【考える本棚】
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 内田義雄『鉞子(えつこ) 世界を魅了した「武士の娘」の生涯』(講談社)
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歴史の娘たち
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 本を手にするきっかけというのは実にさまざまです。この、ルビを振らなければ到底読めない書名を見て、逆に興味を引かれました。「鉞」は金太郎が担ぐ「まさかり」であって、「えつ」という読み方があるとは!

 本書の主人公である杉本(旧姓稲垣)鉞子の父親は、長男誕生の後、五人も女児が続いたために、そろそろ男の子を楽しみにしていました。ところが、またもや期待はずれの結果に終わったところから、この名前になったのだといいます。男の子でなければ、せめて「まさかり」のような強い娘に育ってほしい、と。

 板垣退助は3人の娘に兵、軍、猿(のちに婉)という名前を付けました。息子でなかったことへの不満の現われだと聞きますが、ずいぶんな話だと思ったものです。鉞子の父親はそういう「腹いせ(?)」とは無縁ですが、それにしても、時代の背景を強く感じさせる命名です。父は幕末の越後長岡藩筆頭家老、稲垣平助という人物でした。と書けば、誰しもが司馬遼太郎の長篇小説『峠』(新潮文庫)の主人公、河井継之助のことを思い浮かべるでしょう。実際、あの作品は、31歳の継之助が2度目の出国を願い出るため、9歳年下の稲垣平助宅に日参する場面から始まります。継之助の弁舌と粘り腰に根負けした国家老は、結局、彼の江戸出府と諸国遊学を許すことになるのです。

 後に、藩存亡の危機に際して、決定的な対立にいたる2人の運命がはっきりと暗示されている場面です。武家社会の秩序を何よりも重んじる稲垣に対して、「三百年の徳川の天下がいま崩れようとしている。歴史がかわる、日本のあすも知れぬ、七万四千石の越後長岡藩だけがその埒外に生きられるとおおもいか」と継之助が家老を“無能呼ばわり”する設定です。

 ともあれ、それから10数年後の1872年(明治5年)、変転目まぐるしい激動のさ中に、北越戦争に敗れた「賊軍」の歴史を背負う形で、鉞子はこの世に誕生します。維新後、武士としての地位も面目も失った父でしたが、それでも「いつも明るくユーモアがあった」と娘に回想されているその人は、苦境にあってなお娘に伝統的な「武家の教育」を受けさせるという方針を変えませんでした。

 やがて在米の日本人との縁談が成立し、英語を学ぶために鉞子は14歳で上京。ミッション・スクールで6年間学んだ後は、浅草の小学校で5年間教員を勤めます。全額給費生として学費を免除してもらった代償として、卒業後の奉仕活動を余儀なくされたからでした。当時の浅草は、ただでさえよそ者には馴染みにくい独特な土地柄でした。さまざまな境遇の、経済的には恵まれない家庭が多く、地域内には吉原遊郭もあり、近代日本社会の矛盾がそのまま縮図となったような場所でした。しかし、ここで鉞子は幼い頃に祖母たちから聞いて育った日本の昔話を子どもたちに語り聞かせ、彼らの心をしっかり捉えます。「子どもたちにたいする彼女の深い愛」は、学校を設立したメソジスト監督教会婦人伝道会からも高い評価を得るのです。

 ちょうどその頃、近くには樋口一葉が住んでいました。同い年でともに武家の娘、また借金を返済するためにこの土地に移り住んだ点も共通しています。社会に対する見方や考え方は対照的ですが、お互いにこの土地での試練と苦労を糧にして、次のステージを切り開くところも似ています。それにしても婚約してから学業に6年、さらに5年間の奉仕活動。アメリカは遠く、心中は決して穏やかなものではなかったはずです。

