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 没後30年という節目
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 数日前、人と雑談をしていて、ふと思い出した光景があります。早稲田のパチ
ンコ店に、刊行されたばかりの小林秀雄の『本居宣長』(新潮社)が景品として
並べられ、それをいち早く勝ち取った友人が意気揚々としていた姿です。彼は
『吉本隆明全著作集』(勁草書房)の大半もそうして手に入れたつわものでした
が、小林秀雄畢生の大作がパチンコの景品として並んでいた時代があったという
ことを、いまの人は想像できるでしょうか。

 そして、これは私もすっかり忘れていましたが、この『本居宣長』の刊行を待ちかねていた愛読者が、発売日に直接新潮社まで本を求めにやって来て、それが長い列をなしたことがニュースになりました。当時、それを7時のNHKニュースでたしかに見た記憶があるのです。また年の暮れには、この本がお歳暮としても重用されたといいますから、うたた今昔の感にたえません。

 そんなブームから5年余りして、1983年3月1日に小林秀雄は他界します。今年がちょうど没後30年という節目です。そこで、本日発売の「考える人」春号では、「小林秀雄 最後の日々」と題する特集を組みました。

 先に「芸術新潮」2月号が「小林秀雄 美を見つめ続けた巨人」という特集を行い、また「新潮」4月号が「2013年の小林秀雄」と題して有力批評家による評論3作を掲載しましたが、こちらは「最後の日々」というタイトルが示す通り、「昭和の知性」を代表する人物が80年の生涯の最終章をどのように迎えたのか――稀代の批評家が自らの人生にどのように幕を引いたのか、を垣間見ようという狙いです。

 小林秀雄については、中原中也、長谷川泰子との運命的な出会い、「様々なる意匠」での伝説的な文壇デビュー等々、「批評家」誕生にいたる若き日のドラマには、たえず強い関心が寄せられてきました。先週末、北鎌倉にある小林の墓を訪れたところ、ファンが供えていったと思われる、岩波文庫版の小林秀雄訳、ランボオ『地獄の季節』が墓前にありました。「疾風怒濤」時代の小林がいまなお人を魅了してやまないのは、よく理解できるところです。しかしその一方で、『本居宣長』を1977年10月に刊行した後、彼がどのように最後の時を過していたかは、これまでほとんど語られていませんでした。今回の特集では、そこにふたつの観点から光を当てようと試みます。

 ひとつは、死の前年の暮れ、天が小林に授けた「最後の音楽会」についてです。1982年12月28日、NHK教育テレビでヴァイオリニスト、メニューインの三度目の来日コンサートの映像が放送されました。これを二階の寝室で休んでいた小林が、「いつの間にか、食堂まで降りて来て、妻と一緒に、その放送を最後まで聴いた」時のことです。

 終生、音楽を愛してやまなかった小林は、1951年にメニューインが初来日した際、日比谷公会堂でその音色に酔いました。そして、翌朝の新聞には、胸の高ぶりを隠そうともしない「あなたに感謝する」の一文が発表されます。その縁に結ばれたメニューインとの再会と別れのひと時が、死の約2か月前に訪れたというわけです。人生の最後に再び小林が耳にした曲目が何であったのか。その3つのヴァイオリン・ソナタとの深い因縁を説き明かしながら、小林秀雄と音楽、彼の人生と文学を鮮やかに浮かび上がらせたのが、新鋭・杉本圭司氏の長篇評論「契りのストラディヴァリウス 小林秀雄、最後の音楽会」です。

 そして、もうひとつの柱としたのは、小林にとって「最後の対談」となった盟友・河上徹太郎との対談「歴史について」です。対談自体は、1979年7月23日に「文學界」創刊500号記念として行われたもので、その年の同誌11月号に掲載されました。いまでも「小林秀雄全集第14巻」、「小林秀雄全作品第28集」(ともに新潮社)で読むことが可能です。

 今回、私たちが踏み切ったのは、その対談現場の生の音源をCDの形で「初公開」することでした。いまのように、対談のライブ風景がそのままインターネット中継されたり、音源がすぐに流通するのが当り前と思われている時代からは想像できないことかもしれませんが、小林秀雄のこうした肉声を発表するには二重、三重の厳重な鍵がかけられていたと言っても過言ではありません。

