【考える本棚】
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 通崎睦美『木琴デイズ――平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』(講談社)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

10歳の時の固い握手
------------------------------------------------------------------------

 セレンディピティ(serendipity)という言葉があります。偶然の引き合わせ、とでも意訳したらいいでしょうか。この言葉を思い出したのは、昨年末に、往年の人気テレビ番組「オーケストラがやって来た」の話を書いたのがきっかけです(No.568)。

 この番組の司会者だった指揮者の山本直純さんのことを懐かしみながら、久々に岩城宏之さんの『森のうた』(講談社文庫)を読み返しました。ふたりは東京芸術大学音楽学部時代からの盟友。「ぼくはナオズミの才能のすごさには、まったく太刀打ちできず、とにかく彼に追いつこう、というのだけがぼくの学生生活だった」と岩城さんは語っています。

 初対面でいきなり「オメェ、どんな風に音楽をやってきたんだ?」、「何となくオメェの音楽教育はまずしそうだから」などと直純さんは言いたい放題。そもそも作曲科に入学した直純さんに対して、岩城さんは打楽器で入学。学内のヒエラルキーでいえば、「タイコ屋は、下層中の下層、少数中の少数で年中差別を感じているような状態だった」というのです。ともかく「棒が振りたい」一心で、ふたり揃って指揮者の道を志すわけですが、では、どうして岩城さんが、そもそも“タイコ屋”を選んだかというと――。

 戦時下の日本で、骨膜炎にふせっていた9歳の少年に救いをもたらしたのが、ラジオのある音楽番組だったのです。アメリカから帰国して間もない平岡養一という演奏家の、その木琴の音色に夢中になったのが、「音楽との出会い」になりました。それから毎週、平岡養一の放送だけを頼りに、卓上木琴で練習を始めます。すると不思議なことに、「膝から下を切断する」と言われていた病が、いつの間にか消えていました。岩城さんの音楽人生のまぎれもない出発点となったラジオ番組とは、いったいどんなものだったのだろう、と興味を覚えていた矢先です。

 タイミングを見計らったように、不意に出現したのが本書でした。題名に「木琴」、副題に「平岡養一」の名前が並んでいます。すぐさま夢中になって読み始めました。

「再来年の二月十三日、あいてる?」――ある日、現役マリンバ奏者である著者のもとに、指揮者の井上道義さんから電話がかかってきます。

〈「二〇〇五年二月十三日、東フィルの定期で、紙恭輔(かみきょうすけ)の『木琴協奏曲』をやるんだ。君にぴったりの曲だから。平岡養一の木琴で弾いてもらう。その楽器でしか弾けないらしい。楽器はオーケストラが手配してくれるから。勉強しておいてね」 それだけ告げると、電話が切れた〉

 やがて楽器が届きます。使い込まれた6つのハードケースに収められていました。組み立てていくうちに、一世を風靡したあの「平岡養一の木琴」がやってきた、という興奮に襲われます。

 一目見た瞬間から確信はありました。しかし、実際に弾いてみると「期待以上のもの」だという喜びがこみあげます。すっかりこの木琴のとりこになりました。演奏会が終了し、聴きに来られたご遺族から「楽器は弾いてこそのものだから、誰か弾いてくださる方へ譲りたいと思っています」という言葉があり、1935年ディーガン社製の平岡の愛器は、ちょうど60歳年下の著者の手に委ねられます。

 こうして平岡が一生をかけて追い求めた木琴の音色を、2世代下の著者が息を揃えるようにして追い求め、木琴という楽器の歴史、あるいは日米開戦をはさむ激動の時代を生きた平岡の人生、また平岡が木琴を通じて伝えようとした彼の音楽――その「心」のありかを探求する長い旅が始まります。

 確かめられることは何でも調べ尽くしたい、という情熱が伝わってきます。ありとあらゆる古い資料を渉猟し、SPレコードを含めた音源を集め、生存している関係者には次々と取材を重ねます。この熱中ぶりは、ノンフィクション作家というよりも、やはり木琴の魅力にとりつかれた演奏者の本能が拍車をかけているとしか思えません。

