年以上もの交流が続いていたそうです。ところが、ちょうど試写の前日(1月15日)に、大島監督の訃報が伝えられました。エンドクレジットに「賛助 大島渚」とあるように、「今回のプロジェクトも監督の物心両面にわたる応援があったればこそ」、「50歳の初監督に温かく手を差し伸べてくれました」と樋口さんは語ります。夫人である小山明子さんが、25年ぶりに映画出演したというのも、そういう背景があってのことです。

 さて、この「インターミッション」と「映画でよみがえる昭和――銀幕の銀座」特集などが、さよなら上映として最終日まで続きます。そして3月31日、成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」、「女が階段を上る時」が掉尾を飾り、シネパトス45年(映画館としては60年)の幕が閉じられます。戦災のガレキによって江戸時代以来の堀が埋め立てられたように、大震災の余波を受けて地下街は取り壊しとなります。

 気になるのは、これまでフラリとここに来ていた人たちです。「ヒマつぶしに、どれ、映画でも見るか」といった様子で、チケット売場のあたりをウロついていた、あまりパッとしない人たち。彼らは次にどこへ行くのでしょう。お洒落なシネコンやミニシアターが、とても彼らの欲求を引き取る“度量の大きさ”を備えているとは思えません。

 うらぶれた場末感の漂う小屋だからこそ体験できる映画の快楽。あやしげな地下の闇の中だからこそ見える夢。時代の流れといえばそれまでですが、この吹き溜まり感はこれからどこへ流れて行くのでしょうか。気になるのは、むしろそちらです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)