【考える本棚】
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 山本周五郎『樅ノ木は残った』
(山本周五郎長篇小説全集第1巻・第2巻、新潮社)
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“マイブーム”の予感
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 6月12日、山本周五郎の新しい全集が発売になりました。「画期的な脚注」で読む、新しい山本周五郎、というのが今回の謳い文句です。

 刊行に向けて、3年ほど前から着々と準備が進められてきました。大変な作業だなあと、脇でそれとなく眺めていましたが、実際のところ、何が「画期的な脚注」なのか、得心していたわけではありません。あらかた文庫本ですでに読み終えている「ヤマシュウ」だけに、なおさらのことでした。

 第1回配本は『樅ノ木は残った(上・下)』の2巻です。再読すれば、40年ぶり。どんな発見が待ち受けているのか、さっそく“体験読書”してみました。

 その報告をする前に、脚注についての個人的な“偏見”をひと言述べさせていただきます。最初に苦手意識を持ったのは中学生の時でした。何かの機会にプレゼントされたジュニア向けの名作文庫で、いきなり躓いたのが、リアルすぎる挿絵と学習参考書まがいの脚注でした。めぐり合わせが悪かったとしか思えないのですが、その「教育的配慮」が鬱陶しくて、すっかり読書の興が殺がれてしまったのです。背伸びしてでも大人ぶりたい10代の虚栄心には馴染まなかったのだと思います。結局その本は人にあげてしまいました。

 さらに古典文学に付されている「註」も苦手でした。こちらは愛想がなさ過ぎました。言葉遣いがいかにも学問的(教科書的)で、読んで少しも楽しくありません。現代小説と違って、ただでさえハードルの高い世界に挑もうとしている時に、気力を萎えさせる逆効果しかありませんでした。

 要するに、個人的には脚注というものにいい思い出がなかったのです。むしろ長い間アレルギーを植えつけられてしまっていたのです(それだけに、田中康夫氏の『なんとなく、クリスタル』が登場した際には、脚注に対する積年の恨みに一矢報いたような痛快さを感じたものです)。ところが、先日、「考える人」春号で小林秀雄と河上徹太郎の対談「歴史について」を再録した時です。この対談テキストに付されていた脚注(小林秀雄全作品第28集所収)を、初めて丁寧に読みました。驚きました。理解の手助けとなるだけでなく、本文の面白さを際立たせたり、新たな興味をかきたてる脚注だったからです。しかも専門的な、難しい言葉は一切使われていません。それが、今回の伏線となりました。

 さて、『樅ノ木は残った』を最初に読んだのは、1970年に放送されたNHKの大河ドラマがきっかけです。「太閤記」(1965年)を大ヒットさせた茂木草介(脚本)、吉田直哉(演出)というコンビが創意を凝らし(ために原作者とはトラブルも生じたようですが)、映像的にもいろいろ新しい実験が行われていました。主役の原田甲斐に平幹二朗。他の出演者も夢のようなキャスティングでした。ただ、記憶にある限り、評判はあまり芳しいものではなく、地味で面白みに欠けるとか、動きが少なくて暗い、といった感想が大半でした。

 けれども、単純な勧善懲悪ドラマに物足りなさを感じていた生意気盛りの高校生には、このやや入り組んだ悪人復権の物語が逆に魅力的に映りました。日常ではなかなかお目にかかれない、深謀遠慮の人物像、複雑怪奇な大人の劇だからこそ、息をつめて見る価値があると思えたのです。そして原作も読んでみたいと思いました。

 今回、再読してみると、信じがたい気持ちに襲われます。感銘を覚えた部分に大きな差異がないのも意外でしたが、一方で、こんなに凝縮された小説を、よくあの年で挫けもしないで読み通したな、ということが驚きでした。言い換えれば、脚注も何もない状態で、「いったい何を読んでいたのだろうか」と、ア然ボー然といった気分です。おそらくストーリーを追って、ずいぶん荒っぽい読み方をしたのだと思います。言ってみれば、熟成したワインをじっくりと味わうこともなく、ただ勢いでガブガブと飲み干したような……。

 ですから、今回の脚注の功績をひと言で言うならば、いいソムリエにめぐり合ったという感じです。場にふさわしい適切な説明を受けながら、ヴィンテージ・ワインの歴史や背景を知り、その色を愛で、香りを楽しみ、じっくり味わうためのサポートを得たという満足感です。しかも、脚注は自分が必要とするものだけを拾っていけばいいわけですから、美術館のイヤホンガイドなどよりも、こちらのわがまま勝手が通ります。必要ないところでは先を急ぎ、ここはという箇所では立ちどまり、という実に気ままな活用が許されます。

