【考える本棚】
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 湯川豊『植村直己・夢の軌跡』(文藝春秋)
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冒険家の光と影
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 北米大陸最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に成功した後、冒険家・植村直己が消息を絶って、ちょうど30年になります。1984年2月12日、43歳の誕生日に登頂。翌13日の交信で、成功を伝えたのが最後になりました。たまたま見ていたテレビ・ニュースで「植村直己さんが消息不明」と聞いた瞬間の、何ともいえない衝撃と虚脱感は、いまだに生々しい感触としてよみがえってきます。

 山や極地に縁のうすい人間にとっても、彼の人なつこい笑顔や、なし遂げた冒険の数々、そして著作にみなぎる気迫とエネルギーは、この人と同時代を生きているのだ、という喜び、誇らしさそのものでした。

 本書は文藝春秋の編集者として、その植村氏と16年間の親交をもち(年齢は彼より3歳年長)、良き聞き役、相談相手となって、ともに“夢”を追いつづけてきたひとりの理解者による回想録です。ただし、年譜をなぞるような評伝ではなく、著者に刻まれた植村氏の鮮やかな記憶を手がかりに、彼の人間的魅力を反芻し、そのいきいきとした肖像を、できるだけ多面的に浮かび上がらせようとした試みです。

 初対面は、27歳の青年が足かけ5年に及ぶ世界放浪の旅から帰国して間もない1968年11月半ばでした。やがて彼の最初の著作である『青春を山に賭けて』(1971年、毎日新聞社刊、現在は文春文庫)にまとめられる冒険的な旅の体験談を取材しようとしてでした。

〈意外に小柄というのが最初の印象だった。しかし体はがっしりと厚みがあるのが一目で見て取れた。けっこう寒い季節なのに、彼は長袖の白いYシャツ一枚で、腕まくりをしていたのに少し驚いた。 用意していた小部屋に彼を請じ入れ、話を聞きはじめたとたんに、これは大変な男に取材することになったと思った。話の内容が大変というのではない。話の内容にまで行きつくのがひと通りのことではなかったのである。 彼は一言、二言話すたびに、顔を赤らめ、大汗をかいた。比喩としていっているのではない。上気した顔面に、汗が噴き出し、頬や顎にそれが流れ落ちた。言葉がうまく出ないのである。一言いってつっかえ、つっかえたことで顔を赤らめ、顔を赤らめながら、できるだけ誠実かつ正確に自分の体験を伝えようとする。そういうことなのだろうとすぐに推測がついたが、しかし私がそう思ったところでどうにもなるものではなかった〉

 こうして1日3時間、3日がかりの取材が始まりました。「話の後先が入り乱れ、場所もあちこちに飛んだ」聞き書きは、著者の手によって何とかまとめられ、「文藝春秋」1969年3月号に掲載されました。「無一文の一千日世界探検」というタイトルです。

 ちなみに、その号の「文藝春秋」を調べてみると、この記事は「挑戦した若者たち」という小特集の1本として収められています。他には東京・メキシコ五輪の女子体操の名花をCMにかつぎだしたという「チャスラフスカを捕えた」(渡部高揚)、レコード売上280万枚の記録を打ち立てた「『帰ってきたヨッパライ』始末記」(北山修)が並んでいます。

 巻頭特集は「東大最後の日」。「安田トリデ籠城記」と題する全共闘学生座談会など6本の東大闘争をめぐる読み物が並んでいて、立花隆「東大ゲバルト壁語録」もそこにあります。

 何が言いたいかと言えば、全共闘運動が最後の光芒を放っていた時代状況の中で、植村直己という存在がいかに世俗から超絶した、規格外のものであったか、ということです。若者の体当たり旅行記には、小田実『何でも見てやろう』(講談社文庫)という先行例がありました。1ドル360円、しかも外貨の割当規制が厳しい壁を乗り越えて、海外に出て行く若者がポツポツ出現していたことも事実です。しかし、植村は「見たい、体験したい」という欲求のおもむくままに日本を飛び出したというだけでなく、苦難の末にモンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアという3大陸の最高峰を制覇し、アマゾン河の約6000キロを筏で下るという大冒険をやってのけたのです。さらには、いったん帰国したのも束の間、日本人として初めてエベレストの頂に立ち、さらにはマッキンリーの単独登頂を果たし、世界初の五大陸最高峰登頂者となるのです。

「ナンセンス」だの、「自立の思想」だのをお題目のように唱えていた時代の風潮とは無関係に、黙って、ひそかに、とんでもないことをやってのける男がいたことに「撃たれた」というのが、私たちの偽らざる感想でした。

 ともあれ、著者と植村との付き合いは、この最初のインタビューの時からゆっくりと、時間をかけて深まっていきました。そして、予想もしなかった出来事が目の前から植村を奪い去ってもなお、著者の胸には稀代の冒険家の姿がいまも生き続けています。彼の表情、かわした対話の数々、さらに思い出のよすがとしては、度外れた彼の「訥弁」とは裏腹に、実に筆まめで「一種の記録魔」の、驚くほどに細かいメモ、日記、そして各地から届けられた手紙がありました。それらを丹念に読み込んだ上で、植村直己とは何者だったのか――彼を彼たらしめている核心、あるいは植村ただひとりを際立たせている魅力のありかに迫ろうとしています。

