【考える本棚】
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 藤田三男『歌舞伎座界隈』(河出書房新社)
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木挽町の「心柱」
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 木挽町(こびきちょう)という名前を初めて耳にすると、大半の人は木を挽く職人たちがかつて住んでいた町を思い浮かべることでしょう。「木」という文字から立ちのぼるかぐわしい香り、職人たちのいなせな感じやきびきびとした動き、「木を挽く」行為にともなう厳粛な空気――。これはてっきり生粋の江戸っ子たちが切れのいい会話をポンポンと繰り出している、さっぱりした気風の町だと思うに違いありません。少なくとも私はそうでした。

 一方、「木挽町といえば歌舞伎座」という永井荷風の言葉もよく知られていますので、歌舞伎座を中心とした、昭和通りと築地川(いまはその川底を首都高速道路が走っています)にはさまれた晴海通りの北東側――歌舞伎座やマガジンハウスのある一帯が木挽町だろうと思っていました。

 したがって、シチューの店「銀之塔」や珈琲店「樹の花」、ラーメンの「味助」、和菓子の「よしや」、コロッケの「チョウシ屋」などがある界隈の、細い路地がつらなる昭和レトロな雰囲気こそ、わが懐かしき木挽町(「東京生まれ」でも「東京育ち」でもないくせに)と感じ入っていたわけです。

 ところが数年前、京橋にあった鰻料理の「竹葉亭」が、ビルの改修のために店じまいすることになりました。女将さんがわざわざご挨拶に来て下さいました。その時、「木挽町の本店は引き続き営業しておりますので」というひと言に、「竹葉亭本店」のあるあたり――料亭「吉兆」などが立ち並ぶ、戦前の新橋花柳界の中心地は、銀座でも築地でもなく、木挽町に属するのだと、いまさらのように気づいた次第です。

 さらに加えると、昭和通りから北西に向かった2本目の通り――その昔、三十間堀川の流れていた跡地までが木挽町だと聞くと、この町の懐の深さに驚嘆します。昨年3月末に閉館した三原橋地下街「銀座シネパトス」については、このメールマガジン(No.335)でも書きました。http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag/335.html

〈もともと三原橋というのは、江戸時代に作られた運河(三十間堀のこと)の上に、1929年(昭和4年)に架けられた橋の名前です。ところが、昭和20年の東京大空襲によって夥しい量のガレキが生じ、それらを処理するために、運河が埋め立てられることになりました。そして昭和27年、この作業が完了した後に、残された橋を活かす形で「三原橋地下街」が誕生するのです。ですから、よく見ると地下街の天井はアーチ形の橋の面影がそのままです。上を走る晴海通りも、路面がやや橋の形に盛り上がっていることが分かります。

 つまり、「三原橋地下街」というのは戦前の名残りをとどめる一方で、戦災処理の結果として生まれた、きわめて戦後的な空間です。さらに言えば、焼け跡闇市以来の日本人のバイタリティーそのままに……戦後復興期の猥雑な空気を、今日までしっかりと受け継いできた“聖地”だと言うこともできます。しかも、銀座の表玄関である4丁目交差点とは目と鼻の距離にありながら――〉

 その三原橋地下街で、ただ1店営業を続けてきた「三原カレーコーナー」が、先月27日で店を閉じました。東京五輪の年に開店して50年。「銀座シネパトス」の閉館後も、1年頑張ってきましたが、これで毎週金曜日だけの550円(通常は700円)のカツカレーともお別れです。

 打って変わって翌日の夜は、歌舞伎座が特別にライトアップをし、そして黒紋付の歌舞伎役者170人をズラリと揃えて、賑々しい1周年式典を催しました。地下の「木挽町広場」では、「新開場から1年間を無事に終えた感謝」をこめて、花形俳優による鏡開きも行われ、ファンに甘酒が振る舞われました。

 ……話を戻すと、ひと口に木挽町と言っても、昭和通りと晴海通りによって大きく4分割された町内は、各区域が互いに異なる個性を持ち、流れる時間も歴史もさまざまです。それでいて差異は必ずしも固定化されないで、複雑に入り交じり、溶け込みながら、町の記憶として積み重なっています。

〈銀座と木挽町、この二つの街は三十間堀を境に隣接しているが、その成り立ち、街の実質からいっても全く異質の街である。木挽町というから木場のように木挽の職人でもいたかのように思われがちだが、江戸時代の街のほとんどは武家屋敷で……商業地として発達した銀座や日本橋とは違う。 よく人に「木挽町生まれですか、江戸っ子ですね」などとからかわれ苦笑することがある。……江戸に生まれて維新後も木挽町住まいという人はまったくいないのである。ほとんどの住人は関東大震災後に流入した地方人である。祖父、父の友人、隣人たちもそのほとんどが地方出身者であった〉

 本書は「木挽町」の来歴を、冒頭でこう説明しています。そして、いまや「銀座」に繰り入れられた、旧京橋区木挽町。その1丁目9番地「藤田洋傘店」の三男坊として、著者は1938年(昭和13年)に生まれています。祖父は広島県出身、父は「木挽町の三奇人」と呼ばれた洋傘職人だそうですが、著者その人は長年文芸編集者として、あるいは榛地和(しんちかず)の名で装本家として腕をふるった、私たちの大先輩にあたります。

 ちょうど1年前に本書が出た際に、早速手にして読みました。新しい歌舞伎座がどんな按配で周辺の町になじんでいくのか、そこに関心があったからです。

 そもそも歌舞伎座というのは、江戸三座とは違う新しい歌舞伎を、という演劇改良運動の中心にいた福地桜痴が座主となり、1889年(明治22年)に開場したのが始まりです。都市には祝祭性、享楽性が必要であると直観し、「日本のオペラ座」をめざしたのが福地です。したがって、第1期の歌舞伎座は和風建築臭のない西欧的な外観でした。