 けれども、その結果としての作品が、「部外者」である私たちをも巻き込んで面白く展開するのは稀有なことです。まったく予備知識のない主人公であり、木琴という特殊な世界の話であるにもかかわらず、一気に読み進みます。起伏に富んだ平岡の人生の魅力もさることながら、それを物語るリズムが、あたかも木琴の演奏のように、歯切れよく、凛として、心地よいテンポで読者を導いてくれるところが魅力です。繊細でいて大胆、潔い筆致がその秘密です。

 さて、平岡の「木琴時代(デイズ)」の最初のハイライトは、単身で渡ったアメリカの地が舞台となります。1931年3月15日から、日曜を除く毎朝15分間流れた、平岡の生演奏のラジオ放送。全米の少年少女が「ヒラオカの木琴」で目を覚ます、と言われたNBCのレギュラー番組です。それは日米開戦のその日まで、10年9ヵ月続きました。

 クラシック界に「ヒラオカの木琴」を問うたリサイタルでも大成功を収めます。権威ある「ニューヨーク・タイムズ」の演奏会評で「平岡養一による比類なきリサイタル」、「誰も想像もしなかったような本物の音楽の夕べ」と激賞されたのは、1936年12月21日のニューヨークでのコンサート。翌年のリサイタルでも同紙の賛辞が連ねられます。

〈彼のタッチは、とてもデリケートであり、また圧倒的にすばらしいスタイルをもち、大変絶妙な音色とニュアンスの表現力がある。それによって、木琴を、最も気品ある音色の楽器として奏でた。…… 彼には、視覚的にも引きつけられる。身体全体が演奏の一部となっているのだ。彼は、小さくて機敏な身体で、常に飛びながら演奏する。彼の動きは気品のある十八世紀のダンスのようで、決して邪魔にはならなかった。というのも、彼の動きと曲がよくあっていたからだ〉

 平岡は12年間のアメリカ生活で自らの「音楽的基礎能力」を鍛えなおし、まさに世界で「比類なき」木琴奏者に成長するのです。ところが、1941年12月7日(日本時間では8日未明)、日本海軍による真珠湾攻撃が起ります。父の急死に際しても帰国しなかった平岡でしたが、「日本には、本家が火事になるとまずかけつけるという約束事がある。だから、私はすでに火事になっている日本にかけつけます」と、引きとめるラガーディア・ニューヨーク市長らの制止を振り切って、日米交換船の人となります。

 やがて敗戦。焦土の祖国に流れた木琴の調べは、「うちひしがれ、虚脱した人びとの心に、どれほどの慰めと力をよび起したか」と言われます。戦後の平岡は演奏機会もレパートリーも、クラシックにこだわらないで幅を広げ、国民的音楽家としての道を歩みます。NHK「紅白音楽試合」(紅白歌合戦の前身)に白組で出演して「峠の我が家」を演奏したり、『山寺の和尚さん』といったレコードを出したり、一般聴衆の心をとらえた人気演奏家となります。

〈戦後の平岡は、アメリカで……学んだ音楽の基礎を元に、自身の音楽「平岡節」ともいえる独自の奏法を確立していった。ここからが、平岡の真骨頂といえるだろう。 平岡の弾く旋律は、時に不均等なゆらぎをみせはじめる。 均等であることに慣れきった現代からすると、平岡の過度なアゴーギグは、時に理解を超えるのだが、どんなに独特の「平岡節」が出てこようとも、決して全体的なビートは揺らぐことがなく、またミス・タッチもほとんどない。平岡の音楽の変遷をみていけば、これが単なる癖ではなく、工夫であり、独特のセンスであったことがわかる。 より多くの人に語りかけたいと思う平岡の歌心の表れだったのだろう〉

〈これらの奏法により、透明感のある木琴の音色に「雑味」が加わったともいえる。音符としては表現できない、すなわち成分表示ができない「雑味」であったからこそ、誰にも真似のできない味わいが生み出された。一部分を聞いただけでも「これは平岡の木琴だ」とわかる、平岡養一の世界を確立し、大衆からの人気を得た〉

