【考える本棚】
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 植村鞆音『歴史の教師 植村清二』(中央公論新社)
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生涯一教師
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 植村清二という東洋史の学者が、直木賞にその名をとどめる直木三十五(本名・植村宗一)の10歳違いの実弟だということは、後になってから知りました。むしろ植村清二という歴史の名物教師がいて、その授業の名調子たるや……という思い出話を旧制新潟高校OBたちから折に触れて聞いたのが先でした。

 年譜的にいうと、『歴史と文芸の間』(中央公論社、1977年)が刊行され、ほどなく先生の喜寿を祝う会が新潟高校同窓会主催で開かれます(1980年2月4日)。そこにはかつての生徒約170名が参加し、その中には「エムさん四十でおれ二十(はたち)」と「黒の舟歌」の替え歌を披露した野坂昭如さんや、綱淵謙錠さん、利根川裕さん、丸谷才一さんといった作家の姿がありました。ちょうどその頃、編集者になりたての私は、彼らから新潟での青春物語を興味深く聞く機会があったのです。

 そんなわけで、令息の筆になるこの本も刊行されると同時に読みました。亡き父への敬愛の思いが全篇にあふれ、明治生まれの知識人の質実な生き方が、時代背景とともに、公私両面から見事にとらえられた伝記です。

 幼い頃から無類の本好きで、中学時代の「夏季日誌」には、すでに膨大な読書量が披瀝され、縦横無尽の博覧強記ぶりが横溢しています。その「日誌」の見開きに「生くる為に学び、学ぶ為に生きよ」というドイツ語の格言を掲げた通り、生涯をこの姿勢で貫きました。85歳までの61年間、教壇に立ち続け、生涯一教師として「知ることの喜び、教えることの喜び」を享受しました。

 その意味で教師は天職だったはずですが、「父は、およそ教師らしくない教師であった。謹厳というわけでもない。生真面目とも違う」とあるように、息子に「勉強しろ」と強要することもなければ、必要以上のことはほとんど話し合わない親子だったようです。「しかし、振りかえってみると、教わったことは少なくない。見方を変えれば、彼こそ教師中の教師だったといえるのかもしれない」と、改めて父の影の小さくないことを実感したところから、本書は書き起こされています。

 ささいなことで、2つショックを受けました。ひとつは、新潟から東京の大学に進学した著者の手元には、父親が書いて寄こした手紙が「半世紀経ったいまなお捨てられずにとってある」という事実です(私自身は、この種の手紙を何ひとつ残していません!)。これがひとつ。

 終戦2年目の年に愛妻を病気で失って以来、子ども3人を抱えた男やもめの暮らしにはさまざまな苦労が伴いました。著者が上京した頃は、一家の重大事が次々と降りかかります。亡くなった夫人は京都の素封家の令嬢で、「週刊朝日の表紙を飾った彼女にひとめ惚れした清二が求愛したという説」まである11歳年下のよき妻、よき母でした。

 息子宛てに送金した現金書留に同封された手紙の多くは、「新潟の気候、妹や祖母との生活の報告に始まり、身体を大切にするように、お金が必要ならいってこい、幸運を祈るという言葉で終っていた」とあります。父親らしい温かな情愛が感じられます。

 もうひとつのショックは、「追想 植村清二」のために、二人の孫がおじいちゃんの思い出を綴った文章です。当時17歳だった長男は、仏教には輪廻(りんね)という考え方があるが、ひょっとすると祖父は将来ぼくの孫に生まれ変わってくるかもしれない。その時に注意してやりたいと思う十ヵ条を並べました。

第1条 偏食をしないこと。(祖父は生野菜を絶対に食べませんでした) 第2条 大食しないこと。(死ぬ寸前まで家中でいちばんの大食漢) 第3条 ステッキをふりあげて他人を威嚇しないこと。(道路などでも、祖父は、乱暴なひとや無礼なひとをみかけると、ステッキをふりあげてにらみつけました) 第4条 くしゃみはすこしは遠慮して。(祖父のくしゃみは三軒隣りにまで聞こえたそうです) 第5条 腹ばいで本を読まないこと。(こどものころ腹這いで本を読んだため近視になったといっていました) 第6条 濡れたタオルを使わないこと。(一日じゅう濡れたタオルを使うので部屋じゅうが臭かった。ぼくらは、それをおてんてんの匂いといって恐れました) 第7条 煙草の火をこぼさないこと。(座っているまわりじゅうに煙草の火をこぼして焼けこげをつくりました) 第8条 家でもパンツをはくこと。(寝間着のしたははだかでしたし、夏はすっぱだかで、前を濡れタオルで隠していました) 第9条 ひとをだまさないこと。(ぼくが小学生のころ自分は体操の先生だといっていました) 第10条 妙な友だちをつくらないこと。(ときどき、玄関先で、大声でむかしの歌を歌う詩人が来て、祖父も一緒になって歌ったし、ぼくも歌わされそうになりました)ひとのふり見てわがふり直せ!

