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 「私に次の生があるならば」
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 ロードショーの初日に、文字通り、駆けつけたというのは、ずいぶん久しぶり
のことです。ドイツの小さな出版社――にもかかわらず、「いつかあそこで本を
出すのが夢だ」と語る人が後を絶たないシュタイデル社(Steidl)。

 60~70年代のフランスのデルビール社、80~90年代のスイスのスカロ社、そして「ここ10年でもっとも重要な出版社」とされるこの“夢の工房”の創業者ゲルハルト・シュタイデルの日常を追ったドキュメンタリー「世界一美しい本を作る男――シュタイデルとの旅(How to Make a Book with Steidl)」が公開されました(*)。

 渋谷にある「シアター・イメージフォーラム」での単館上映なので、東京じゅうの編集者がドッと押し寄せたら……と思い、最終回のかなり前に行って整理券を確保しました。幸い、そんなに混み合うこともなければ、同業者の知り合いに会うこともなく、ゆっくり寛いで楽しむことができました(翌日からは満席が続いているそうですが……)。

 一般的な興味という点ではやや地味な題材だとは思うのですが、それでも「本の世界」という枠を超えて、多くの人たちの共感を呼ぶはずです。何かひとつの対象にとことん打ち込む人間の、真剣で、決して驕ることなく、しかし自信に満ちた生き方は、それを見ているだけで気持ちが晴れやかになるからです。

 登場するのはシュタイデル社の経営者であり、本の企画、デザイン、印刷、製本、出版のすべてを自分自身で手がけるシュタイデル氏とそのスタッフ、また彼と長い間、信頼関係をつちかい、仕事をともにしてきた世界じゅうの写真家、芸術家、作家たちです。ロバート・フランク、ロバート・アダムスといった有名写真家、シャネルを蘇生させたファッション・デザイナーのカール・ラガーフェルド、ノーベル賞作家ギュンター・グラスらが、どのようにシュタイデルと仕事をしているか――その“現場”に立ち合わせてもらえるのですから、何から何までが刺激的です。

 その中で、全篇を通じて物語られるのが、写真家ジョエル・スタンフェルドの「iDubai」という写真集が完成していくまでのプロセスです。写真家が初めてドバイを訪れ、iPhoneで街の風景、人々の表情を撮影してきます。それらの写真をシュタイデル氏に見せながら、どういう写真集が作れるだろうかと、ニューヨークの自宅で相談する場面から始まります。そして、さまざまな検討が加えられながら、徐々に作品の構想が固まり、具体化していきます。その様子が克明に、生き生きと映し出されます。

「“上質の本”とはどういう本だと思うか」と尋ねられて、シュタイデル氏が、「個性の感じられる本」という言い方をする場面があります。

「紙の種類も本に合わせて考え、写真に合わせてインキの色選びから製本にまでこだわる。それで独創的な本が生まれる。私の作る本は工業製品ではない。作品の分身で芸術家のアイデアを反映している。そしてそういうアイデアは――確かな技術を持つプロの手で具現化される」

 スタンフェルド氏との「iDubai」のプロジェクトは、まさにそうやって作られていきます。といって、「iDubai」は決して紙、印刷、製本にこだわり抜いた限定部数の豪華本――珠玉の1冊をめざしているわけではありません。iPhoneを使ってカジュアルに撮影した作品を、いまの人たちの視覚体験に寄り添って(つまり、iPhotoなどのソフトを使って画像を見馴れている人たちの感覚に訴えながら)、新しい写真の鑑賞方法を開拓したいというのが作家の野心です。それをどう実現するかが、シュタイデル氏の挑戦です。ドバイという土地――この町の空気をどのように本の形に集約させるか、それも重要なテーマです。 時折ジョークを交えながら、率直で、クリエイティブな意見が応酬されます。このやりとりがスリリングで、いったいどんな写真集ができるのかとワクワクさせられます。種明かしは控えておきますが、意表をつくような発想が飛びだして、それが現実化していく様子には笑いがこみ上げます。一部を紹介しますと――。

 シュタイデル氏が大まじめな顔で提案します。書店に並んだ時のインパクトを考えると、「表紙はいっそのこと悪趣味をきわめる感じはどうだろう」、「たとえば500部を青で作り、300部をピンクにして、5種類か6種類の色をごちゃ混ぜにするのは?」。

 一瞬ギョッとした表情のスタンフェルド氏の口許に、思わず笑みがこぼれます。「iPhoneと同じだ」、「まさにそうだな」……。トドメは、本に不可欠のバーコードの処理です。シュタイデル氏のアイデアは、「悪趣味で、かつ商業主義を象徴する」表現法――。この本にうってつけのバーコードが誕生します。

 別れ際に写真家が、「感謝するよ。望み通りの本になる」と感にたえない表情を浮かべる姿に、こちらも胸が熱くなります。……というように、シュタイデル氏のやり方は、相手のアイデアに合わせたオーダーメイドです。本の内容にしたがって手持ちのカードを総動員し、そろばん勘定を含めながら、徹頭徹尾、納得のいく形を探求します。

「約2年の間に20回はロスに出向いたよ。たった1日滞在して打ち合わせをするために。試作を持っていき、1つ1つを練り上げた」と語るのは、ジャック・ケルアックの代表作「路上」を原作にした現代美術家エド・ルシェの「On the Road」です。限定350部の豪華本。精密なイメージを再現するために高品質の用紙を使い、オフセット印刷ではなく活版印刷に固執します。作家が130部を手許に置くので、市場に出回るのは約200部。「エドの作品としては約40年ぶりに出版されるので、こういった作品は数年後に値段が跳ね上がります」――と収集家に淀みないセールス・トークをするのもシュタイデル氏です。

