【考える本棚】
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 袴田茂樹『世のおきてに叛いて――母・八重子 その沈黙の数奇な運命』
(桜美林大学北東アジア総合研究所)
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旅路の果て
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 仕事柄、たくさんの献本をいただきますが、こういう感激を味わったのは、おそらく初めてではないかと思います。20年前に一部が雑誌記事として掲載され(「中央公論」1994年8月号)、思いもかけない大きな反響を呼びました。有名無名の読者から「涙なくしてはとても読めなかった」、「あの時代(1920年代~30年代)にこのような深い思索と鋭い感性を備えた女性が隠れていたとは」といった感想が次々と寄せられました。ところが、その続篇を待望されながら、なぜか著者の筆は止まっていたのです。

 ある時までは、顔を見れば督促したものですが、それもいつしか間遠になり、気がつくと20年もの歳月が経過していました。ようやくその懸案に「けじめをつけよう」と著者が意を決し、日の目を見たのが本書です。

 すっかり忘れかけていたころに、突然届けられた贈り物のような気がします。もし、この“劇的効果”を狙ったとすれば、「ちょっと人が悪すぎませんか」と、厭味のひとつも言いたくなるくらい、驚きと感動がこみ上げました。

 現代ロシア論の専門家として知られる学者が、23歳で死別した最愛の母の生涯を綴った――と聞くと、きわめて私的な「母恋い」の回想録と受け取られるかもしれません。肉親による回想録といえば、ただでさえ書き手の意向が働いて、客観性を保つことは至難の業となるものです。

〈人間は誰でも無意識のうちに、自分にとって不都合なことは出来るだけ忘れ、好都合なことは繰り返し反芻して、その記憶を強めるものだからである。また、何を考える場合でも、最初から自分に都合の好いように物事を判断し解釈しているからである。さらに娘が愛する亡き父親について、息子が母親について回想する時も、思慕の念や記憶を美化する気持ちが、無意識のうちに働くことは避けられない〉

 こう述べる著者は、極力息子の目による身びいきや、勝手な想像、恣意的な記述を避けようと努めます。そして郷里の家を処分する際に、たまたま発見された母親の日記、メモ、手紙の下書きや第三者の証言などを手がかりに、できるだけ当事者自身の言葉で語らせる努力をしています。

 ほぼ100年前の明治の末に生を受け、少女時代に大正デモクラシーの洗礼を浴びて、強い自我の意識に目覚めた女性。因習的な田舎の家を飛び出して、自由を求めて単身都会へ出てゆきます。「不幸な娘だと お父様 あなたは仰言いますか。だがやつぱり私にはこうするよりなかつたのです」と日記で父に詫びているのが、本書の主人公、八重子です。彼女は広島県の福山高等女学校を優等の成績で卒業し、大阪へ出て大丸百貨店に勤めます。そして組合活動を通じて知り合った、左翼活動家の袴田陸奥男と恋に落ちます。

 先進資本主義国が世界的な大恐慌に見舞われた時、かたやソ連では「第一次五ヵ年計画」で経済矛盾が克服されたと喧伝されていました。「文藝春秋」のあの菊池寛でさえ、「社会主義の理論が大体に於て真理であることは、少しでも思想的良心のある者に否定し得ないところであると思ふ。世の中が社会主義化することは、ただ時の問題である」(「社会主義に就て」、1922年)と述べていた時代です。共産主義は多くのインテリ層の心をとらえ、時代の風となっていました。

 しかし、やがて陸奥男は投獄され、娘のことで心を痛めていた母親は、47歳の若さで亡くなります。カフェで働きながら、獄中の夫に差し入れを続けていた八重子が24歳の時でした。実はこの時、彼女自身も無理がたたって肋膜炎を患い、結核を発病し、一時は危篤に陥るという重大事を迎えていました。肉親たちからは「母殺し」とまで責められ、女学校の同窓会からは「アカ」は除名すべきだという声も上がりました。昭和恐慌のさなか、幾多の苦難に直面しながら、それでも彼女はひたむきに生き、かたわら芸術に対する人一倍の関心と鋭い感性を保ち続けました。

 やがて陸奥男は転向(偽装転向)して社会に復帰し、しばらくは平穏なひと時が流れます。二人の子宝にも恵まれます。しかし1945年2月に夫は出征し、終戦とともにシベリアに抑留されます。陸奥男はソ連当局の意を受けて、60万の抑留者の間でいわゆる「民主運動(共産主義の洗脳運動)」の指導者になり、「袴田天皇」とまで呼ばれます。そのため「袴田を生かして絶対に日本には帰さない」とされ、「引き揚げ船で舞鶴に帰ろうとすれば、闇夜に日本海に投げ込まれる恐れも充分あった」という一部の激しい恨みや憎しみを買い、復讐を恐れた彼はソ連に留まります。

 そうした状況が分らない八重子は、郷里で結核療養を続けながら、困窮の中でひたすら子どもたちの将来を案じていました。1956年、日ソ国交回復後、陸奥男との連絡がつきます。が、この時すでに夫はロシア女性と再婚し、55年には娘が誕生していました。

〈そのことを知った時、帰国を信じて陸奥男の衣服などをすべて大切に持っていた八重子は言葉では表せないほどの大きな衝撃を受けた。しかし子である私や姉は、父陸奥男について母から聞かされたことは肯定面だけで、不満や愚痴は一度も聞いたことがない〉

