┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 「アクト・オブ・キリング」(その2)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 前回に続いて、映画「アクト・オブ・キリング」のことを書きたいと思います。
1965~66年、インドネシアで起こった“共産主義者”殲滅のための大虐殺事件。
背後で糸を引く国軍の代わりに、殺戮の実行部隊となったのは、“プレマン”と
呼ばれるやくざや、反共の民兵組織などでした。

〈殺人は許されない。殺した者は罰せられる。鼓笛を鳴らして大勢を殺す場合を除いて〉(ヴォルテール)

 冒頭に引用されているこの警句さながらに、被害者が200万人にも及ぶといわれる大粛清事件であるにもかかわらず、殺害者たちはその後も罪に問われることはなく、いまも大手を振って暮しています。それどころか、共産主義の脅威から国を守った“国民的英雄”のような扱いを受け、悪びれるところはありません。事件への加担について、むしろ誇らしげに、進んで語ろうとしているのです。

 映画はその彼らに「あなたが行った殺人を、もう一度カメラの前で、あなた自身で演じてみませんか?」と提案したところから始まります。すると信じがたいことに、彼らは自分たちの“輝ける過去”を“正しく”歴史に残すために、嬉々として参加、協力してきたのです。こうして前代未聞の手法による、衝撃のドキュメンタリー映画が誕生しました。

 さて、虐殺実行者のうち、北スマトラでもっとも悪名を轟かせた一人は、1000人近くを殺害したといわれるアンワル・コンゴ――この映画の主人公です。そこに、もう一人の大物アディ・ズルカドリという人物が、製作の途中段階から参加してきます。そして、このアディとアンワルとが好対照をなすことによって、作品のもっとも重要な問いかけが浮かび上がります。

 アンワルについては前回書いたように、もともとはメダンの街を根城にした“映画館ギャング”と呼ばれるダフ屋でした。メシの種であるアメリカ映画の上映を禁じようとした共産党は、日頃から“目の上のたんこぶ”です。そこに巧みにつけこんだ影の指令塔に扇動され、“人斬り”の最前線に送りこまれたのです。

 アディについての詳しい説明はありませんが、ある時期から彼はメダンを離れて首都ジャカルタに移り住み、アンワルらとは一定の距離を置いて暮してきました。今回の話になぜ参加する気になったのか、その理由は定かではありません。ただ、ある種の「名声」に対する渇望は、彼も例外ではなかったようです。

“プレマン”特有の手柄話も共通しています。自分が事件当時付き合っていた恋人は華僑だったけれども、“華僑をつぶせ作戦”で自分はその父親を「中国系だという理由だけで」刺し、溝に落ちたところをレンガで殴った、と笑いながら語ります。一方、実に冷静で、状況を巨視的にとらえ、映画の「危険性」についても明確に認識しています。「もし俺たちがこの映画づくりに成功すれば、共産主義者は残酷だというプロパガンダが覆る。俺たちが残酷だということが判明する」

「罰則はない。40年も前だ。どんな犯罪も時効になっている。(だから)恐れではなく、イメージの問題だ。世間は言う。“やっぱりウソか。共産主義者が残酷だなんて”。……すべてが覆る。……アンワルと俺が貫いてきた信念は全部ウソだったことになる」

 しかし仮にそうだとしても、「それが真実なら隠す必要はないだろう」と反論されると、「その通り。だが、すべてを公表する必要はない。神にも秘密はあるはずだ。……言いたいことは言ったよ。どうするかは任せるがね」と、アンワルらに警告を発します。

 監督のインタビューを読むと、どうやら彼はこの種の発言を撮影中に何度も繰り返した模様です。しかし誰も耳を貸しませんでした。彼もまた、映画から降りるとは言いませんでした。

 そのアディに、監督が質問をぶつける場面が続きます。「1965~66年の粛清は一種の戦争だった」と言うアディに対して、監督が問いかけます。

 監督:「戦争だから仕方がないとあなたは言うが、でもジュネーブ条約では戦争犯罪ですよ」

 アディ:「国際法には必ずしも賛同しない。ブッシュ政権は強制収容所を使い、フセインが大量破壊兵器を持っていると(言った)。それが正しいことになっていたが、今は違う。今日はジュネーブ条約が規範でも、明日は俺たちがジャカルタ条約をつくる。戦争犯罪は勝者が規定するものさ。俺は勝者だ。自分の解釈に従う。国際的な定義に従う必要はない。何でも真実ならいいってことはないぞ。この件を蒸し返すなんてのはよくないことだ。たとえすべてが真実だとしても」

 監督:「しかし、大勢の被害者遺族にとって、真実が明らかにされるのはいいことです」

 アディ:「なら最初の殺人からやれ。カインとアベルだ。なぜ共産主義者殺しだけに注目する? インディアンを殺したアメリカ人を罰しろ。この件を蒸し返すのは挑発行為だ。戦争を続けてほしいなら、やってやる。俺たちを戦わせたきゃ」

 監督:「ハーグの国際司法裁判所に呼ばれたら?」

 アディ:「今か?」

 監督:「そうです」

 アディ:「行くよ。罪悪感はないがね。では、なぜ行くか。ハハハ、有名になれるからさ。ハーグに行けるようにしてくれ」

 アンワルとアディが、二人で釣りをしながら、会話する場面があります。アンワルはここで初めて、「寝ている時にうなされる」と打ち明けます。「目を閉じると、針金で殺した(首を絞めた)人間のことが脳裏によみがえる。それで悪夢を見る」と。