 芸術作品を請け負うだけではありません。ストライキのポスターから賃金表、金属労組がまとめた関税政策の本まで手がけ、「外箱も本体も赤で統一した信頼できる手引書です」と、出来栄えをアピールするシュタイデル氏。

 ともかく驚くのは、60歳を超えたというのに、世界中を飛び回る彼のエネルギーです。ニューヨーク、ロサンジェルスをはじめ、カナダのバンクーバー、ノバスコシア、そしてロンドン、パリ、カタール、国内ではリューベック。まるでロードムービーのような東奔西走の移動の連続です。

「旅は好きじゃない。仕事のためだ。数時間でも直接打ち合わせをするのが一番早い。2、3ヵ月かかる仕事も4日間の旅で片付く。同時進行の企画があるから、直接出向くほうが効率的だ。本来は家のほうが落ち着く。インキや紙の香りから離れていられない。もう病みつきになっているからね」

 映画の最初のほうに、出張を前にして「持ち物リスト」をチェックしながら、パッキングをしている場面が出てきます。用紙やテスト刷り、造本の見本などを詰め込むために、スーツケースの余計な備品を切り取る氏の姿。空港にはお迎えのハイヤーが用意されていて、それに乗って移動します。旅のスケジュールはタイトなので、運転手はどうやらタイムキーパー役も兼ねているようです。ニューヨークのロバート・フランクと打合せをしている最中に、アパートのベルが鳴らされます。午後にはロサンジェルスにいなければならない雇い主のために、運転手が表で呼び出しているのです。

 そして午後は、L.A.でエド・ルシェと打ち合わせ。上記の「On the Road」について、忌憚のない意見交換を済ませてから、翌日ドイツへの帰途につきます。

「本で大きな利益は得られない。本を作ることで大金を稼ぐことは稀な話だ。ベストセラーに的を絞れば別だがね。ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』や、ロバート・フランクの『アメリカンズ』など、いわゆる売れる本だ。私はそういう本で得た利益でいろいろな本を他に作る。そして後から気付いたんだ。特に意識しないままに、独自のマーケティングモデルを築いていたことにね。ドイツのシュタイデル社が手がける本は、すべて良質で独特の趣を持つという定評が生まれた。シュタイデル社の本の収集家は世界中にいる。だから経営もまずまずと言えるんだ」

 それにしても凄いと唸るのは、本作りのノウハウが一人の人間の中に蓄積され、一連の工程がすべて自社で完結している点です。分業が主体になっている日本の場合とは好対照です。本に何を収録し、どういう構成にしていくか。シュタイデル氏が作家の要望を聞きながら、編集方針のラフを書きます。それから使用する紙、インキの選定、印刷方法などが検討され、その試案に基づいてテストが始まります。社内の印刷機から出てくる刷り見本をチェックしながら、さらに検討と交渉が行われ、日程、品質、コストをからめた本の設計図がまとめられます。すべてが手の内にあるので、スピーディで、ダイナミックで、ごまかしがありません。

 もっとも分業システムでも、それぞれの道のプロフェッショナルがありったけの知恵と情熱を傾けて、掛け算の論理で仕事をすれば、驚くほどの相乗効果が生まれるはずです。ところが、理屈の上では仮にそうでも、実際にそうはならないのが実状です。ましてや本の市場が縮小傾向にある現在は、効率化を重視した部分最適へとベクトルが揃い、本が標準化されて個性を失うことになりがちです。

 それだけにシュタイデル社のあり方は示唆的です。こういう生き方を選ぶ小出版社が今後現れないとも限りません。“電子書籍”という紛らわしい名称にまどわされず、本の本たる所以にこだわり続けるシュタイデル氏が、力強く語ります。

「いいですか。皆さんに見てもらおうと思って用意しました。このサンプルは弊社の原版を使っていろいろな紙に印刷したものです。手で触れて感じてみてください、紙の表面や手触り。ご希望なら、どうぞ鼻を近づけて、独特の香りも確かめてみてください。……すべての紙にインキの独特の香りがあるのです。本の重み、紙の感触、目で見ること、ページをめくる音、ページが重なりあう感じや香りなど――すべてがデジタル化する時代において、本を特別な存在にしているのです」

 この映画の成功は、ゲルハルト・シュタイデルという人自身の、まさに身体性が感じられる点でしょう。この人の匂い、息づかい、肌ざわりや喜怒哀楽――シュタイデル社は自分にとって、「出版社というより、作品を作り上げるための研究室(ラボラトリー)だ」という彼は、たしかに白衣姿がよく似合います。そして芸術家たちとの打ち合わせのために、中東カタールの砂漠の中へも、ファッション・ショー直前のパリの会場へも、ロバート・フランク、ジューン・リーフ夫妻の住むノバスコシアの片田舎へも、労を惜しまず出向いて行きます。そして、どの場所、環境にも溶け込みながら、相手の考え、個性を本の形に結晶化させようと集中します。

 その研ぎ澄まされた感覚、精度の高い仕事に対する情熱と献身――。この仕事哲学が日本人に訴えかけないはずはありません。彼が「私に次の生というものがあるのなら、日本に生まれて、今のような出版社を経営したい」(劇場プログラム)と言うのも、あながち社交辞令とは思えない理由は、そこにあります。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)