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 安部公房と堤清二
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 先週11月27日、調布市にある安部公房氏の家を訪ねてきました。亡くなったの
が1993年(平成5年)1月22日ですから、今年で没後20年。

 思い起こせば、大学に入った年(1972年)の5月から、「安部公房全作品」(新潮社)という15巻シリーズが刊行され始め、それを毎月1冊ずつ買うのが楽しみでした。翌73年3月には待望の新作『箱男』(同)が「純文学書下ろし特別作品」として、そして5月には戯曲『愛の眼鏡は色ガラス』(同)が発売されます。『愛の眼鏡~』は、演劇集団「安部公房スタジオ」の旗揚げ記念公演作品であり、また6月にオープンする渋谷・西武劇場(現パルコ劇場)のこけら落としを飾る上演作品でもありました。それから早40年が経ちます。

 生前、仕事をするチャンスはなかったので、御宅に伺うのは今回が初めてです。京王線・仙川駅から10分ほど、曲がりくねった道を歩いた先の、「武蔵野の高台の崖のはずれ」に建つ2階家で、丹沢山系の山々を遠望する、見晴らしのいい立地です。かつてソ連という国がまだ健在だった頃、かの地で人気の高かった安部氏の家は、来日したソビエトの作家たちが、必ず訪問する「定番コース」になっていました。案内役を務めることが多かったロシア文学者の原卓也さんは、それがきっかけで安部さんと親しくなりました。

〈どちらかの仕事が一区切りつくと、電話で連絡し合って酒を飲みに行ったり、調布にぼくが出かけたりする。こうして、彼が実にこまかく気を使ってくれる友人であることを発見するまでに、さほど時間はかからなかった。安部家で酔払ってそのまま泊りこんでしまった次の朝、二日酔いで浮かぬ顔をしているぼくを見ると、何も言わずに台所に立って、みずからレモンを絞ってきてくれたこともある。安部家のパーティがいつも楽しいのは、真知夫人の作ってくださる御馳走の魅力はもちろんのことながら、客の一人ひとりにたえず気を配る公房さんのホストぶりのおかげも多分にあるようだ〉(原卓也「安部公房さんのこと」、新潮日本文学46・月報)

 こうして、作家、演劇人、学者ら、さまざまな人々がここに集い、談論風発の輪が広がりました。年末恒例のパーティには、50人ほどが所狭しとつめかけたそうです。それにしても、この時の様子を語ってくれた原さんが、酔いつぶれて寝ていたのはどの部屋だろうか――と、ありし日のざわめきを思い描きながら、いまは主なき家の中を見てまわります。娘の安部ねりさんが、2年前に刊行された本の中で、この家について語っています。

〈1958(昭和33)年に「第四間氷期」が執筆された頃には、安部公房の名は広く知れ渡るようになり、翌年3月に連載が完結し、4月には東京都の世田谷区と調布市の境目にある仙川の見晴らしのよい高台に家を構えた。……そこは出身の成城高校から3キロに位置し、大嫌いな富士山もちょこんと見ることが出来た。真知は公房のためにモダンデザインのカリスマ的デザイナー、ル・コルビュジェを手本に横の直線を基調とした、重力を感じさせないシンプルな美しい木造建築の家を設計した。しかし、美術家によく見られることだが、毎年増築をして、家は原形をとどめなくなってしまった。公房好みにしつらえてあったモダンデザインの家具も次第に民芸調のものになっていった。公房の言う「根源的なもの」はきっと「原始的」という意味だろうと真知は考えた。ありがちなことであるが、ついには真知好みの家になってしまった〉(安部ねり『安部公房伝』新潮社)

 舞台装置を数多く手がけた安部真知さんらしく、採光や動線に劇的効果を狙った設計が施され、細部にもいろいろと工夫が凝らされていました。ねりさんの思い出では、2階の安部さんの書斎からのびた廊下ぞいの書棚には、「SFマガジン」や「ミステリ・マガジン」、「世界SF全集」、「世界の名著」などが揃えられており、そこから小さな娘はスタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』(原題Solaris)を取り出して愛読し、ダーウィンの『人類の起源』、ヘーゲルの『精神現象学序論』にも手を伸ばしたのだといいます。書棚の中身は没後にずいぶん入れ替わったそうですが、師である石川淳氏の著作がまとめて並べられ、交流のあった作家の署名本も収められていました。砂漠の生態の研究書は、おそらく『砂の女』(新潮社)執筆の際の資料だったかと思われます。

 ついつい、感慨にふけりながら邸内を歩きましたが、今回の主目的は撮影です。間もなくこの邸宅は取り壊されることに決まっており、その佇まいをせめて写真にとどめておこうというわけです。詳しくは次号の「考える人」(12月28日発売)をご覧いただきたいと思います。

 さて、その撮影を無事に完了した翌日の夕刊で、突然知らされたのが堤清二さんの訃報です。撮影中も何度かその名前を口にした堤さんとの公私にわたる長い付き合いは、よく知られている通りです。「安部公房スタジオ」創設のパトロンは堤さんでしたし、西武劇場も安部さんの意向に応えた堤さんの英断でした。