 九代目團十郎、五代目菊五郎、初代左團次ら明治の名優たち、いわゆる“團菊左”が活躍したのもこの舞台なら、21歳の青年、荷風永井壮吉が作者部屋に出入りしたのも、このハイカラな洋風建築の時代です。

 それを思い切って、第2期の歌舞伎座は純日本式に舵を切りました。洋風建築の帝国劇場に対抗して、徹底的に日本的な意匠が追求され、大胆な改造が行われます。ところが、この建物が大正10年に焼失し、ただちに再建に取りかかったのが、第3期の歌舞伎座です。設計は岡田信一郎。建設途中、関東大震災にも見舞われますが、その困難をおして、1925年(大正14年)に開場します。城郭と社寺風建築を基調にしながら、安土桃山の豪華絢爛、奈良時代の典雅壮麗を取り込んだ、斬新で派手な鉄筋コンクリート造り。文字通り祝祭的で「艶っぽい」(隈研吾)日本一の大劇場が、首都の真ん中にお目見えしたのです。

 ところが、昭和20年5月25日の空襲によって、この建物も失われます。「銀座地区は一帯に戦災の被害がひどかったが、木挽町で直撃弾の被害を受けたのは歌舞伎座だけであったと思う」といいますが、木挽町の住人にとって「心柱」のような存在が瓦礫と化したのは、言葉に尽くせない衝撃だったろうと思われます。

 再建されたのは6年後。物資の乏しい時期ではありましたが、第3期のあでやかな趣を再現しながら、そこにモダニズムの要素を取り入れた、吉田五十八の設計による絶妙なバランスの修復でした。

〈私は戦後昭和二十六年に再建された歌舞伎座しか知らないが、純日本式の建物は銀座とちがってくすみのある木挽町の街並によくとけこんでいた〉

 ちょうど著者が小学校を卒業する年、そして進駐軍による日本占領の最後の年、昭和26年1月に開場しています。

 それを平成の第5代歌舞伎座はどのような形で踏襲するのか。いまの時代感覚にいかに呼応させ、木挽町の景観や土地の精霊にどうなじませていくのか――。「昔の建物に馴染んだ人は新しい建築を絶対に褒めない」という人間界の法則を知り尽くした上で、あえてこの難題に挑んだ設計者、隈研吾さんにかかるプレッシャーは、さぞかしであろうと思っていました。

 ところで、本書は奇妙な味わいを持ったエッセイ集です。これまでの著作でなじんだ著者の文体ともまた異なります。小学校の6年間にちょうど重なる占領期の思い出が綴られていますが、子どもの目に映った切れ切れの光景が鮮やかで、歌舞伎座近くに足を向けると、ついつい周辺を散策するようになりました。

〈平成二十二年の秋も深まったころ、偶々銀座に出ることがあり、少し足を伸ばして昭和通りを渡り、木挽町のわが家跡を久しぶりに眺めた。相も変わらず愛想のない更地のままのわが家の跡地を一瞥して、私の足は自然と四丁目の歌舞伎座へと向かっていた。 改装中の歌舞伎座はすっかり取り壊され、ものものしい鉄の塀に取り囲まれていた。内側を窺い知ることはできなかったが、そのとき私にとって三年後のこけら落しが、遠い遠い先のことのように思われたのはなぜだろうか。 敗戦の年の五月、木挽町一帯でただ一個所、歌舞伎座は被弾炎上した。あの瓦礫の山の前に立っていた少年の私に、何の感慨、なんの喪失感の欠けらもなかったが、いま再建のためとはいえ取り壊され(塀で見えないが)、更地となった歌舞伎座の前に立って、言い知れぬ空白感にとらえられている自分が不思議に思えた〉

 奇妙な味わいというのは、一篇一篇のエッセイが、いわゆる作品としての完成度をめざしていない、というところからも来ています。「ちょっと気取って書け」が丸谷才一流の「よい文章」のコツだとすれば(『文章読本』、中公文庫)、木挽町出身者の心意気として「気取り」や手だれの技はあえて禁じたのかもしれません。

 むしろ記憶の手触りだけを頼りにして、できるだけ自在に、時空をまたいだ旅をしたかったのではないか。足どりはあちこちに彷徨(さまよ)っても、心は木挽町とともにある――そんな気ままな書き方が選ばれたような風情です。

 一昨年末から昨年にかけて中村雀右衛門、中村勘三郎、市川團十郎と、あいついで花形役者が逝きました。歌舞伎座が建て替えられる時は、決まって大きな禍が降りかかるといわれます。第3期歌舞伎座の時は関東大震災、第4期は第二次世界大戦と、この国の歴史の中でも「二つの大きな危機に対する答え」(隈研吾)として、それぞれの歌舞伎座が設計されました。そして、今回の第5期歌舞伎座も、東日本大震災(3・11)のさなかに構想されました。

〈歌舞伎座という建物は、日本が危機に瀕するたびに、その苦境から立ち上がるように再建される運命なのかもしれない。そんな魔性が宿る建築なのかもしれないと、少し怖くなりました〉(隈研吾『建築家、走る』、新潮社)

 この連休中の混雑をぬって、地下の「木挽町広場」から5階の屋上庭園に上がってみました。木挽町一帯を見渡すわけにはいきませんが、歌舞伎座の屋根の上を散歩するという趣向は、これまた実に「かぶき」的です。125年続いたこの特異な空間に、新しい時代の風を感じます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)