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 戦後69年目の夏
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 「八月や六日九日十五日」(荻原枯石)

 いよいよ来年は戦後70年。ところが、昭和も戦争も遠くなりにけり――という感慨がひとしお強かったこの夏は、マスコミ論調も「時の流れには抗し難い」といった詠嘆調が多かったような気がします。広島、長崎に原爆が投下され、敗戦にいたったあの夏を実際に知る人は年々少なくなっています。全国戦没者追悼式の参列者も減ってきています。このまま記憶が風化するのに任せてしまっていいのだろうか……。

 そんなことを思いながら拾い読みしていた先輩編集者の著書の中に、「先行世代は、自らの経験の試行錯誤を伝承として残すことこそ古来からの人間の義務ではなかったか」という言葉を見つけました。若い世代に歴史感覚の欠如があるとするならば、それは戦後を生きてきた大人たちの責任ではないか、という指摘です(粕谷一希『戦後思潮』、藤原書店)。

 だからこそ、「戦争の記憶をいかに語り継ぎ、どうしたら戦争を起こさずにすむのかを考えつづけることは、今後ますます重要になってくるだろう」という三浦しをんさんの言葉にも思わず頷いてしまいます(読売新聞、2014年8月17日)。

 たまたま友人から、少し前のメールマガジン(No.591)について感想が送られてきました。1964年10月10日の東京オリンピック開会式に触れて、私たちよりも前の世代が味わった痛切な体験を述べたことに対してです。

「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」と実況のアナウンサーが感激するほどに、澄み切った秋晴れの下での開会式でした。敗戦国の日本がようやく国際舞台に復帰したことを内外に高らかに宣言する、歴史的なセレモニー。

 しかし、その華やかな入場行進からちょうど20年前の同じ10月、場所も同じ競技場内を、冷たい秋雨に打たれながら行進した出陣学徒の姿を、そこにダブらせながら感涙をこらえていた人たちがいました。

〈あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四ヵ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ〉(杉本苑子「あすへの祈念」)

 友人が書いてきたのは、あの「出陣学徒壮行会」で約2万5000人の学生の先頭をサーベルを掲げて進んだ、東京帝国大学法学部法律学科(のちの東大教授)三ヶ月章氏のことでした。

〈三ヶ月章先生は、苦学の末、一高、東大で学び、学業を遂げることができない無念の気持ちもある中、「読みさしの本にしおりをはさんで戦場に行こう」と決意し、「生等(せいら)もとより生還を期せず」と覚悟して出陣しました。生還した後、戦後、民事訴訟法の泰斗となり、さまざまな立法に貢献し、東大紛争で辛酸を嘗めた後、細川内閣の法務大臣に就任しました〉

 友人の手紙は続きます。

〈三ヶ月先生は、「生等もとより生還を期せず」の先頭に立ち、「あいつは死んだ。俺は生きている」ということに終生こだわり続けました。一高ホッケー部で寮生活をともにした親友五人と一緒に伊勢、橿原、吉野を巡礼して別れを惜しんで出陣したのですが、二人が戦死し、そのうち特に親しかった一人が特攻隊で死んでいます。「俺が生きていていいのか」と苦しんだそうです。先生が私に対して「いまでもあいつの声が背中に聞える。俺の分まで頑張ってくれという声をいつも背中に聞いて、体が壊れるほど必死で仕事をしてきた。私たちの世代は、みな同じ気持ちでやってきたんだ」と話してくれたことがあります〉

 細川内閣当時、先の大戦を日本の「侵略戦争」だったと総理が表明した際に、三ヶ月法務大臣は、それについての感想を記者会見で問われ、「抵抗感がある」と答えました。それが報道されると、国会では「閣内不一致」の観点から追及を受けました。三ヶ月法相は、侵略戦争発言を「総理の立場として公にすることは……勇気のある発言だなという感じを一方で持った」と肯定的に受け止めながらも、自らの学徒出陣の体験を語り、「我々のああいうふうな友人の思いというものが、あるいは死に方というものが、果たしてこれも侵略戦争の片棒を担いだんだろうかという評価がもし出てくるとすれば、それは私にとってやはり抵抗感があるということもまた率直に申したわけでございます」と述べています(1993年10月7日、参議院予算委員会)。

 さらに同世代の憲法学者の言葉(作間忠雄氏の投稿「『侵略戦争』と親友兵士の死」、朝日新聞「論壇」1993年9月11日)を引用しながら答弁しています。

「これは彼(註・作間氏)の言葉でございますが、……やはりこのままこの無謀な戦争を続けるべきではない、戦争はしたがってやめるべきであるけれども、それは我々二等兵というふうな形の者としてできることでないならば、同胞を守るために死ぬほかはない、もし日本民族が全滅しなければ生き残った人たちが協力して今までと違う日本を造って欲しい、こういう気持ちを我々はみんな持ったんだということがここに書いてございます。実は、私も全くこれと同じ感情を持って軍隊生活を送ったわけでございます」