 ここに引かれた植村の言葉はどれもが選りすぐりで感動的ですが、とりわけ印象深いのは、1972年1月14日、初めて南極を自分の目で見た日の日記です。アルゼンチン海軍の船に乗って、南極のアルゼンチン基地の一つであるベルグラーノ基地に到着した朝の記述。少し長くなりますが、30歳の躍動感、高揚感を感じ取っていただきたいと思います。

〈ちょっとのぞいてみるかと起き上がってベッドから下り、窓から顔を出して船先の方をみると、白い起伏のある線が青い空と接している。流氷の水平線ではない。 南極大陸だ。氷に覆われた南極大陸だ。確かに陸地の氷だ。太陽がさんさん輝いていてギラギラ光っている。 生まれて初めてみる南極大陸だ。いや俺はやってきた、遂にやってきた。神は私に南極の道を開けてくれたのだ。もう俺の心は宙に浮いたように、顔のしまりがなくなってしまった。ねむいどころではない。大陸だ。マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ。何一つ疑う心なくして。 私はズボンとシャツをひっかけ、羽毛服を着て、部屋の外にとび出し、操縦室に上った。そして太陽にキラキラ光る方向に双眼鏡をすえてみると、見える、見える。波のない海面に落ち込んだ氷は次第に高くなって、ゆるやかな地平線をつくっている。 太陽はまさに今日初めて南極に入らんとしている私のために、さんさんと照ってくれているかのように、雲をはらいのけ、空は一面、濃紺の海をつくっている〉

 その南極大陸の単独横断という夢を実現するステップとして、植村はその年の秋、グリーンランドに向かいます。エスキモーの村に居住して、彼らから犬橇(いぬぞり)の操作法を学び、極地でのあらゆるサバイバル技術を習得する目的です。そして彼はすっかり現地の生活に溶け込みます(実際に養子にも迎えられます)。さらには目の前に広がる北極圏の氷雪の世界に向かって、74年~76年には北極圏1万2000キロの単独犬橇行、78年には北極点単独犬橇行、またグリーンランド単独犬橇縦断と、途轍もない快挙をなし遂げていきます。

 マグマのような巨大なエネルギーがその捌(は)け口を求めて、次々と冒険史上に残る輝かしい成果を生み出していくのです。

 それだけに、何としても胸が痛むのは、植村があれほどの感激を吐露し、念願とした“南極の夢”が、それに手をかけようとした寸前に潰えたという悲劇です。グリーンランドから犬と犬橇をアルゼンチンの前線基地に運びこみ、勇躍現地に乗り込んだ彼を待ち受けていたのは、1982年、イギリスとアルゼンチンの間に起こったフォークランド紛争でした。そのため協力を約束していたアルゼンチン軍の援助が得られなくなり、南極大陸3000キロの犬橇走破と同大陸最高峰ビンソンマシフ登頂をめざした計画は、10ヵ月もの待機の末に断念を余儀なくされたのです。

 不運に見舞われた結果であり、外的要因による中断である以上、決して「失敗のうちには入らない」というのが客観的な見方でしょう。しかし、当人の受けとめ方はまったく違っていたようです。1984年、冬のマッキンリーの単独登頂に挑んだ彼の心中は、2月6日付けの日記に書かれている最後の1行「何が何でもマッキンレー、登るぞ。――」でした。この「どうしても成功させたいという決意」の強さは、以前も植村夫人、公子さんの言葉に胸を衝かれました。「山では絶対に死んではならない」が植村の鉄則であっただけに、それはなおさらでした。

〈厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴があいたように感じました。その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです〉(植村公子「夢中で暮らした十年間」、『植村直己 妻への手紙』所収、文春新書)

 本書の中でも、「冬のマッキンリーの失敗は自分のなかでどうしても許せないから、ぜったいに無理して登頂していたと思う。登らずに帰ってくることはできなかったから」という彼女の言葉が紹介されています。

 厳冬期エベレストでの敗北、南極での挫折が、彼に与えた計り知れない苦悩と落胆の深さを、いまとなって推し量るばかりです。

「植村直己は単独行の冒険家だった」――チームを組んで探険や冒険を行うのが一般的であった時代に、植村は「最初から違っていた」と著者は述べます。苛酷な自然の中で、目標に向かって、たったひとりで行動することに、何にもまさる充実を感じ、その孤独と自由に何ものにも代えがたい喜びと安らぎを得ていた植村。

 そして、エスキモーのみならずヒマラヤのシェルパ族とも敬愛をこめた付き合いをし、彼らの中に文字通り身を横たえていた植村。あるいは犬橇を曳くエスキモー犬とのえもいわれぬ「一蓮托生」のつながり――。

 かつて夢中になって読んだ植村の著作の魅力にひたり直しながら、本書ならではの指摘の数々にその新たな横顔も教えられました。円山川が流れる故郷・兵庫県豊岡市日高町での少年時代。両親や兄弟のあたたかさ。「食べる」ことへの冒険家の執着、「全面的にエスキモーであろうとした」植村の嗜好。冒険家という以前に、彼の中にひそんでいた「自然に対する、こまやかで憧れにみちた感受性」。抑えきれないエネルギーが、家では1ヵ月に1回ぐらいの割合で「怒りの定期便」となって爆発したというエピソード、等々。

 読むうちに、そのイメージがありありと浮かび上がり、一層の切なさとともに、植村直己がいたことを改めて誇らしく思わずにはいられませんでした。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)