 第一に、話し言葉をそのまま文字化することへの小林自身の厳しい戒めがありました。そもそも、対談記事というのは、対談の席で実際に語られたものがその通りに活字に起こされているわけではありません。編集者が速記をもとに構成を整え、内容を取捨して整理稿を用意し、この整理稿に対談の当事者が筆を加えて完成させます。この小林・河上対談も同様の手順をふんで、いま私たちが読むことのできる形に仕上がりました。したがって、私たち編集者の職業倫理としては、「作品以前」の生の音源を公開するということ自体、ある意味で「掟破り」だと言われても仕方ありません。

 加えて、こうした際の小林の加筆は苛烈をきわめたものでした。常に編集者の整理稿は跡をとどめぬほどに筆が加えられました。現に、今回の特別付録CDと対談記事を読み比べ(聞き比べ)ていただくとすぐに分かることですが、これらはまったく別種のものだと言ってもいいほどに書き改められています。文筆家としての矜持にかけて、執筆原稿と同様に、小林が対談記事に真剣に臨んだ結果です。

 こうした態度は、講演についてもまったく同様でした。そもそも講演の依頼自体を基本的には断り続けた小林ですが、仮に引き受けた場合でも、自分の話をテープに録ることは断じて許さず、たとえ速記録であっても、自分の目を通さないままでは絶対に活字化させないという姿勢を貫きました。何度か出講の機会を取り付けた国民文化研究会理事長だった小田村寅二郎氏は、小林から次のように厳しく釘を刺されたと証言しています。

〈僕は文筆で生活してゐます。話すことは話すが、話すことと書くこととは全く別のことなんだ。物を書くには、時に、一字のひらがなを“は”にするか“が”にするかだけで、二日も三日も考へ続けることだつてある。話したことをそのまま活字にするなどといふことは、NHKにだつて認めたことはないし、それはお断りします。録音テープを取るのも困る〉(「二十年余の御縁をいただいて」、「新潮 小林秀雄追悼記念号」1983年所収)

 しかし、小林のせっかくの肉声が消えてしまうのを惜しんだ、講演会の主催者たちが何人かいました。今日、小林の肉声に私たちが触れることのできる新潮CD「小林秀雄講演」全8巻は、担当編集者が小林の死後、かろうじて残っていたテープを元に、この講演録はなんとしても後世に残さなければならない、という思いで、粘り強く実現にこぎつけたものです。「先生のお気持ちは百も承知のうえ」、「来世で先生に破門されることも覚悟」して、小林の遺志をよく知る遺族の意向をはかりながら、慎重にことを進めた結果です。

 ましてや、より即興的な(講演ほど事前の準備が行われていない)対談の生の音源です。話し言葉がそのまま世に出ることを拒絶した小林の強い口調を知る以上、よほどの理由がない限り、これを公開するなどということは想定外でした。厳重な鍵が幾重にもかけられていたというのは、そういう理由です。

 ただ、私は今回の音源を10年ほど前に初めて聞く機会がありました。講演とも違う、小林の体温を感じさせる声がそこにはありました。小林の語り口は五代目古今亭志ん生に似て、落語を聞いているようだと言われますが、たしかに歯切れのいい東京ことばで、ざっくばらんな調子。テンポよく畳みかけていく勢いがあるかと思うと、「はー、さよか」などといきなり大阪漫才が飛び出してくるような箇所もあり、ユーモラスで思わず聞きほれてしまう魅力があります。

 この語り口によってしか触れることのできない小林の人柄がある。そして、最晩年の心境を伝える貴重な記録である――私はただ感動して聞き入りました。60年におよぶ唯一無二の親友である河上徹太郎との対談だということ、お互いに同人として、若き日にともに参画した「文學界」500号記念であること、そしてこれが「今生の別れ」になるかもしれないという予感のなかで行われたこと、さらには活字化されなかった部分に含まれるきわめて重要な発言、等々……。没後30年という潮時を得て、いまこそその封印を解くべきかと考えました。

 ただ、公開することの意義を自分なりには確信していましたが、その思いを汲んでいただき、ご快諾くださったご遺族には感謝の言葉もありません。また、文藝春秋の協力もありがたい限りでした。このCDの価値については、小林、河上両氏の担当編集者だった坂本忠雄氏に「友情の還暦」として、解説を加えていただきました。また長女の白洲明子さんにはCDをお聞きになった感想をお書きいただきました。題して「よっぱらい」。

 たしかに、気の許せる、そして「考える」ことを一生の仕事に選んだ者同士の、上機嫌な酒席でのやりとりは、何度聞いても飽きません。そして圧巻は、河上が立ち去った後で、最後につぶやかれる小林の独白です。これは、何度聞いても胸が詰まります。「小林秀雄 最後の日々」に、この音源が不可欠であると確信した理由です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)