【考える本棚】
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 上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川学芸出版)
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蓬莱の郷路は遠く
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「君が代」の次によく知られた古典和歌だ、と紹介されます。『古今和歌集』でデビューを飾り、『百人一首』で人気を得、『土佐日記』の有名な一節にも登場しています。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋(みかさ)の山に いでし月かも

 遣唐使、阿倍仲麻呂が「唐土(もろこし)にて月を見て詠んだ」といわれる一首。717年、17歳(*)の時に、唐の都・長安へ赴き、玄宗皇帝の寵愛を受けて稀有の出世を遂げたものの、ついに帰国の夢を果たすことなく彼の地に没した悲劇の男。そのやみがたい望郷の念と孤影を刻んだ歌として、ながく親しまれてきた作品です。

 ただ、この歌はやや謎めいていて、いま作者がどこにいて、どこから、どこに出た月を見ているのかが明示されていません。また、かつて見た御蓋山の月が、いったいいつ見た月なのかもはっきりしません。したがって、私たちは『古今和歌集』の注釈にしたがって、前段については仲麻呂が唐の明州というところで、帰国送別宴の折に海辺にかかる月を見た時のことであり、後段は、留学の前に見た故郷・奈良の三笠山の月であると想像し、この歌を鑑賞してきました。

「そうか、そこに見える月は、かつて故郷の春日にある三笠の山に昇ったのと同じ月なのだな」と。

 いわば安倍仲麻呂という大きな物語の一部としてこの歌の情感を味わってきたわけです。それだけに、この作品をめぐっては、仲麻呂が実際に詠んだという説もあれば、仲麻呂が作った漢詩を誰かが和歌に翻案したという説や、作者不明歌を仲麻呂作に仮託したという説、仲麻呂が歌ったというふうに語り伝えられてきたとする伝承歌説など、諸説があるようです。

 本書の著者は、「どちらかといえば、伝承歌説に近い」が、伝承という側面よりも、むしろ創造性を重視したいといいます。つまり、語りとは、〈語られる時と場〉、〈語り手〉、〈聞き手〉の3者が相互に影響しあって、ライブ感覚で紡がれ、再構成されるものだからです。「十回語れば十回、百回語れば百回、異なったものが出来る」というのが語りのダイナミズムであって、語られるプロセスを通じて、仲麻呂はその度に「別人となって」蘇ってきたのではないか、と考えます。

〈名歌、名作には、謎があるといわれるが、仲麻呂歌は、知らず知らずのうちに、その謎解きに読者を吸引する構造になっている。私も含め、その謎解きに誘導されてしまった読者たちは、いつしか、仲麻呂物語の語り手のひとりになってしまうのである。つまり、歌が次々に物語を吸着してゆく、新しい仲麻呂が生まれてしまうのだ。これは、巧妙に作られた抜け道のない迷路、いや罠かもしれない〉

 さて、著者が専門としている領域は万葉集です。大学で講じる授業では、「万葉おもしろ第一主義」をモットーに、何はともあれ、「万葉集って、こんなに面白い」と実感してもらうことに全力投球しているといいます。したがって、いわゆる古典の授業のように歌を文法的に解釈するのではなく、現代語を使って、万葉びとの歌の心をできるだけリアルに伝えようとする「超訳」を試みます。詳しくは、『小さな恋の万葉集』(小学館)などをご覧いただきたいと思いますが、そのチャレンジングな万葉学徒が、さらに蛮勇をふるって挑んだのが、この阿倍仲麻呂伝というわけです。

「あとがき」によれば、このテーマを十全にこなすには、古代日本の氏族文化について、あるいは東アジア外交史、日唐の制度史や唐代史全般について、さらには中国詩史を理解し、それを注解する知識、平安期の和歌に対して「絶対的な学力を有している必要がある」というのです。