 アディの答えは明快です。「取り憑かれた気分というのは、精神が弱っているせいさ。神経科へは行っているか?……お前の悪夢はただの神経障害なんだよ。行ってみろって。医者にかかって、そしてビタミン剤をもらうんだ」

 アディは合理的に割り切っています。善悪の基準は状況によって変わるもの。自分は時の流れに従って、虐殺に手を貸したに過ぎない。そしてそれは、もう時効になっていて、罪に問われることもない。良心が疼くことも、悪夢に襲われることもない。

 1961年のアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントの有名な評言――「悪の陳腐ささ(凡庸さ)」はおそらくアディにもふさわしい言葉です(メールマガジンNo.572、No.573参照)。

 それに対して、アンワルにはトラウマがありました。「死にたくなかった人間を自分が無理に死なせた」と、心の奥深くで「罪」の意識に苛(さいな)まれている様子が仄見えます。

 やがてアンワルは監督に向かって、「君に俺の話を正直に打ち明けすぎて、そのせいでうなされるんだろうか。それとも死者の仕返しだろうか」と洩らします。そして「俺に深い影響を与えた場所だから」と言って、スタッフを因縁の場所に案内します。それは首を刎ねた後で、死体の目を閉じてこなかったために、その目に「いつも見つめられている。それが俺の心をひどくかき乱すんだ」という、悪夢の根源になっている殺しの現場です。

 あるいはカンプン・コランという村を焼き討ちにする場面――。アディがいみじくも言ったように、残虐だったのは“共産主義者”ではなく、自分たちのほうだったという真実が、再現を通して確認されます。エキストラの子どもたちはリアル過ぎて恐怖のあまり泣き出し、ある女性は撮影後に気絶してしまいます。「正直言うと後悔してるよ。ここまでひどい光景になるとは思ってもみなかった」とアンワル。

 挙句は、アンワル自身が拷問の末に、針金で絞め殺されていく場面です。まるで自分を追い込むかのように、リアル過ぎる虐殺シーンを再現します。その執念は想像を絶します。

 そんな場面の合い間に、孫と遊ぶアンワルの姿が差し挟まれます。誤ってケガをさせたアヒルに、「ごめんね」、「わざとじゃないよ」とちゃんと謝るように、孫に言い聞かせている好々爺。これが虐殺の過去を自慢げに語っていたのと同じ人物なのか。亡霊の夢にうなされていると洩らした男、あるいは残忍な場面をこれでもか、これでもかと再現し続けている暗い情熱の持ち主と同一人物なのか。一体どれがアンワルの正体なのか――。

“理想郷”をイメージした不思議な映像もあります。アンワルが愛してやまない「Born Free」(映画「野生のエルザ」のテーマ曲)の美しい音楽をバックに、踊り子たちと滝の前で笑みを浮かべながら、彼が全身で平和であることの喜び、幸福感を表現している場面。驚くのは、絞殺された犠牲者が二人、アンワルの首に金のメダルをかけて握手し、こう呼びかけるところです。「私を処刑し、天国へ送ってくれたことに1000回の感謝を。何もかもありがとう」と。

 この映像を見たアンワルは感動して、監督に語りかけます。「素晴らしいよ。これはいい。こんなすごいものを作れるなんて思わなかった。何より誇らしく思うのは、滝が表現するこの深い感動だ」と。

 意表をつかれるのは、この感動が引き起こすその後の彼の行動です。寝ている孫たちを起こしてまで見せようとするのは、自分が針金で首を絞められ、処刑される場面です。

「暴力的過ぎます」という監督たちの声をよそに、孫たちを両脇に抱き寄せると、語り始めます。「じいちゃんが拷問され殺されるぞ」、「じいちゃんが血を出すぞ」、「じいちゃん、ぶたれるぞ」、「じいちゃん、悲しそうだね」、「太っちょに痛めつけられてる。頭をぶたれて」……。

 マシュー・ホワイトの『殺戮の世界史』(早川書房)に出ている「残虐な大量殺戮上位100位」というランキングによれば、インドネシアの粛清は40万人とされ、第81位に挙げられています。第1位は第二次世界大戦の6600万人、続いてチンギス・ハンと毛沢東が4000万人で2位を分けあい、スターリンの粛清は2000万人で第6位、ポル・ポトの民主カンボジアは167万人で第39位となっています。

 最初のうちは、超現実的で、異界の話だと見えていた物語が、実はわれわれにとって普遍的な、生々しい現実を突きつけているのだと分かった瞬間に、この作品の恐ろしさは倍化します。孫に映像を見せたところから続く数分間のラストシーンは、アンワルが抱え込んだ地獄そのものです。因果(カルマ)とは、「神から直接下される罰みたいなものだ」と認識している彼が見つめる暗闇の広がり。亡霊たちに囲まれた場所にたたずむ彼自身が、「悪霊」そのものです。 そして締め括りは、エンドロールに次々と現れる“anonymous”という文字です。これは2014年のインドネシアのリアルな姿です。映画の製作に関わった現地スタッフの大半が、ふりかかる“身の危険”を恐れて、クレジットを「匿名」にしています。約60名が参加したという映画ですが、そういう“いわく”があることを最後の最後でまた突きつけられる作品です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)