〈この五年間の苦労は、杉本鉞子の人生に大きな意味をもった。この五年間の試練と経験で、鉞子は、精神的・人格的に強くなり、自立心の高い女性に成長した。それだけではない。青春の五年間を奉仕活動に捧げたことは、鉞子がこれからめざすアメリカでは、日本では想像できないくらいに高く評価され尊敬されることなのであった。未来の夫杉本松雄も、そのことをよく理解していたが故に辛抱して鉞子を待っていたのである〉

 1898年(明治31年)、横浜から船で単身アメリカに向けて旅立った時、鉞子は間もなく26歳になろうとしていました。未来の夫が待ち受けていたのは、アメリカ北部の中心地オハイオ州のシンシナティでした。彼はその中心街で日本の工芸品や雑貨を扱う店を開き、かなりの成功を収めていました。鉞子は、彼女を温かく受け入れたアメリカ人社会で交流の輪を広げます。生涯の友となり、やがて鉞子を世界の読書界に羽ばたかせる陰の立役者となった、16歳年長のアメリカ人女性フローレンス・ミルズ・ウイルソンとの運命的な出会いも、その中で生まれます。

 鉞子の渡米とほぼ時を同じくして知り合った二人ですが、お互いの境遇、価値観、感性、知性などが響きあい、「ほとんど奇跡といってもいいかもしれない」友情が育まれていきます。38歳で夫に先立たれ、一時は日本に戻った鉞子でしたが、2人の娘を養育しながらアメリカで生きることを決意した彼女は、生活の一助にと新聞・雑誌に日本についてのエッセーを投稿します。それに目を留めた編集者の勧めで、一冊の本――「数百年続いた封建的日本の娘がいかにして近代的アメリカ人になったか」(本の謳い文句)という半生の記――を構想しますが、それに全面的な協力を惜しまなかったのがフローレンスでした。

〈ミス・ウイルソンは私の書きますものを一々お読み下さり、ご自身の日本におけるご経験から、そこここに独特のセンチメント(感傷)とメローネス(芳香)を加えて、日本の情緒をアメリカ人にわかり易く説く助けをして下さいました。殊に急所急所は、ご満足の行くまで根ほり葉ほりただされては、私の頭にさえぼんやりとしていることを、はっきりするまで考えさせて下さいました。例の日本式の考えで、私があまり自身の経験などには触れたくないと申しますと、大変なお叱りで、「面白い話をなさらないなんて、そんな意地の悪いことがあるでしょうか。いくらご自分のことだからとて、それは謙遜ではない、かえって自惚れというものでしょう。読む人はあなたのことだからと思うて読むのではなく、話が面白いから読みますのに」と、きつくおっしゃるのです〉

 長い執筆の道のりをこうして鉞子は、フローレンスの細かい指導、叱咤激励を受けながら歩んでいったことがよく分かります。しかし、この力添えを得て初めて成功を収めたにもかかわらず、『武士の娘』にフローレンスその人のことはほとんど登場しません。わずかに2ヵ所、さりげなく触れられているのみです。「ぜひ共著者としてミス・ウイルソンのお名がほしいと存じましたが、表立つことを極端に嫌われましたのでそれも叶わず、今になってこうしてお話していますが、それさえ黙っていた方がお喜びになるだろうかなどとも考えられ、ともすると気後れがするのでございます」と鉞子がようやく重い口を開いたのは、フローレンスが亡くなって8年後のことでした。

 本書は戊辰戦争以降の長岡の苦難の歴史と、南北戦争以後のオハイオ州シンシナティの歩みについて、多くのページを割いています。興味深いのは、それぞれの国に起こった歴史的な事件が、『武士の娘』という一冊の本の成立に期せずして深く関わっているという事実です。

 鉞子が受け継ぎ著作に注ぎこんだのは、武士の娘として身につけた矜持でした。戊辰戦争の際は傍流として排除され、維新後は「裏切り者」「腰抜け」という“汚名”を着せられ、貢献は認められず、事績や経歴すら封印された父の無念を目の当たりにしていた鉞子。

