【考える本棚】
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 平田俊子『スバらしきバス』(幻戯書房)
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バスこそ「わたし」の心の友
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 普段、バスに乗ることは、まずありません。団体見学ツアーで貸し切る際とか、成田空港との往き帰りにリムジンバスを使うとか、特別な場合に限られます。「時間が読めない」移動手段は、できれば避けたいというのが合理的な都市生活者の本音です。

 まず時間通りに、バス停に来るかどうかが疑わしい。走り出しても、すぐ渋滞につかまって、ハラハラやきもきさせられるかもしれません。立っているのも苦痛です。発車、停車する度に、左右によろよろ、身体をもてあそばれるのも屈辱的(?)です。大事な急用に駆けつけようとして、この乗り物を選ぶ人はほぼ100パーセントいないでしょう。逆に、先を急ぐタクシーに乗って、前をゆくノロノロとしたデカイ図体を、何度いまいましく眺めたことか!

 ところが、そんな恨みがウソのように晴れていくのが本書の魔力です。ちょっとバスに乗るのも悪くはないか……と愛おしく思えてくるから不思議です。実際、著者お気に入りの「新宿駅西口」発「王子駅前」行きの都バスに乗らないで、この原稿を書いてもいいのだろうかと思ってしまったくらいです。

「運転手さんがどこかに連れて行ってくれる、ゆったりとした大きな容れ物。それがわたしにとってのバスである」と著者は言います。はっきりとした目的地があって、そこへ向かうためだけではありません。「箱があれば取りあえず入ってみる猫みたい」とありますが、頻出するのは「吸い込まれる」という表現――。

〈バス停の前を通りかかったとき、バスがいなければいい。でもたまたま停車していて、どうぞお乗りくださいというように扉が開いているとふらふらとバスに吸い込まれそうになる。お酒の好きな人が赤ちょうちんの前を素通りできないのに似ている〉

 続けてこうあります。

〈わたしが高円寺駅に本を借りにいくのはいつも夕方だ。喫茶店でくつろいだあと表に出ると、あたりはもう薄暗い。暗い道を走っても景色は見えない。渋滞に引っ掛かればイライラする。乗らないほうがいいとわかっているのに、わたしの足はバスのステップを上がりたがる。何て頭の悪い足だろう〉

 黄昏(たそがれ)――その昔、人の顔が見分けにくくなった夕暮れ時を、「誰そ彼(たそかれ)」と言ったのが起源だとされますが、昼から夜へと移り変わるその頃合、バスの扉に取り憑かれたように吸い込まれるのは、「魔がさす」という言葉がピッタリです。

「魔がさす」ことにいいも悪いも関係ありません。元来「魔がさす」ようにできているのが人間です。「わたしの足」はこともなげに、好んで魔を引き寄せるのです。

〈六時十五分発、赤羽いきの国際興業バスにわたしは乗り込む。赤羽にいったことはないけれど、高円寺から遠いことは何となくわかる。多分一時間ぐらいかかるだろう。途中でおなかがすくだろう。赤羽に着いても何も用はない。お店は全部閉まっているかもしれない。バス停の近くをぶらついて、すごすごと帰るだけかもしれない。どうせいくならもっと明るい時間にしなさいよ。いろんな言葉を自分にかけて思い直させようとするけれど、わたしの足は聞こうとしない。後ろの座席にしっかり腰をおろし、バスのエンジンがかかるのをどきどきしながら待っている〉

 進んで迷子になるような、そんな向こう見ずな“冒険”ばかりではありません。もっと大らかなバス好きのエピソードも語られます。刻々と移り変わる風景を眺めること。歩く時よりも、普通車に乗っている時よりも、少し高い目の位置から、未知の世界が見えてきます。物語の登場人物みたいな乗客を観察するのも楽しみです。

〈同じ時間に同じ路線を走るバスでも、乗客の顔ぶれはその都度違う。車内で起きることや交わされる会話も当然変わる。始発から終点までのあいだに繰り広げられるドラマはどのバスでも一回限りだ。平凡でささやかなドラマだが、それでいいと思う。日々の暮らしに劇的な変化は起きないほうがいい〉

 それにしても、たくさんのバスが登場します。都バス、関東バス、西武バス、小田急バス、京王バス、東急バス、国際興業バス……。はとバスのピアニシモII、横浜市営交通の観光周遊バス「あかいくつ」。そして台東区内を走る小型循環バス「めぐりん」には、南めぐりん、北めぐりん、東西めぐりんの3コースがあります。憧れの犬吠崎灯台に向かう遠距離バス(千葉交通)もあれば、東京・福岡を結ぶ高速バス(西鉄バス)も。