「『多数の兵士は戦争の「犠牲者」であったとしかいえない。』ということをはっきり作間さん書いておられます。……『しかしそれは決して「犬死に」ではない。まして断じて「侵略の加担者」ではないのである。彼らは「日本国憲法」に化身して、平和日本の礎となった、と私は確信している。』、こういうことを書いておられるのでありまして、私も全くそれと同感であるということを申し上げさせていただきます」

 議場はしんと静まりかえり、「そうだよ」という声が当時の野党、自民党席から聞えたといいます。20年前には、学徒出陣した“生き残り”の人たちが現役で活躍していました。議場にも何人かいたはずです。その後の休憩時間に、三ヶ月法相の席を訪れ、言葉を交わしていた参議院議員・田英夫氏(1943年、学徒出陣で応召)の姿が目撃されています……。

 神宮外苑の雨中の行進――。ふとあの映像を見たくなって、岡本喜八監督「江分利満氏の優雅な生活」(東宝、1963年)のDVDを借り出しました。山口瞳氏の直木賞受賞作を映画化した傑作喜劇で、原作の随筆的な味わいをそのまま活かしながら、大胆奇抜な手法を駆使して、軽妙に、辛辣に、反語的にエブリ氏の日常と、オリンピック直前の東京の風俗を描き出しています。

 圧巻はラストで延々と続くエブリ氏の独白場面です。サラリーマン作家として直木賞を受賞。勤め先の若い社員たちによって祝賀会が開かれます。パーティでの最初のスピーチ、までは抑制がきいてスマートでした。ところが、アルコールが入り、1軒、2軒とハシゴをするうちに、エブリ氏のボルテージはどんどん上がります。若手社員は一人抜け、二人抜けして、やがては独壇場に。

 こんな酔漢だけはご遠慮したい、と思わせる、典型的なからみ酒。戦中派の心情がこれでもか、これでもかとばかり、くどくどと、延々と吐露されます。見ているほうまで辟易してくるクダの巻き方で、原作を巧みに構成した長広舌の台本です。

 そのクライマックスの引き金として流れる映像が、出陣学徒壮行会の行進です。そこから戦前の学生野球の思い出話が始まります。逃げ足の遅かった社員が二人、とうとうエブリの社宅まで連れられてきています。エブリの目に浮かぶのは昭和12年の神宮球場、早慶戦の一場面です。黒い学生服、白いワイシャツ、応援団長が立ち上がります。「かっせぇ、かっせぇ、ゴォゴォゴォ! そらぁッ!」

〈昭和12年の大学生は、昭和12年の日本について何を知っていたのだろうか、君たちの力で戦争を止めることはできなかったか。そりゃ無理だよ。そんなこと出来るワケがない。昭和の日本では戦争は避け難い。 それじゃ学生は浮かれていたのだろうか。絶望していたのだろうか。それもわからない。あの学生達はどこへ行っちまったのだろう。半数は戦死したのだろうか。「右手に帽子を高く」はどうしたろう。……あのエネルギーはどこへいったんだろう。神宮球場のエネルギーは何もできなかったのだろうか〉(原作の最終章「昭和の日本人」より)

 岡本喜八監督が「原作を読んだときに一番ズシッときたのは昭和の日本人の件(くだ)りだから、あれだけはラストへ、極端にいえばお客があきるまで、書き込んで頂きたい」(*)と脚本家に依頼したというだけあって、この独白部分はセオリーを無視した長さになりました。

 しゃべり疲れたエブリが寝入るまで、夜通し独演会に付き合わされ、クシャミをしながら、ほうほうの体で社宅から転がり出た二人の犠牲者さながらに、以前見た時は、このシーンのくどくどしさにまいってしまいました。ところが、今回はそれが面白いのです。辟易はするのですが、ついつい惹きつけられてしまいます。原作も35年ぶりぐらいに読み直してみると、こちらも俄然面白く感じられるのが不思議です。

 なぜでしょう。ブキッチョで、頑固で、生マジメ。傍からはうかがい知れない屈託を抱えた鬱陶しい男たちが、20年ほど前には珍しくなかったものです。それがいま、新鮮な印象で、何かを伝えてきています。これはどういうことなのか。戦後69年目の「真夏の夜の夢」なのか、それともまだ語り尽くしていないという戦中派の遺志なのか……。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)