橋本治さんが以前、「小津の映画が魅力的なのは、ドラマのない人びとへのいつくしみが根底にあるからなんだよね」とおっしゃったことがありました。この言葉が印象的で、ときどき思い返すうち、ああ、これは、橋本さんの連作短篇にそっくりあてはまる言葉だな、と思いいたりました。

 橋本さんには、すでに15年にわたって書きつがれている一群の短篇があります。「どんな人もかならずひとつの物語をもっている。なんの変哲もない日常のなかにあるものこそ物語なのだ」という考えによってたつ連作短篇で、第一作「にしん」が書かれたのは92年暮れ。以後現在までに、26篇が書きつがれ、『生きる歓び』『つばめの来る日』『蝶のゆくえ』の三冊の短篇集にまとめられています。

 主人公は、老若男女の「ふつうの」人たち。およそドラマからはほど遠い、地味な毎日をおくっている、多くの「わたしたち」に似た人びとです。それまでの二作もすばらしい短篇集でしたが、『蝶のゆくえ』に収録されている「ふらんだーすの犬」を掲載誌で読んだとき、この小説のもつ圧倒的な力に、しばし呆然としてしまいました。

 18歳で生んだ6歳の息子を、新しい夫とともに虐待で死にいたらせてしまう若い母親が主人公なのですが、その語り口が、小説家の頭と体をいちど通して出てきた言葉とは思えないリアルさなのです。さらに、死んでゆく子どもの祖母を描くことで、前の世代ではぎりぎり保たれていたものが、若い母親の世代になるとすでに失われていることがおのずと伝わってくる。それが、子どもの生死を分ける。個人のことであると同時に、個人がもっと大きなものの一部であることを伝えていて、そのいやおうなさというか、死んでゆく小さい男の子の悲しみはいうまでもなく、死にいたらしめる側の(本人すら自覚していない)悲しみまでがひたひたと迫ってくる。こういうことは、すぐれた小説でしか伝えられるものではありません。
 そして「ふらんだーすの犬」は、悲惨で、救いようのない、美しさのかけらもない話を描きながら、どうしようもない美しさをたたえた小説でもあるのです。

 04年11月、「ふらんだーすの犬」ほか6篇の短篇が収録された『蝶のゆくえ』が刊行され、ほどなくして高橋源一郎さんにお会いする機会がありました。もう年の暮れで、おでんを食べながら、高橋さんは、『蝶のゆくえ』がいかに傑作かをフローベールの『感情教育』などを引きながら力説してくださいました。こんなにすごい小説なのに、どうしてもっと注目されないんだろう、と勝手にやきもきしていたわたしは、やっぱり高橋さんはちゃんと見ている! と感激しながらお話をうかがいました。

 今回、短篇特集をすることになったとき、橋本治さんのこの連作短篇を、ぜひ紹介したいと思いました。『蝶のゆくえ』は刊行の翌年、柴田錬三郎賞を受賞しましたが、もっと多くの人に、この小説について知ってもらいたかったからです。
 そして実現したのが、高橋源一郎さんとの対談です。以下に少しご紹介しましょう。