「バスは近所のバス停からひょいと乗れるところがいい」とあります。電車は駅まで行って改札を通り、長い階段を上り下りしてホームに辿りつかなくてはなりません。その点、バスは風に吹かれてぼんやり立っていると、向こうからどんどん近づいてきて、「お待たせしました」と言いながら、へりくだって扉の中へ自分を迎え入れてくれます。

 そこから始まる芝居小屋のような世界。あえて日常の網の目から逸脱するような気まぐれと、心細さのある小旅行。このままどこか異次元の空間に迷い込みそうな妄想をかきたてる仕掛けとして、著者はバスに鮮やかな魔法をかけてみせます。

 なまぬるい風が吹く夏の夜。ふと見ると、「江古田の森」行きのバスが停まっています。「フォンテーヌブローの森」とか、「シャーウッドの森」とか、江古田に森なんてあっただろうか? 

 雨上がりの夕方。バス停に「北野」行きのバスが停まっています。京都には北野天満宮、大阪には北野高校。この路線バスが均一料金210円で関西まで行くはずもないから、東京にも北野というところがあるのだろう。とすれば、それはどこ? 「ふらふらとバスの中に吸い込まれ、一番後ろの席に腰をおろした」。

「王子駅前」行きのバスの手招きにも、ついに陥落してしまいます。「青梅街道の街路樹のイチョウの黄葉が見事な冬の日」です。

〈王子にいくと王子様が道をぞろぞろ歩いてて、前からくる人も後ろからくる人もみんなみんな王子様で、石を投げれば王子様に当たるんだろうな。ラーメン屋に入れば店主もお客も王子様で、交番にいけばお巡りさんも泥棒も王子様だったりするのだろう。駅前で「王子様―」と呼んだら、歩いてる人が全員振り向いて「はーい」と答えるだろう〉

 最寄のバス停から王子駅まで、バス停の数を数えたら40あります。その間、中野、杉並、練馬、板橋と、いくつもの区を横切って、JR、西武新宿線、西武池袋線、東武東上線の線路を越えながら、北区までの遠征です。さて、どんな王子様が迎えてくれるだろう。奇想天外の結末が待ち受けます。

 日常と非日常との隙間に分け入っていく、不安とときめきが本書の魅力です。ユーモアにあふれた軽快な文章で、ほどよく揺れるバスの乗り心地にも似た気安さで、私たちは普段着のまま、どこかへ向かって運ばれていきます。乗客のふるまいに笑いを誘われ、バスの窓からの意外な光景に驚いたり、珍しいバス停の名前を面白がりながら、淡々と走るバスに乗り続けます。

〈ふと気づくとバスの乗客は消え、運転手さんとわたししか残っていない。よくあることだから別に驚かない。……バスを降りると風がびゅうびゅう吹いている。前にここにきたときもこんな感じだった。……ただの道ばたで、車庫らしいものもない。……ざわざわ。ざわざわ。風が吹きすさぶ道ばたにたたずんで、さて、これからどうしようとわたしは途方に暮れるのだった〉

「わたし」の孤独は犬吠崎灯台のように、「一定の間隔を置いて、びゅっ、びゅっと強い光」を放ちます。はるかに広がる太平洋の沖合36キロまで届く110万カンデラの強い光。「ざわざわ。ざわざわ」は望むところ。バスの扉に吸い込まれた者だけが手にする、生の実感。

〈わたしは気ままな一人暮らしだ。といって満たされているわけではない。からっぽのこころを抱え、自分をごまかしながら一日一日やり過ごしている。バスに乗ったからといってからっぽが満たされるわけではない。むしろ逆かもしれない。誰もいなかった車内に人が集まり、賑わい、また減っていき、最後は誰もいなくなる。何て寂しく、同時に安らぐ光景だろう。からっぽだった場所が再びからっぽに戻るのを見たくて、わたしは何度でもバスに乗るのかもしれない〉

 平田さんの第一詩集『ラッキョウの恩返し』(思潮社、1984年)を読んだのは、ずいぶん昔のことになります。今回のエッセイ集はずいぶん明るく開放的で、読み始めた最初の印象はちょっと意外な感じを受けました。でも、次第に著者の詩を思いました。「どうころんでもたぶん人は孤独だ。詩を書こうと書くまいと、生きている限り孤独からは逃げられない。……詩人は孤独だから詩を書いて、書いていっそう孤独になる」(「ひとはどこまで孤独になれるか?」、『きのうの雫』所収、平凡社)

 本書のカバーには可愛らしいバスの絵が描かれています。その上に窓が空いていて、そこからは空が見えているようです。そのスカイ・ブルーの地の上に書名がアルファベットで書かれています。〈SUBARASHIKIBASU〉

 独りだけの部屋よりも、いろんな人が出入りして、ほどよく風景が流れていき、ゆったりとどこかへ運んでくれる、バスこそ心の友であるようです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)