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 転がるボールを追いかけて
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 サッカーのワールドカップ・ブラジル大会が始まりました。今回は夜更かしと
いうより早起きパターンですが、それにしても、寝不足との戦いがやってきまし
た。大会期間中はまるごと休みを取ってブラジルへ、という某有名会社社長の
“英断”を聞きましたが(オーナー社長ではありません!)、そういうムチャを
やらせてしまうのもW杯の魔力です。

 日本vs.コートジボアール戦を観た後、しばらく放心状態に陥っていたところ、いつの間にかうたた寝をしていたようです。前回W杯の日本代表監督だった岡田武史さんが現れて、「この間、具合が悪いとおっしゃっていたのは、このあたりですか?」と首をマッサージしてくれました。「あ、そこ、そのあたりです」――と、“感激”を口にしたところで、目が覚めました。夢とはいえ、現地テレビ解説でお疲れのところ、よけいな気遣いまでさせてスミマセン(岡ちゃんには次号に出ていただく予定です)。

 さて、今回は、何といってもサッカー王国ブラジルでの大会です。日本中がまだサッカーに冷淡きわまりなかった頃――野球部に独占されていた中学校のグラウンドの片隅で、肩身の狭い思いをしながらサッカーボールを蹴り始めた40数年前、“世界一”の名選手といえば、ブラジルのペレにとどめをさす、というのが定説でした。

 17歳でW杯に出場し、1950年の「マラカナンの悲劇」(*)の痛手から祖国をW杯2連覇(1958年、1962年)へと導いた立役者。ところが、次の1966年イングランド大会では、ペレが負傷退場(次の試合は欠場)したために予選リーグ敗退という大番狂わせが生じました。すると、19歳のブラジリア工芸学校の女生徒が、「私はペレが憎い」と泣き叫んで、旅行中の船から身を投げるという事件が起きました。

 ビデオもなければ、外国サッカーのテレビ放送などまったく考えられない時代。わずかな情報を頼りにせいいっぱい想像力をふくらませてみますが、いったい何がどう凄いのか、万人が認める“キング”ペレとはどんなプレーヤーなのか、本当に雲をつかむような話でした。

 1970年メキシコ大会の全試合を、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が録画放送するのは、ブラジルが3度目の優勝を遂げたこの大会の終了後からです。しかし、ペレのプレーをじかに見るまでには、初来日のサントスFCと全日本との一戦、1972年5月26日午後7時(国立競技場)を待たなければなりませんでした。

 ともかくプロ野球日本シリーズは国民注視のイベントでしたが、サッカーのワールドカップって何、という時代が長くありました。1964年の東京オリンピックを前に、ドイツからデットマール・クラマーさんを代表チームの強化コーチに招いた際、クラマーさんがボール・リフティングをして見せると、選手たちが目を丸くしたという出来事からまだ10年を経ていません。

 1968年、メキシコ五輪で日本チームが銅メダルに輝き、釜本、杉山の黄金コンビが注目されたとはいえ、プロ・リーグなど夢のまた夢。実業団チームによる日本サッカーリーグ(JSL)が発足(1965年)して間もなくです。「ワールドカップ・クラス」という謎めいた言葉が、フワフワと頭のはるか上を舞っているだけでした。

 ですから、海外で活躍する選手が大半を占める現在の日本代表の顔ぶれを見ると、まさに隔世の感を覚えます。とにかくみんな上手い。小さい頃からサッカ-ボールに親しんで、世界の一流選手たちのプレーを繰り返しビデオで見ては研究しています。巧みなフェイントや高速ドリブルのテクニック、ボールをキープする技術、視野を広く保ち、状況を瞬時に判断する能力や、選手としての心構えも、いつの間にかいろいろな形で吸収しています。

 そんな「お手本」を見つける術もなく、「世界水準」などとても実感できなかった時に、憧れのサッカー王国ブラジルの風を、日本に吹き込んでくれた選手がいました。誰もがその足技を必死でまねようとしました。彼に憧れて、あちこちの中学・高校サッカーチームに、「ネルソン」と呼ばれる“技巧派”が出現しました。私の属した高校サッカー部にも、1年先輩に「ネルソン」がいました。彼は、なぜかレギュラーではなかったのですが、ある日の紅白戦で神がかり的なテクニックを披露して、その名誉ある称号を手にしたのです。