〈このうち、私になんとかなるのは六(平安期の和歌、註)なのだが、私の専門は奈良時代なので、平安期になると、かなりあやしい。とすると、及第点のつくものはないということになる〉

 まさに「意志あるところ、道は通じる(Where there's a will, there's a way.)」を地で行くような果敢な挑戦です。暴風雨の吹きすさぶ東シナ海に乗り出して、国家の存亡に関わる責務を担い、はるか唐まで旅立っていった遣唐使像を執筆するにふさわしい意気込みだというべきかもしれません。そして、その奮闘の賜物として、これまでぼんやりとしか知り得なかった仲麻呂の足どりや輪郭が、かなり具体的に浮かび上がってきた気がします。たとえば――、

(1)唐に渡って太学(古代中国の官僚養成学校)に学んだというが、数年後には1000人に1人とも言われる最難関の試験「科挙」を突破している。こんな快挙がどうして可能だったのか。

(2)玄宗皇帝に気に入られ、最後は国務副大臣クラスになるほどの栄達をきわめるが、仲麻呂がそれほどまでに評価されたのはなぜか。

(3)権謀術数うごめく唐の朝廷で、左遷の憂き目に一度も遭わずに、昇進を重ねることができたのはどうしてか。門閥や財力の後ろ楯もなく、留学生というきわめて脆弱な権力基盤であるにもかかわらず、なぜ失脚しなかったのか。

(4)李白、王維ら著名な文人たちと親密な交友を結んだというが、仲麻呂は唐の社会でどのように見られ、受け入れられていたのか。

(5)17歳で入唐し、69歳で没するまで、故国への思いはどのような変遷を辿ったのか。

 等々です。

 貴族階級出身者たちに対抗する文人官僚派(科挙合格組)の一人として、仲麻呂が最初に任官されたのは、「校書」と呼ばれる官職でした。書物の管理や高官の文筆を助ける係で、文官の重んじられた当時の宮廷社会では知的で格式のある役目として、希望者が多かったといわれます。その頃の友人が唐名で「朝衡」と呼ばれていた仲麻呂を讃える歌を詠んでいます。少し長くなりますが、著者の「釈義」を引用します。

〈洛陽にいる朝衡校書に贈る詩、朝は日本人である万国の使者たちは、わが唐の天子おはします朝廷に馳せ参じて集って来るけれど、その中でも、東隅の日本からの道は一番遠い。/おまえさん朝衡の凛々しさといったら、それは比べるものがないほどだ。そして、君は、今、気高きわが朝の皇太子さまにもお仕えしている。/さらには、蓬山の裏(うち)すなわち朝廷にも出入りできる身分となって、花の都・洛陽の伊水の河畔をそぞろに歩いている。/かの後漢の伯鸞(はくらん)が、父が死んだ後、さびしさにも貧しさにも負けることなく太学に学んだように、君も太学で学んでいたね。でも、夜ともなれば故郷・日本のことを一途に思っていたっけ。/落日が高殿に差し込んで、秋風が部屋に入って来る時分、君はしばしば口にしたね、遠い故郷への思いを。朝になって、あたりが明るくなったのにも気づかずに〉

 若き日の仲麻呂が、容姿、立ち居振る舞いにおいても一目置かれていたという点が興味深く、またこの時期にして、すでに望郷の念やみがたかった様子がしのばれます。

 遣唐使が日本から遣わされたのは、ほぼ20年に一度です。自らの入唐から16年目の年、天平の遣唐使たちが訪れます。仲麻呂は、彼らとともに帰国することを願い出ます。しかし、玄宗皇帝は許しませんでした。それほど人材として、彼を高く評価していたからです。

 次の機会は、それからさらに20年。仲麻呂は53歳になっていました。これを逃せば、またあと20年――。その時、自分が生きている保証はない、ラスト・チャンスだと考えたはずです。今回の上奏には、さすがの玄宗皇帝も折れました。

