【考える本棚】
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 網野善彦『古文書返却の旅』(中公新書)
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禍転じて福となす
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 年末が近づくと、軽い躁状態に陥ります。ここで1年の締め括りをしなければ、と思うと、どこからともなくアドレナリンが湧いてくるのです。なかでも「大掃除」は最も重要なイベントです。12月に入ったあたりから部屋の中を見わたし始め、徐々にイメージを固めながらウォーミング・アップを重ねます。そして、「いざ本番!」となれば、かけ声ひとつ、気合を入れて取りかかります。余計なモノを潔く整理して、部屋が寒々しくなるくらいまでスッキリ片づけると、1試合を投げきった後の田中将大投手の心境に近づきます。それで初めて「年越し」です。

 いまや「断捨離」は時代の風。モノも情報も人間関係も過剰に与えられた私たちの身のまわりを、思い切った「新陳代謝」によって快適空間に、というのは流行を超えた時代思潮だとさえ言えそうです。元々はヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」に着想を得た行動原理だそうですが、主唱者のやましたひでこさんが、この考え方の基底にある『老子』の48章を試訳しています。

〈知識を得たいのなら毎日増やしていきなさい。知恵を得たいのなら毎日取り除いていきなさい〉(「60歳から始める『断捨離』」、「新潮45」2013年11月増刊「新潮75」)

 日常のモノの整理術を語りながら、実はモノを通じて「思考」の整理法、自己探求法をめざしているところがミソでしょう。「婦人公論」12月22日号巻末にも、そのやましたさん作成の、来年12ヵ月分の「断捨離」シールというのが付いていました。

 1月:「『いつか』『そのうち』を実現できるのはほかでもない今の私」 2月:「それは愛着ではなく過去への執着。希望ではなく、未来への不安」

 そして2014年が終わる頃には、「捨てれば捨てるほど、自分に素直になっていく」(10月)、「頂上ではなく、足元を見る。そこには、一歩進んだ私がいるはず」(11月)、「『断捨離』で自分に自信を取り戻す」(12月)に至る、月単位の格言です。

 さて、こうした不要なモノを「断捨離」する覚悟も大切ですが、大掃除をしていてドキリとするのは、人から預かったままになっていた原稿類を見つけた時です。仕事柄、原稿や写真、本などの資料を預かるケースも多いのですが、いろいろな理由で手許にそのままになっていることがままあります。返すべきものは本来の所有者にきちんと戻さなければなりません。未返却になっていたことのお詫びと理由をしたためながら、ふと思い出すのが本書です。不義理を詫びる自分を励ましたい時、心構えを整えたい時などは、反省の鏡として呼び起こすのです。

 本書は、歴史学者の網野善彦さんが40年の歳月をかけてやり遂げた、古文書返却という途方もない後始末の記録です。「後始末」とは、「物事が済んだあとのかたづけ・整理」(岩波国語辞典・第6版)の意味ですが、この場合の物事は完結しておらず、挫折した事業の後処理でした。となると、「負の遺産」をせいぜいゼロに戻すのが関の山なのですが、それを何とプラスに転化させた稀有な例が本書です。読みながら、どれほど感動したか分かりません。

 敗戦後間もない1949年秋、東京月島のある小さな研究所の一室で、壮大な夢のプロジェクトが始動しました。漁業制度改革の基礎作業として、日本全国の漁村にある漁業史関連の古文書を収集・整理して、それを永続的に管理する本格的な資料館、文書館を設立しようという計画です。

 当時としては驚くべき巨額の予算を水産庁が計上し、事業は渋沢敬三氏(日銀総裁、大蔵大臣などを歴任)が私財を投じて設立した日本常民文化研究所に委託されました。元々は1921年に、渋沢邸の物置小屋の屋根裏部屋で「アチックミューゼアムソサエティ」として産声を上げた私的な集まりが、民間の小さな研究機関に育ったのが日本常民文化研究所です。宮本常一氏をはじめ、民俗学、文化人類学、歴史学を担うさまざまな人材がここから巣立ちましたが、1950年4月1日、月島分室に入った著者もその一人です。

 さて、5年間をかけて、漁業史研究の基礎資料となる各地の古文書を収集・整理し、目録作成、筆写、校正するというのが目的でした。ところが、膨大な量の古文書を集積したところまでは順調でしたが、約束の半年、1年という返却期限を過ぎてもなお、いっこうに文書の整理すらままならない状態が続きます。これらの作業がいったいどれほどの時間を要するものか、まったく想定できていなかったことが原因でした。

 結果的に、1954年、水産庁が研究所に対する委託予算を打ち切ったところで、この事業は挫折という結末を迎えます。後には未着手のまま、膨大な借用・寄贈文書が残されました。計画されていた資料館は「ほとんど保管庫の機能しか持たない資料館」でしかなく、しかも「借用し放しになっていたおそらく百万点を超すと推測される文書は、資料館に引きとられることなく」、ある場所に「リンゴ箱に入れられたまま山積みされた」状態で放置される運命を辿ります。

 この事態を見て、月島分室の後始末、文書の返却作業に専心しようと決心を固めたのが著者でした。そして教職のかたわら、この難事業を遂行するための具体策を考え、行動を起こし、あちこちに分散されていた文書を1ヵ所に集約して整理し、さらに各地を訪問しながら文書の返却にあたっていくという、果てしもない旅を敢行したのです。