 現実のネルソン吉村選手は、日系二世としてブラジル・サンパウロ州に生まれ、旋盤工として働きながら夜間高校に通い、休日に日系人のクラブチームでプレーしていました。1967年4月、早稲田大学のエース釜本邦茂を迎え入れ、チーム強化に取り組んでいた大阪のヤンマーディーゼルが、同年6月に初の外国籍選手として19歳の彼を招致します。センターフォワードの釜本に絶妙のパスを供給する中盤の選手として、ネルソンはその期待に応えます。

 ボールを浮かせて相手をかわし、スピンを効かせたパスを送る。何より軽やかで、柔らかいボールタッチは、日本中の少年ファンが初めて目にするものでした。

〈ネルソン相手に、毎日ボール蹴りをした。いいボールを出さず、わざとトラップしにくい所や、胸で受けなければならないようなボールを出す。 ひょい。 まさに、ひょい、という感じでネルソンは相当な難ボールでも、一発でピタリとコントロールした。 そんなネルソンの体の使い方を、毎日毎日観察した。……ネルソンから“巧さ”を盗もうとした。物心ついた時からボールに親しんできたネルソンの柔らかいボールタッチと反応、ボールを処理し、次の動作に移る速さ。南米育ちは動きに無駄がなく、すべてが柔らかい。まるでネコだった〉(『ゴールの軌跡――釜本邦茂自伝』ベースボール・マガジン社)

 毛糸の玉にじゃれるような“ネコ”の華麗なテクニックに加えて、長髪、ソフトな顔立ち、気さくな人柄でも人気を集めました。有名なエピソードとしては、あるサッカー講習会に招かれた際のこと。「フェイントの型」を見せてほしいと言われ、「誰もいないところでやるの? 相手がいないとボクはできないよ」と困った顔を浮かべたという話――。小さい頃から、遊びの中で自然にフェイントやドリブルを身につけたネルソンにとって、武術のように「型」を示せと言われること自体、カルチャーショックだったのかもしれません。

 ともあれ、ネルソン獲得の成功が引き金となって、ヤンマーには1969年に黒人のカルロス・エステベス、1971年に日系人のジョージ小林がブラジルから来日し、いよいよ常勝ヤンマーの黄金期が形成されます。すると、他チームにもブラジル選手をテコ入れする気運が伝播して、1972年にはセルジオ越後(藤和不動産)、そして与那城ジョージ(読売サッカークラブ)らがやってきます。

 帰化して吉村大志郎となったネルソンは、日本代表としても活躍。26歳の時に結婚した相手は、ヤンマー尼崎グラウンドに隣接する三花寮の寮長の娘で、来日以来何かと面倒を見てもらった同い年の多恵子さんでした。2003年に56歳の若さで亡くなりますが、2010年に殿堂入り。日本サッカーミュージアムに掲げられたレリーフには、次の献辞が刻まれています。

〈1947年8月16日、ブラジル・サンパウロ生まれ 日本サッカーリーグ(JSL)初の日系ブラジル人選手…… 吉村の華麗なプレーは、ブラジルサッカーの個人技が「日本人でもここまでできる」ことを認識させ、後に日本のサッカーがブラジルスタイルに傾倒していく際の大きな勇気づけとなった…… 引退後は指導者となり、若手の育成、タレント発掘など地道な仕事で日本サッカーの発展を支えた 1981~89年ヤンマーコーチを経て、1990~94年監督として指揮を執り、セレッソ大阪の礎を築いた〉

 その後、日本国籍を取得して日本代表として戦ったブラジル人選手たち――ラモス瑠偉、呂比須ワグナー、三都主アレサンドロ、そして日系三世の田中マルクス闘莉王たちに活躍の道をひらいたのは、ネルソン吉村という先駆者の功績です。