 その帰国に際して詠まれた送別詩が7つ、今日まで伝わっています。そのうちの4つが本書では紹介されます。玄宗皇帝が日本の遣唐使を送る思いを述べた詩、送られる仲麻呂自身が思いを伝えた詩、またその帰国の途次、仲麻呂が死去したとの報を受けた李白が、友の死を嘆き悲しんだ詩。そして何といっても圧巻は、仲麻呂の送別宴に出席した王維が披露した、実に105句545字という長大な序文のついた詩「秘書晁監(ちょうかん)の日本国へ還るを送る」です。

 詩仙・李白、詩聖・杜甫に対して、詩仏と称された王維は、当代一流の文化人であり、一大スターでした。したがって、彼が送別宴に出席し、詩序を寄せたということ自体がすでに事件でした。当時、「秘書監」(政策を立案する政府情報部内の中枢)の地位にあった仲麻呂の帰国が、どういう意味を持っていたかが窺い知れます。

 その王維の、類例を見ない破格の詩序の、現代語訳に著者が挑みます。「本書の天王山である」と記されています。「私にとっては、難攻不落の城を攻めるようなもの」、「その文章は、盛唐を代表する詩人の手によって記された宮廷文学の粋を尽くすものであって、本来、王維ほどの、仲麻呂ほどの学識なくしては、解し得ないもの」だといいます。「まるでパズルゲームであるかのように、典故を駆使して、美辞が連ねられた文章は、読者をあたかも翻弄するかのようで……聞き手や読者が、使用されている語句出典や、故事を即座に想起できなければ、まったくもって意味不明の文章なのである」と。

〈が、しかし。こういった文章こそが、盛唐の宮廷社会の雰囲気を伝えるものであり、宮廷文学たるものの本領というべきところなのである。……高位高官となっていた仲麻呂の帰国は、当時の一大トピックスであり、王維は、その送別宴の檜舞台で、持てる力のすべてを使って健筆を尽くしたといってよいだろう〉

 しかし仲麻呂は、こうして盛大に見送られ、蘇州から帰国の途につきますが、折悪しく暴風に見舞われ、漂着したのは安南(ベトナム)の地でした。命からがら長安に戻り、ふたたび玄宗皇帝に仕えますが、ほどなく「安禄山の乱」が起こり、帰国どころではなくなります。そして、ついに帰国はかなわぬまま、770年、69歳で不帰の客となるのです。

 しかし、その後も彼の名前が日本人の記憶から消え去ることはありませんでした。遣唐使が派遣される度に、「死後贈位」が続けられたのです。はからずも異郷において非業の死を遂げた先人たちの御霊を慰めることで、その加護にあずかろうという「怨霊信仰」によるものです。こうして、仲麻呂の物語は遣唐使派遣の度に繰り返されました。存命中には博学多識をもって知られた仲麻呂は、その後も語りの中で蘇り、生き続けることになったのです。 

 ずいぶん前になりますが、五島列島の福江島を訪れた際、島の西北端の公園に「遣唐使船寄泊地」という碑が建っているのを感慨深く眺めた思い出があります。遣唐使は天皇の命を受けると難波津を出て、瀬戸内海を西進し、筑紫の那の津を経て、最後の寄港地である福江島、三井楽に到りました。ここに別れを告げれば、荒い波風が待ち受ける大海原を、一路唐に向かってゆくだけです。ひとたび暴風が吹けば、たちまち難破するのが当時の船でした。

 三井楽の港を離れ、島影が遠ざかっていくのを、一行はどのような気持ちで眺めたのか。それとも、目はひたすら進路に向かって、海の彼方へと見開かれていたのか。その旅立ちの心情を思った夜に、三井楽の浜で天の川を見ました。都会ではもはや絶対に目にすることのできない見事な星空でした。月こそ見えませんでしたが、思い浮かべたのはやはり「天の原ふりさけ見れば」の歌でした。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)