 教え子のひとり、丸谷才一さんは「この奇想天外な趣向の、そしてユーモアと愛情に富む追悼を繰返し読み、泪ぐんだ」と驚嘆しています(「娯楽としての戦争」、『人形のBWH』所収、文春文庫)。子どもを持たない私はこれを読み、初めておじいちゃんになれなかった父親に、ある“負い目”を感じました。これが二つ目のショックです。

 これほどこまやかな愛情に結ばれた一家だということの地続きに、教師と教え子との強い絆も存在しています。喜寿のお祝いパーティで答礼に立った老師は、教え子たち語りかけます。

〈私が新潟に赴任したころ、生徒諸君は勤労動員ばかりで、学生というより工員といったほうがよいような生活を送っていた。当時、教師として諸君になにもしてやれなかったことを、三十年経ったいまお詫びします〉

 とんでもない、と並みいる卒業生たちは思ったことでしょう。戦時色一色に塗りつぶされた時代の中で、「先生は、常に冷静に的確に世界を判断して、誤ることがなかつた。われわれはあのとき、史眼とは何かといふ実物教育を受けてゐたのである」(植村清二『万里の長城』中公文庫・解説)と丸谷さんは述べています。

 実際、終戦の年の4月の新学期の冒頭講義では、「諸君、われわれは戦後について考えるべき時期にいたった」と述べ、戦後はアメリカとソビエトを中心とする諸国間の対立、また植民地の解放と独立が始まることを予見しています。日本の今後についてはいっさい触れず、敗戦をこのような形で示唆したのです。

 こうして日本の軍国主義に反対の立場をとり、戦前は危険思想の持ち主と見なされていたにもかかわらず、戦後はマルキシズムの風潮に抵抗し、誰も見向きもしなくなったテーマの『神武天皇』、『楠木正成』(ともに中公文庫、品切)といった著作を次々ものします。戦前は進歩主義者のごとく、戦後は右翼反動のごとく見られたかもしれませんが、「戦前も戦後もとくに変わったわけではない。父は、単純に歴史家の立場で自分の信ずることを正直に表現しただけだったのだと思う」と著者は語ります。

 こういう天邪鬼な反骨心、独特の風貌、分厚い眼鏡の底からギョロッと生徒をにらみつけるような迫力、そして何より豊かな学殖、高い識見、人間的な包容力――等々を総じて、いうところの「名物教授」だったのだろうと想像されます。

 旧制高校とは「人間と人間が出会い、楽しみ、悩み、そして思考する場」であり、教師と生徒が「愛について、生について、死について、人間について、語り合い探究する場」であったといわれます。つまり、大学で専門課程に進む前の段階で、リベラルアーツを徹底して学び、煩悶するもよし、大いに人格形成のための“疾風怒濤”の時期を経験することが期待されていたのです。

 少し長くなりますが、植村清二を語った丸谷才一さんの名物教授論を引用します。

〈旧制高等学校の風俗としては、敝衣(へいい)破帽とか、朴歯の足駄とか、寮歌とか、ストームとか、その手のものばかり取上げられるが、名物教授といふ存在があつたことを忘れてはならない。むしろわたしとしては、あれこそは旧制高校的風俗を最もよく代表するものだつたやうな気がする。後の時代の人々はそれを手がかりにすることによつてはじめて、あの半世紀以上にわたる重要でしかも特殊な学校教育のいはば中心部を、感知することができるであらう。 名物教授とは、学問がよく出来て、一風変つた脱俗の趣のある、そして人格的魅力に富む先生のことである。この型の人は、学生をむやみに叱るくせに人気があつたし、教員のなかではもちろん一目も二目も置かれてゐた。…… その旧制高校的な精神とは、知性による世界の認識を高く評価することであつた。さういふ認識の能力に憧れ、それを身につけようといふのが、あの特権的な学校教育の根本にあるものだつたらう。……さういふ生き方は、現象面としてはいはゆる教養主義なるものに見えたかもしれない。 しかし知性が働くためには何よりもまづ広い範囲にわたる高度な教養が必要である。旧制高校は、和漢洋の学識を備へた知識人をその理想としてかかげてゐたし、和漢洋といふ三つの領域の統合は、戦前の日本の文明では具体的に生きてゐる価値であつた。そしてかういふ型の知性のヒーローこそ、いはゆる名物教授にほかならない〉(前掲書解説)

 学生たちを強く惹きつけ、いつまでも慕われ続けた名物教授が、まさに植村清二その人でした。教育をめぐる環境は、戦前と戦後ですっかり変わってしまったとはいえ、そこにいくばくかの、いや途方もない羨ましさを感じるのはなぜでしょうか。

〈死後、遺品を整理して、その簡素で清々しいことに感銘を覚えた。別荘も株も、ゴルフの会員権も宝飾品もない。残されたのは、小さな一軒の家、書籍とわずかばかりの軸物。子どもや孫たちがアニバーサリーに贈ったプレゼントやカードなどは、箪笥や箱にそのままのかたちで大切に蔵ってあるのだった〉

 書斎を「蠹残(とざん)書屋」と呼び、特注の原稿用紙にも「蠹残」の文字を入れ、戒名にもこの2文字を使ってほしいと願ったとか。「紙魚(しみ)の食い残しの本」といった意味。新潟時代、書斎の床の間に架けていたお気に入りの七言絶句の中の言葉で、「台所は貧しく、おさげ髪の下女がひとりいるだけ。郊外にある畑は二頃にみたない。ただ紙魚の食い残しの本だけはたくさんあって、朝も夜もぶらぶらしながら、名残りの日々を楽しんでいる」と説明された記憶が、著者にはあるそうです。

 本好きの少年が、教師という職を得て、そのまま一生を終えました。61年間の最終講義の後で、「ありがたい。生涯好きなことがやれた。後悔するものはなにもないな」と身内に呟いたそうですが、この短い感謝の言葉にも心が揺さぶられます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)