 やがて父親から生活費の送金が始まります。結核による長年の入院生活、苦しい闘病、そして子どもたちに満足な教育を与えることさえ危ぶまれる厳しい暮らし向きの中で、それでも見事に娘、息子を育て上げます。

〈私は東大を卒業後、モスクワ放送に勤めていた陸奥男の招きでモスクワ大学の大学院に留学、初めて父に会った。実は、それまで大学では哲学専攻で、ソ連研究をするつもりもなくロシア語も学んでいなかった。…… 一九六七年の十月一日、私は横浜港からナホトカ行きの船に乗り込んだ。この時母は病床を離れて福山から見送りに来てくれたが、娘の章子に「茂樹ちゃんの顔を見るのもこれが最後かもしれないわね」とつぶやいたという。 八重子は病身であったにもかかわらず、留学には反対するどころか、むしろ積極的に私をモスクワに送り出した。その時の母の気持ちを推し測ってみるのであるが、自分の手ひとつで育て上げた子を異国の夫のもとに送りながら「見て下さい、あなたの子はちゃんと育てましたよ」という安堵、満足、誇り、さまざまな気持ちが複雑に交ざっていただろう〉

 モスクワ大学の寮で、母の訃報に接するのは、この約2ヵ月後のことでした。「電報を受け取った私は茫然とし、急遽帰国したが、葬式にも間に合わずまさに断腸の思いであった」。そしてモスクワに戻り、父親に母の戦後の暮らしぶりとその死を伝えると、普段は決して人前で涙を流すことのない強固な意志の持ち主が、「感情を抑えきれず、肩を震わせはらはらと涙を流して泣いた」といいます。

 とてもここには書き尽くせないほどの試練に直面しながらも、誠実に、自ら納得のいく生き方を求めて、57年の壮絶ともいえる生涯を遂げた女性。ある識者をして「本当によく頑張られたですねえ。一人でねえ、若い女性が。立派なお母様ですね。その世代にしては稀に見る。/しかし、まさに、こういっちゃ悪いが、悲劇的な人生ですね。戦争で家庭が崩壊し、結核で何年も入院し……」と言わしめた苛酷な人生。

 はたして彼女の人生とは何だったのか。一般的な印象そのままに、幸せとはほど遠い「悲劇的な人生」だったのか。重く胸にのしかかるこの問いかけを検証し、自らの心の整理をつけることは、息子にとって「どうしてもやらなくてはならない」務めでした。それを能うかぎり客観的に、母の人生に見合うだけの誠実さ、礼節、そして温かさをもって受けとめるには、やはり20年の熟成の時が必要だったのかもしれません。

 どんな苦しい時にも笑顔を浮かべ、毅然として、入院先でも人々に慕われ、頼られ、尊敬されていた母親の“生の充実感”を得心するためには、必要な歳月だったのかもしれません。

 個人的な付き合いで言えば、著者と最初に出会ったのは、1980年代初め、氏が国会図書館の海外事情調査室に勤務していた時代です。ソ連ではまだゴルバチョフの登場前夜。ソ連研究者といえば、クレムノロジーの解読に励む政治分析がもっぱらでした。その中で、ソ連社会のメンタリティーに着目し、ソ連は良くも悪くも伝統的な文化の国であり、それが社会主義イデオロギー以上に国の行動パターンを規定している、という著者の視点はユニークでした。

 それに加えて、初対面の時から驚かされたのは、ソ連知識人に対するリアルなまなざしでした。

〈一九六七年に初めてソ連に留学した時、私が最も強いショックを受けたのも、知識人たちのフォルマリズムやシンボリズムの芸術への、純粋芸術の世界への深い耽溺ぶりであった。パステルナークやマンデリシュタム、そしてツヴェターエワやアフマートワの詩集はまるで聖書扱いであった。真実を求める知識人たちは、現実の世界がウソ臭くなっていたために、ミクロコスモスとしての精神の世界、美学の世界に宗教的ともいえる絶対のリアリティー(真実性)を発見し、その世界に逃避していたのである〉(『ソ連――誤解をとく25の視角』中公新書)

 ソ連専門家を訪ねた先で、ブルガーコフの小説『巨匠とマルガリータ』(*)の話を延々することになろうとは、思いもかけない出来事でした。その後、誰からともなく氏の周辺情報について教えられ、日本共産党の袴田里見副委員長の甥にあたり、終戦後ソ連にとどまり、モスクワの科学アカデミー極東研究所に勤める袴田陸奥男氏の長男であること等々も知るところとなりました。

 ただ、詳しい生い立ちやご両親のなれそめ、モスクワ大学留学のいきさつなどを知ったのは、本書の前半部分の原稿を20年前に手にした時でした。そして初対面の時にもっとも話が弾んだ著者の芸術への強い関心が、実は母親譲りの感性に由来することを確認したのもこの時です。

 戦ひにゆきしまゝにて つぐないの ごとく残しゝ 子ら丈みちぬ

 たえだえし 旅路のはての 安らぎに おぼつかなくも 茶せんをすゝぐ

 遺品から著者が発見した和歌2首は、「八重子の生のあかしの言葉であり、また辞世の歌でも」あります。

〈八重子の人生は傍目には決して幸せな人生ではなかった。むしろ一般的な意味では大変不幸な人生とも言える。しかし、自らの生きる道は、はっきりと自らの手で選び取り、それを真剣に、また必死に生き抜いてきた人間として、旅路の果てにたしかに悔いはなかったであろう。また、それなりの安らぎもあったであろう〉

 日本の近代を真摯に生きた、ある明治人女性の肖像として、読み継がれるべき1冊と思います。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)