 片や、南部に同情的な民主党支持者が大勢を占める町で、リンカーン大統領を支持し、奴隷制解放論を唱えたために少数派に属し、やがて南北戦争後の「金メッキ時代」(マーク・トウェイン)の時流に乗り切れないまま、失意のうちに死を遂げた父を持つフローレンス。ともに国を二分した内戦がもたらした運命の皮肉で、「相通じる人生経験や社会的関心」を持った者同士の深い理解と共感が、文筆に向けた信頼関係の根幹をなしたことが、本書によって示されています。

『武士の娘』は1925年(大正14年)12月に刊行されると、一時はベストセラー入りするほどの売行きを示します。当時、話題になっていたのは「失われた世代」の作品群でした。スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、セオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』、アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』など、「第一次世界大戦のときに青春を送った若者たちが、戦後の繁栄にも自由の享受にもなじめず、生きる意味を失って人生に挫折していく姿を描い」た作品です。

 その中では異彩を放ったはずの『武士の娘』ですが、「読む人に喜びを与える自伝だ」、「現代に生きる武士道」といった讃辞が次々に寄せられ、ある識者はウォルト・ホイットマンの『草の葉』の序文「歴史が正しく語られさえすれば、つくり話の小説などなんの役にもたたなくなる」を引用しながら、「この本はまさに歴史が正しく語られた本である」と評価しました。

 なぜこれほどまでに賞賛をもって受け入れられたのか。後に英独仏など7ヵ国で翻訳され、第2次大戦後も英米で再版されるほど愛読されたのはどうしてなのか。また杉本鉞子は他に3冊の英文の著作――『成金の娘』(1932年)、『農夫の娘』(1935年)、『お鏡お祖母さま』(1940年)――をものしていますが、それらは何をテーマにし、どのように評価されたのか、は当然知りたいところです。詳しくは本書を読んでいただくしかありませんが、ともかく驚くのは、これほどの大きな反響を呼んだ著作、著者の存在が、日本ではすっかり忘れられているということです。大岩美代訳の『武士の娘』(ちくま文庫)がいまも順調に版を重ねているのが不思議なくらい、この本についても、杉本鉞子についても語られることはありませんでした。

 文化人類学者のルース・ベネディクトが『菊と刀』で日本人の精神性を分析するにあたって、『武士の娘』に大きな影響を受けたことは周知の通りです。ところが、1920年(大正9年)から7年間、コロンビア大学で日本語と日本史の特別講義を受け持った鉞子と、翌1921年に文化人類学教室に入学してきたベネディクト(当時33歳)が、大学のキャンパスですれ違って「挨拶をかわした可能性が高い」となると、もう驚くほかありません。

 本書のお手柄はとにもかくにも、この著作に再び光を当て、杉本鉞子の知られざる生涯を掘り起こしたことです。時代や環境の激変の中にあっても、人間として失ってはならないものは何かを考え続け、自らが心の拠り所としてきた日本の面影を伝えようとしたところに『武士の娘』の魅力はありました。それを支えたのは、「あから顔の異人さんも、神国日本の人々も、今尚互いの心を理解しおうてはおりませず」、「西洋も東洋も人情に変りのないこと」が、「まだ大方の東洋人にも西洋人にもかくされた秘密」であるという思いです。それはアメリカ生活を通して得た彼女の確信でした。

「船の往来は今なお絶えることもございません。絶えることもございません」――というのが、『武士の娘』の結びの言葉です。これは、「お互いの心の中が判りあうまでは、何度船が往来しても、決してお国とお国とが近づきあうことはありませんよ」という祖母の言葉を受けたものでした。この時の鉞子の脳裏に、16年後の日米開戦の暗雲がどれほど予見されていたのでしょうか……。

 1950年(昭和25年)6月20日、鉞子は東京で静かに息を引き取りました。78歳。質素な教会葬が行われ、青山墓地にある夫杉本松之助(松雄)の墓に葬られました。そのすぐ隣には、シンシナティで初めて出会ってから34年間、「影の形に添う如く」鉞子とその家族のために生涯を捧げたといってもいいフローレンス・ウイルソンが眠っています。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)