 マラソンにたとえれば、脚注は小刻みな給水ポイントのような感じで、走りのリズムを支えます。行き届いたサポートは、ざっと分類すれば、こんな感じになるでしょうか。

1. 人物紹介・人間関係を知る……「酒井雅楽頭(うたのかみ)」とは誰か。  「一ノ関さま」、「船岡どの」とは誰を指すか。2. 地名が分かる……「大川端」って、江戸のどこ?3. 武士の役職・身分を知る……「兵部少輔」、「納戸役」、「側衆」とはどう  いう役職?4. 武士の暮しぶり……「部屋住」とはどんな立場の人? 「御番あけで帰国す  る」って、どういうこと?5. 町人の暮しぶり……「手代」とはどんな役割の人? 「町の木戸が閉まる」  って、どういうこと?6. 道具……「行燈」、「長火鉢」は分かるにしても「十能」、「火桶」となる  と?7. 住まい……「あがり框(がまち)」、「土間」、「地袋」ってどんなもの?8. 服装・履物など……「帷子(かたびら)」、「継ぎ峠(かみしも)」とはど  んな衣服?9. 色の名前……「浅黄色」は「緑がかった薄い藍色」、「納戸色」は「ねずみ  色がかった藍色」、「鴇(とき)色」は「薄紅色」。10. 食べもの……「くるみ味噌」、「梅びしお」。幼年時代の甲斐が山番の小屋  で食べていた「粟(あわ)」や「稗(ひえ)」とは?11. 植物……「肉桂(にっけい)」、「枸杞(くこ)」って聞いたことはあるけ  れど……。12. 現代では見慣れない表現……「わる好み」とは何を指し、「袴の股立(もも  だち)を取る」とはどういう仕草か?

 他にもまだまだありますが、江戸検定でも受けようという人はいざ知らず、意外に「分かったつもり」でいた言葉が、実はあやふやな知識だったという発見もたくさんありました。おそらく、「土間」や「濡縁」は、あと10年も経つと、日本人の普通の生活空間からほぼ100パーセント姿を消すでしょう。こういった項目が、時代小説通ではない人たちに合わせて、平易な言葉で簡潔に書かれています。ありがたいのは、物語の流れを阻害しないこと。つっかえることなく読み進めながら、各所の給水ポイントに立ち寄れば、何げなく読み過してしまいそうなところに意外な味わいのあることが分かります。

 そしてやや“トリビア”ではありますが、脚注が見開き完結主義で貫かれていることも重要です。註が次のページにまたがることがなく、1ページ12字×25行の枠内に、すべてが収められています。こういう細かな“こだわり”は、一見どうでもいいことのようですが、実はとてもありがたい配慮です。長篇を読むというのは、マラソン・レースにも似て、些細なストレスの蓄積が徐々に集中力を奪います。余計なエネルギーは浪費しないのが一番です。脚注がそのページ内で完結していることは、読み手の負担を軽減します。

 同様に、脚注の場所にも気遣いがあります。基本的には該当箇所の真下より、ほんの僅か前にあること。人間工学的な根拠は分かりませんが、見やすさという点では絶妙のポジションだと感心します。

 といったことを体感しながら、作品に向き合って思ったのは、こんなにも重厚な世界だったかという驚きです。上下巻で1142ページという大作でありながら、一行一行に細かく神経が配られていて、いささかの緩みもありません。人物の出入りが激しいにもかかわらず、まったく破綻が見受けられません。そして改めて舌を巻いたのは、江戸という時代に軸足をしっかりと定め、登場人物の語彙から心理に至るまで、当時の人間像に限りなく肉迫しようとしている作家の姿勢です。どれだけの研鑽を積み重ねたのかと、驚嘆するばかりです。

 名セリフ、名場面もふんだんにあります。両親を惨殺され、甲斐に引き取られた幼い娘・宇乃が、庭の樅の木を見上げながら甲斐と交わす会話は、前半の白眉として有名です。

〈「宇乃、この樅はね、親やきょうだいからはなされて、ひとりだけ此処へ移されてきたのだ、ひとりだけでね、わかるか」 宇乃は「はい」と頷いた。「ひとりだけ、見も知らぬ土地へ移されて来て、まわりには助けてくれる者もない、それでもしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、ひとりでしっかりと生きている、宇乃にはそれがわかるね」「はい――」「宇乃にはわかる」と甲斐は云った。彼はふと遠いどこかを見るような眼つきをした。 宇乃は思った。おじさまはお淋しい方なのだ。宇乃は甲斐の言葉をそのようにうけとった。自分に云ってくれた言葉とは思わず、甲斐が彼自身の心のなかを語ったのだというふうに〉

 ここにはまったく脚注の必要はありません。一方、脚注によって臨場感がいっそう高まる場面もあります。

〈「失礼ですがここは私の住居でございます。たとえ貴方(あなた)が従四位下(*)の少将(*)で、十余万石の御城主かは存じませんが、扶持(ふち)をいただいておらぬ限りは対と対、私は自分の住居では自分の好ましいように致します」「ではおれの盃は受けぬというのだな」「お直(じき*)ではおそれ多いと申上げるのです」「どうしてもか」と雅楽頭が云った。 甲斐は目礼し、微笑した。雅楽頭の顔が赤くなった。……「どうやらおれは、よろこばれぬ客のようだな」と雅楽頭が云った。 甲斐は一揖(いちゅう*)した、「それこそおぼしめし違い、浪人のことでお歴々(*)にふさわしいもてなしはできませんが、おたち寄り下さればこの上もなき名誉、よろこんで御接待をつかまつります」「覚えておくぞ」と雅楽頭は云った。そして盃を置いて立ちあがった、「また会おう、ぞうさ(*)であった」〉

 宿敵となる酒井雅楽頭と原田甲斐が初めて直に言葉を交わす場面ですが、*印が脚注の付いた言葉です。脚注によって情景のピントがしっかりと定まり、構図が決まります。周五郎の言葉遣いにも新たな面白さを感じます。

 40年ぶりに読み返してみて、これらの場面の印象は基本的に変わりません。ただ、さすがにこれだけ年を重ねたことで、感情移入の仕方が変わっていました。この変化は、少し愉快です。周五郎の“マイブーム”が訪れそうな予感がします。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)