 平岡には終生のライバルともいえる存在がありました。日本木琴界の双璧とされる、2歳年下の朝吹英一です。学生時代、弟の同級生である朝吹が木琴を弾き、しかも素晴らしい楽器を持っていると聞きつけた平岡は、さっそく朝吹の家を訪ね、その楽器を見せてもらいます。「この時の平岡の衝撃は、計り知れない」と推察されます。それまで平岡が使っていた楽器とは比較にならない、「高さも幅も共鳴管も……別の楽器というほどに立派な」木琴だったからです。「オールで船を漕いでいたところ、突然黒船が現れた、というくらいのインパクトがあったに違いない」と。

 二人はすべてが対照的でした。平岡が一匹狼で、ひたすら演奏家の道を突き進んだのに対し、朝吹は名門の血を引き、実業のかたわら木琴の演奏と後進の指導に励みました。平岡は積極的には弟子をとりませんでした。演奏スタイルも好対照です。朝吹が理路整然とした演奏を好むのに対し、平岡は「身体全体、心の底から生み出される音楽」を重視し、結果、「秩序からはみ出ること」もしばしばでした。

 木琴に対しては不器用なまでに一途に、「どんな局面でも損得勘定なしに思う道をまっすぐに突き進んだ」のが平岡でした。その愚直で、天衣無縫の人生を支えたのは、母親をはじめとする周囲の人々の愛でした。

 病弱で、「養生第一に」という思いを込めて「養一」と名付けられた平岡は、生まれつきの口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)のために、友達にからかわれて悔し涙を流す子供時代でした。その時、母親が「神様というのは、人間に何か一つ足りないものをつけていますが、一方で、世界中のだれにもないような良いものをつけてくれているものです。お前は必ず、今に人並みすぐれた、世界で一人の人間になれるということを忘れてはなりません。ただ、それが何であるかということは、お前が自分で見つけなくてはいけないんですよ」と励ましたことが、どれほどの勇気を彼に与えたか。

 また、アメリカ生活に区切りをつけて帰国する際に、アメリカ育ちの日系人で日本語はまったくしゃべれない妻が、「結婚した以上は苦楽を共にするのが当たり前だ」と、ためらわずに同行したことが、その後もどれほど心の支えになったことか。

 いまやすっかり忘れられた存在である平岡の物語を、「今書き記しておかなければ」と思う60歳年下の演奏家が現れたことも、平岡の不思議な人徳かもしれません。実は、著者と平岡との最初の出会いは、著者10歳の時のステージでの共演でした。平岡の音楽生活50周年を記念して行われた全国93ヵ所でのコンサート・ツアー。その京都公演で、同じ舞台に立ち、演奏後は「固い握手」を交わしたのです。

 著者の通崎(つうざき)睦美さんは著名なマリンバ奏者であるとともに、アンティーク着物のコレクターとしても知られています。「天使突抜(てんしつきぬけ)」という、一度聞いたら絶対に忘れられない地名の、京都下京区にある自宅近くの町屋を改造し、着物と木琴の倉庫代わりにしていることでも有名です。その著者が「むすび」に記しています。

〈平岡の木琴は、本当にいい音がする。 一九三五年製、今はヴィンテージといわれるこの古い楽器の音色は、同じ設計で作っても同じような音にはならない。硬く鋭い木琴独特の音色を、時代を経た独特のやわらかさが包みこみ、硬くても甲高くないまろやかな音色がする。時代を経ることでより味わいが深くなっているのだろう。 たとえて言えば、そこには、瀟洒で凛とした木造の町屋とでもいうべき風情がある〉

 計8台の木琴に、箪笥11棹、600点もの着物・帯のコレクション。「図らずも、仕事も趣味も、かさばる物を選んだものだ、とため息が出る」(『天使突抜367』淡交社)とぼやいてはいますが、好きなものには別のつながりもあるようです。アンティークの着物、古い町屋、1935年製の平岡の愛器、木琴というマリンバの陰に隠れてしまった存在――著者を夢中にするものには、ある時代の匂いや色彩、暮らしの息づかいなどが感じられます。その消失を惜しみ、見失われがちな価値に光をあて、その伝承を「図らずも」引き受けてしまうところに共通項があるようです。あとは、著者の奏する木琴の響きを、ライブで味わいたいと願うばかりです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)