堤 西武劇場の話が生まれたのは、何かの機会で安部さんに会った時からですね。安部 そう。僕がそそのかした。でも、本当のところ、はじめは全然期待なんかしていなかったな。ただ、勝手に使える劇場がどうしても欲しかったんだ。堤 瓢箪から駒みたいなところがある。安部 一種のタイミングね。堤 そう、タイミング。……安部 安部スタジオだって、モヤモヤのうちにいつの間にやらできてしまっていた。堤 安部公房スタジオができたので、西武劇場が割にスムーズに生れたということはありますね。安部 うまくいった、という感じだけど、君の方としては……。堤 言えないよ。困っちゃうね。経営学者なら、安部公房の芝居の動員力はこれくらいで、劇団四季ならどうで、といった計算をするんでしょうが、そんなことは全くなかった。(「芸術の社会的基盤」、「波」1975年12月号所収、新潮社)

 いまでは珍しくもありませんが、演劇、美術など文化事業を融合させた商業施設の展開によって、都市環境をまるごと変革していくという巨大プロジェクトは、当時斬新きわまりないものでした。渋谷の街にパルコができる、そこに劇場が入る。そしてファッショナブルなショッピング・ゾーンが生まれ、渋谷駅のすり鉢の底から上っていく道が「公園通り」と命名される……。

「すれちがう人が美しい――渋谷公園通り」というコピーや、アート感覚にあふれた刺激的な広告。これからここで何が始まるのか、誰にも分からない。うまくいくのかどうかも、ましてや分からない。まるで街に魔法をかけるような、この挑戦自体が、芝居の幕開きのようでした。

「チケットぴあ」など影も形もない時代。大学生協の窓口で第1回公演のチケットを買って出かけたのは、そうした熱気と、安部公房という作家の勢いをともに感じていたからに他なりません。

 一大流通グループ総帥としての顔、作家・詩人辻井喬としての顔、あるいはそれを両面神(ヤヌス)のように一体化していた堤清二という人物像については、どこからどういうふうに語ればいいのか、途方に暮れるばかりです。それを語るにふさわしい人たちの言葉に耳を傾ける他ありません。

 ただ、経営者としては非常に怖れられる存在だという話を、さんざん聞かされていたにもかかわらず、私たち編集者にはまったく違った印象を与えていました。「夜、自宅に電話をいただくのが一番確実です」という言葉にためらいながら従うと、いつも穏やかに、丁寧にこちらの話に応じる堤さんがいました。それはセゾングループの経営が、晴れの日も雨の日も、基本的には変わりませんでした。

 その堤さんに、一度だけ、怒りをぶつけられたことがあります。詳細はぼやかして書くしかないのですが、ある文学賞の授賞式でのこと。私は会の進行役(司会)を務めていました。堤さんは、少し遅れて会場に入ってきました。それを、視界の隅で認めました。およそ200人くらいの中規模のパーティ。その年の受賞者の披露があり、続いて選考委員による選考経過の説明と講評、そして受賞者のスピーチがありました。最後に主催者の御礼の言葉で贈賞式が終わり、祝宴に入ります。

 役目を終えて、会場に歩を進めた私の姿を認めて、堤さんが寄ってこられました。「いまのスピーチをどうお聞きになりましたか?」。とても丁寧な物言いでした。ただ、いつも聞く口調とは明らかに異なる、意識した丁重さに気づきました。そして、それに続く言葉をとっさに覚悟したのです。

 それというのも、受賞者のスピーチは“規格外”の内容でした。仲間内の宴会のようなノリと、あけすけな露悪のスピーチ。場にそぐわない違和感がありました。さらに最後の挨拶に立った主催者の言葉には、背筋が凍りつきました。お世辞にもセンスがいいとは言えない、「受けを狙った」挨拶でした。

 堤さんの言葉は、予想をはるかに超えて厳しいものでした。「ちょっとどうかと思います」といった程度ではなく、それがいかに「ひどいスピーチであるか」、「許しがたいスピーチであるか」を強い調子でおっしゃいました。反論の余地はなく、黙って聞くしかありませんでした。

 詳細は省かざるを得ませんが、その時に胸を衝かれたのは、堤清二という人が文学に対して寄せる愚直なまでの信念でした。文学に手を染めた者の覚悟、それに関わってきた人たちへの敬意が、ひしひしと伝わってきました。あらゆる人間的行為の基底をなすのは文学ではないか。それを軽んじる者、侮る者、汚す者を許すわけにはいかない、という容赦ない怒りがほとばしっていました。

 初めて接する姿に立ちすくむ他ありませんでした。堤さんはそれをきっぱりと、手短に述べると、「きょうはこれで失礼します。こういう傾向を容認してはいけない。あなたにそれをお伝えできただけでもよかった」と言って、足早に会場を後にしたのです。

 ふだんの口癖は「自分はまだ駆け出しの作家なので、何でも気づいたことは言って下さい」でした。文学の奥深さを知る人は、文学という言葉を安易に口にすることはありませんでした。ユーモアにくるむか、照れながら「私は新人ですから」と繰り返すばかりです。こちらの思いはまったく逆でした。とりわけ「あの怒り」に触れた後は、堤さんの魂の底なし沼に、言いようのない畏れを感じるばかりでした。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)