すぐれた長篇もものしているけれど、その名前を聞いただけで、短篇の題名と作品内の情景、その光の具合、湿度、登場人物の声までがよみがえってくるような作家たちがいます。この特集では、黒川創さん、町田康さん、山田稔さん、いしいしんじさんの四人に、長年愛読してきた「短篇作家」についてご紹介いただきました。

 黒川創さんは二十年ほど前、当時八十歳の淀川長治さんから、泉鏡花の短篇についてお聞きになったことがあるそうです。淀川さんはこんなふうに話しはじめます。

「泉鏡花に『片袖』っていう短篇小説があるんだよ。それはね、――“その崖の上には、いまでも幽霊が出る”――っていう前置きから始まるの」

 妻子をなくした男とその日嫁いでゆく女が列車に乗りあわせる。いくつか先の駅で女は降りようとするが、紫の紋付が男の革鞄にはさまれて立ち上がれない。男はいう。嫁いでゆくあなたを手放したくなくて、あなたの片袖が鞄に偶然はさまったとき、鍵をかけてしまったのです。黙って聞いていた女は、糸を引き抜き、片袖を鞄に残したまま、列車を降りてゆく。数年後、若妻となった女が男を訪ねてくる。女も男の面影が忘れられずにいたのだ。そしてその跡をまた、女の夫が追ってくる。崖上での対決。拳銃。たいまつ。燃え上がる着物。競うように死んでいく三人……。

 淀川さんの話に引き込まれ、ぜひ読んでみたいと思った黒川さんは、泉鏡花全集に「片袖」を探します。ところが、いくら探してもないのです。ご高齢の淀川さんにわざわざ確かめるのも気が引けるうち、淀川さんは亡くなってしまった。
 そして今年、ようやくその謎が解けます。淀川さんに話をうかがってから二十年。ひとつの短篇が、ひとのなかにどのように残り、育っていくか。そしてそれがどのように伝えられていくのか。「そこに立つ幽霊たち」は、それ自体が一篇の短篇小説のようです。

 町田康さんは、梅崎春生の名短篇集『ボロ家の春秋』に収録されている「庭の眺め」について書いてくださいました。「庭の眺め」には、語り手の小さな庭に現われる動植物や人々のことが描かれています。

 (略)ということはそれはきわめて日常的な風景を描いているということになるのだけれども、そうした風景を描くと同時に、そんな風景の向こう側にある、醜怪であったり物悲しかったりする人間の心の動きを描き、それらが感覚に影響する様もまた同時に描いて、すべてがうつろい安定しない様子を描いているので、読むとこっちの心もおかしくなってくるような小説であると思う。

 日常になにか別のものが二重写しになっていることから生まれるゆらぎ、不穏さが、町田さんの文章からひたひたと伝わってきます。

 山田稔さんは作家であるとともに、『フラゴナールの婚約者』『六月の長い一日』など、ロジェ・グルニエの名訳者としても知られています。グルニエは1919年生まれの87歳。現在も、フランスを代表する出版社ガリマール書店の文芸顧問を務めています。昨年刊行された最新短篇集『別離のとき』も、今春、山田さんによる翻訳書が刊行されました。
 散文集『チェーホフの感じ』のなかで、グルニエはフォークナーの次のようなことばを紹介していると、山田さんは書いています。

 ――短篇小説では一字一句もおろそかにできない。長篇では少々雑なところがあってもかまわない。その点、長篇の方が「格が下だ」。そしてグルニエはこう付け加える。「あのフォークナーがはっきりと言っているのだ」と。わが意を得たりと言わんばかりに。

 世界の現役作家のうちでも、名だたる短篇の名手であるグルニエ作品の真髄に迫るのが、山田稔さんによる「イロニーの勝利」です。

 いしいしんじさんは中学生のころからのレイ・ブラッドベリの愛読者でした。中毒者といってもいいかもしれません。高校2年の夏、交換留学生としてのホームステイ先に、ブラッドベリの故郷であるイリノイのスモールタウンを選んでしまったほどだからです。日本人などみたこともない、田舎町の人々。いしいさんは、町の議会でスピーチをさせられます。

「うぇるうぇる、みなさん、おおさかとこのまちは、にています。木があまりない」

 二カ月ほどの滞在のあいだ、たくさんの人が、日本人の少年を見にきます。いしいさんは、ブラッドベリを読んだことがあるか皆にたずねます。でも、読んだどころか、名前を知っている人さえひとりもいなかったのです。 
 いしいさんによる「スモールタウンに吹く風」は、ばらばらなもの同士がすれちがい、入れ替わり、入り混じり、そして離れていくブラッドベリ作品の魅力を語りながら、アメリカの小さな町でのきらめくような、そしてちょっと怖い記憶を伝えてくれます。

 四人の作家それぞれが、それぞれのスタイルで書いてくださった「短篇作家案内」。どうぞお目通しください。