 そのネルソンという名前にふと惹かれて、『生きるためのサッカー』(ネルソン松原、サウダージ・ブックス)という新刊を読みました。帯に「日本に“ブラジル・サッカー”を伝授し、日本代表やJリーガーを含む数多くの選手を育成した日系ブラジル人二世のサッカー指導者による、はじめての自叙伝」とあります。略歴を見れば、1973年~75年に初のブラジル人サッカー留学生として、札幌大学に来ていたことが分かります。

 明治41年(1908年)に日本からの移民船・笠戸丸が初めてブラジルへ渡ってから、昨日(6月18日)で106年になりました。いまや推定150万人以上とも言われる世界最大の日系人社会が存在しています。

 その移民一世の家庭に生まれ育った著者は、大学1年生だったある朝、寝ているところを揺り起こされます。日系人向けの日本語新聞を手にした母親が、「日本の北海道にある札幌大学が、ブラジルからのサッカー留学生を募集している」、「早く申し込みに行け」と急き立てます。

〈北海道は、両親のふるさとだ。お父さんは江別、お母さんは旭川の出身。二人とも幼い頃に離れているから、どれだけ記憶があったかはわからないけど、「日本」「北海道」「サッカー」「大学生」という言葉に思わず反応してしまったんだと思う。 日系人の家庭、特に一世の世代は、日本の文化や生活習慣をとても大事にしている。子どもたちにも、それを伝え、受け継がせようとする〉

 サッカーに親しんできた著者の人生が、こうして父祖の国、地球の裏側へと転がっていきます。そこからのさまざまな経験、人との出会い、それによって培われた彼の人生観が、衒うことなく、実直に語られて感動的です。

 著者、ネルソン松原さんはサッカー選手として表舞台で活躍をしたわけではありません。留学からブラジルに帰国して、体育大学を卒業。スポーツ関連の仕事に就きますが、留学の際の恩師の誘いで、1988年、札幌のサッカー指導者として再来日。その後は川崎製鉄サッカー部ヘッドコーチ、ヴィッセル神戸ユースコーチおよび監督を歴任。現在は、神戸スポーツアカデミーで市民にサッカーやフットサルを指導するかたわら、NPO法人・関西ブラジル人コミュニティのスタッフを務めるという、いわば裏方の指導者人生を送ってきました。

〈いつも言ってることなんだけど、ぼくは「先生」や「コーチ」と呼ばれるのはあまり好きじゃない。自分は「指導者(インストラクター)」だと思っている。先生やコーチだと、サッカーの技術を教えるだけ。自分の言うことに従わせるだけ。だけど、指導者となれば、いろんな面から相手を見て、さまざまなアプローチをしないといけない。サッカーのことはもちろん教えるけど、サッカー以外のことも教える。人間として成長させることが大事なんだ〉

 驚いたのは、全体の3分の2くらい読み進めたところで、「ネルソン吉村が、実はぼくの親戚、義理の兄に当たるんだ。ぼくの兄貴の奥さんが、ネルソン吉村の妹なの」という記述に出くわします。「日系ブラジル人としてJSLでプレーしたはじめての選手と、日本の大学ではじめてのサッカー留学生だったぼくが義理の兄弟だなんて、よくできた話だとおもうかもしれないけど、これは単なる偶然」と、サラリと触れられています。

 大好きなサッカーでブラジルと日本の架け橋となり、日本に定住する道を選んだこと。来日のきっかけとなった“縁”を大切にして、後進の指導に情熱を注いでいる点。まさにこの二人はよく似た生き方です。しかし、それ以上にこの義兄弟には、より深いところで共通する何かを感じます。決して自分を見失わない謙虚さ、名利を求めない慎ましさ、礼節を重んじるふるまいなど――人としての誇りです。

〈フィールドの上をボールが転がる。それを追いかけてゴールを目指す。サッカーはとてもシンプルなゲームだ。…… ブラジルと日本。地球の両側に分かれた二つの国の、異なる文化を、ぼくは運命に導かれるまま生きてきた。…… だけど、後悔はしていない。ぼくの行き先はボールが決める。ボールが転がり着いたところが、ぼくの生きる場所なんだ。…… ぼくのボールは地を這って、地球というフィールドを移動していった。ぼくはそれをひたすらに追いかける。なぜなら、それが自分の信じるサッカーのスタイルだから〉

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)