 最初の借用書には半年とか1年とか期限が書かれていたにもかかわらず、すでに30年近くが経過していました。それきり何の音沙汰もなかった学者のふるまいに腹を据えかねていた人も多かったと思われます。最初の長崎県・対馬を訪れた場面からハラハラさせられます。

〈事前に連絡しておいたので、待っていてくださった資料館研究員の津江篤郎氏に迎えられた私たちは、机の上に風呂敷包を置き、挨拶をかわしたのち、私がクドクドとここにいたった事情を説明しはじめた。背が高く、がっしりした体格の津江氏は、いかめしい顔で腕を組みながら、無言のまま、私の説明を聞いておられた。あるいはきびしい叱責をうけるのではないかと覚悟していた私の話が終わると、津江氏はやおら腕組をとき、膝を大きく叩いて「網野さん、これは美挙です。快挙です。今まで文書を持っていって返しにこられたのはあなたがはじめてです」といわれたのである〉

 背信行為を非難されること覚悟で出向いていった著者(しかも借りた当人ではなかった)を、人々は温かく迎えます。わざわざ足を運んできた誠実さ、著者の人柄、古文書の価値に対するまぎれもない学問的情熱などが、先方にも伝わるべくして伝わったとしか思えません。それはこの後の旅でも変わりません。

 次に紹介される茨城県・霞ヶ浦の場合は、最初に訪ねた県の教育委員会で、いきなり「二、三十年前に来た“水産庁”の若い男が文書をみな持っていってしまった」と、怒りをこめた言葉に出くわします。ところが、「その若い男」が、他でもない著者その人であることを告げ、この間の事情を縷々説明すると、相手は大笑いした後で、逆に誤解を陳謝して、進んで文書返却の協力をしてくれます。

 著者の魅力に惹かれたことはもちろんですが、実は迎える側にもこの間に大きな変化が訪れていました。30年前、美しく、風情があった霞ヶ浦は、「ヘドロと腐敗した『あおこ』の臭気に満ち、帆引網も大徳網も、いまはほとんどその姿を消し、周辺の水稲も富栄養のためにたおれ伏し」て、瀕死の状態に陥っていると見えたのでした。

 瀬戸内海に浮かぶ二神(ふたがみ)島・由利島の生活にも、確実に“過疎化”の波が襲いかかっていました。浜はコンクリートの堤防が設けられ、舗装された道路が整備された反面、活気に満ちあふれていた鰮(いわし)網漁はすでに廃絶し、生き生きとした人々の生活は、この30年の間にすっかり影をひそめていました。

 一方で、各地の旧家の建て替えが急速に進み、多くの蔵が取り壊され、蔵の箪笥や長櫃に眠っていたはずの、あるいは襖・屏風の裏に貼られていたはずの古い文書は消滅の淵に立たされていました。

〈一見あたかもくず紙、ぼろに見える文書が焼却、廃棄されつつあるのも間違いない事実である。日本の社会・文化を正確に理解するための基礎自体が、いまや崩れつつあるとすらいえるので、事態はまことに深刻といわざるをえない〉

 この危機感は地元の人々こそが強く抱いていただけに、長年の文書借用の不義理は水に流しても、むしろ今後に期待をつなげたい切実な思いが募っていたと思われます。

 こうして、後始末を愚直なまでに律儀にやり遂げようとする中で、著者に訪れたのは「目からうろこのおちるような新しい事実の発見」でした。なかでも奥能登と時国家文書の整理、現地調査などを通じて、著者自身の近世史像は大きく揺らぎ、「ひいては日本社会像、日本社会全体を見る目自体が決定的に変わったといわなくてはならない」発見が導かれるのです。

 著者はこの文書返却の仕事を始めたころ、学生時代に見た映画「舞踏会の手帖」を思い出し、「中年をすぎた女主人公が、華やかだった若いころの舞踏会で会った男性たちを、当時の手帳をたよりに探し出し……美しく魅力的だった青年たちの、みじめに老いたなれのはてを知って、女主人公が暗い想いに沈む、悲しく淋しい印象」を、この旅の行方に投影していました。ところが、「この予想は見事に外れ」ます。

〈たしかに驚くべき自然の荒廃や過疎の進行に胸を衝かれることこそ多かったとはいえ、再びめぐり会い、あるいは新たにお目にかかった文書の所蔵者の方々は、例外なしに暖かく、好意に満ちて私を迎えて下さった。この出会いは新鮮で刺激的であり、私は一生を通じておつき合いできる多くの友人たちを得ることができた。そしてこの旅は私自身をむしろ勇気づけ、学問的にも新しい発見に導いてくれたのである。これは『舞踏会の手帖』とはまったく異なる明るく喜ばしい旅であった〉

 読後感の爽やかさは、こうした結語によってももたらされますが、それ以上に感嘆するのは、著者の一貫した楽観主義です。精神の自由さ、明朗さが、この壮大な夢の事業の破綻、その後始末という物語を、「未来に向かっての新しい夢の出発」に変えているのです。「禍転じて福となす」とは、本書のなかにもしばしば登場する言葉ですが、この格言に生命を吹き込んだのは、著者の決意と情熱に他なりません。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)