【考える本棚】
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 井上さつき『日本のヴァイオリン王――鈴木政吉の生涯と幻の名器』
(中央公論新社)
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企業家にして楽器職人
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 名ヴァイオリニストの歴史的な演奏を蓄音機で聴こう、という有志の集まりが、5月に2度、開かれました。CDで聞くのと何がどう違うのかと思ってヤジウマ参加してみると、まったく次元の違う体験だということが、たちどころに理解できました。ヴァイオリンの音の震え、空気の振動が、じかに伝わってくる感動! 音のふくよかさ、力強さがまるで違って体感されます。小林秀雄ならさしずめ「こうこなくっちゃ、いけません」(*)と上機嫌で言い出しそうな、陶然たる思いにひたります。

 その続きがまた9月に催されます。待ち遠しいなぁと思っていたら、思いがけず本書で次の文章に出会いました。

〈「ヴァイオリン工場で育ち、きょうだいげんかのときなど、ヴァイオリンでたたき合ったり」していた鎮一にとって、ヴァイオリンは「おもちゃの一種」であった。ところが、このエルマンのレコードがきっかけで、おもちゃのように思っていたヴァイオリンの本当の音色を知り、ヴァイオリニストへの道を歩み出すことになった〉

 上記の蓄音機の集まりで、最初に聞いた名演奏家というのが、ミッシャ・エルマンその人です。ペテルブルク音楽院で偉大な師レオポルト・アウアーに学んだユダヤ系ロシア人ヴァイオリニスト。甘美な音色の「エルマン・トーン」で一世を風靡した大スターです。そして、文中の「鎮一」がエルマンを聴いたのも蓄音機。朝顔型のスピーカーのついた、手回し式だというのも、まったく同じです。

〈ともあれ、鎮一はレコードでエルマンの演奏に接して、「エルマン・トーン」に衝撃を受け……それ以降、レコードを頼りに、独学でヴァイオリンを練習した〉

 後に世界にその名をとどろかす「スズキ・メソード」の鈴木鎮一氏が、ヴァイオリンに目覚めた最初のきっかけだそうですが、本書の主人公はその鎮一氏の父親である鈴木政吉という人物です。日本におけるヴァイオリン製作のパイオニアであり、大正時代の名古屋では、豊田自動織機の豊田佐吉、合板の技術を開発した浅野吉次郎と並んで、「三吉」といわれた発明王の一人です。

 フランス近代音楽史を専門とする著者は、十数年前に、フランスの国立図書館で調査をしていたところ、1900年にパリで開催された第5回万国博覧会の楽器部門の受賞者一覧に「スズキ・マサキチ、ジャポン」とフランス語でつづられているのを発見します。調べてみると、「スズキ・マサキチ」は名古屋の老舗、鈴木バイオリン製造株式会社の創業者で、才能教育で有名な鈴木鎮一氏の父だということが分かります。俄然、興味をかきたてられます。

 幕末に尾張藩の下級武士の家に生まれた政吉は、藩士の内職に始まった家業の三味線作りを継ぎますが、名工として人一倍仕事に励んでも、生活は日に日に苦しくなっていくばかり。このままでは食えないからと「唱歌」指導者をめざした時に、ヴァイオリンと出会います。1887年(明治20年)のことでした。

 初めて見たヴァイオリンを前に、「鈴木さん、これをひとつ作ったらどうか」と水を向けられると、「これなら朝飯前のような気がした」というのですからあっぱれです。「音」を聞くと、「上品で、三味線などの比ではない。これは遠からず良家の子女が弄(もてあそ)ぶようになるに違いない」と直感します。

 とはいえ、西洋音楽の素養は皆無です。終生親しんで、彼が秀でていたのは長唄でした。しかし、その長唄で励んだ修練こそが、後年ヴァイオリンを創製する際に、「独歩の境地を開拓する上に最大の要因をなした」というのです。楽器の音色に対する並はずれた芸術的感性は、政吉の最大の武器でした。

 知人から一晩だけ借り受けたヴァイオリンを研究し、見よう見まねで第1号を試作すると、あとは和楽器とすっぱり縁を切り、本格的なヴァイオリン製造をめざします。「自分が正しいと思い納得できる道は誰が何といおうと猛進する、そうしなければ承知できない」という強い意志、不断の努力とあくなき探究心が政吉の原動力となりました。

 時代の流れは西洋楽器の受容へと向かっていました。名古屋に政吉があれば、浜松にはオルガン製作に情熱を燃やす山葉寅楠(やまはとらくす、ヤマハの創始者)がおり、二人は新時代の旗手として、販路の確保でも足並みを揃え、西洋楽器産業の発展の礎を築きます。

 政吉がめざしたのは、「いいものを安くこしらえて売る」という、まさに「ものづくりニッポン」を先取りしたようなビジネスモデルです。分業、機械化などの技術革新にも積極的で、自ら機械を開発し、特許を取り、職人を育成する一方で、職場の規律を重んじました。また品質面では有力な演奏家たちを訪ねては試奏の講評に耳を傾け、国内外の博覧会に出品しては製品の競争力を磨きます。

 先行例も手引書も何ひとつない創業から、わずか10年、20年という間に西洋楽器産業の牽引者となるのですから、見上げた企業家精神の持ち主です。ハイリスク、ハイリターンの積極果敢な政吉の姿勢は、著者をして「やはりただ者ではない」と舌を巻かせるのも当然です。

 その一方で驚くのは、当時のヴァイオリン人気です。オルガンが普及する前は、学校で唱歌を教えるのにヴァイオリンが伴奏に使われたり、国産のオルガンやピアノに比べて安価で持ち運びに便利なヴァイオリンは、気軽に弾いて楽しむ楽器として、若者を中心に庶民の間で親しまれました。1917年(大正6年)に刊行されたクラシック音楽の啓蒙書では、「ヴァイオリン」をこのように記述しています。

〈西洋の楽器中我が国でヴァイオリン程、通俗的に成っているものはありません。ヴァイオリンならば大抵の田舎に行っても知られています。何しろ縁日で流行歌をうたう書生までヴァイオリンをキイキイ鳴らすのですからね〉(大田黒元雄『洋楽夜話』)

 夏目漱石の『我輩は猫である』(1905年)に出てくる帝大卒のエリート、水島寒月君(物理学者の寺田寅彦がモデルとされる)のヴァイオリン談義は、新潮文庫でなんと40ページを費やすほどです。それくらいハイカラで珍重がられたヴァイオリンが、あっという間に巷に浸透していったわけです。ちなみに寒月君が、ヴァイオリンを買うなど生意気だと言われないかとビクビクしながら手に入れたのは、5円20銭のヴァイオリン。実際に、熊本第五高等学校在学中の寺田寅彦が、1898年(明治31年)に購入した鈴木ヴァイオリンは8円80銭、いまでいうと10万6000円ほどでした。

 ともかく19世紀末から日清、日露、第一次世界大戦と戦争があるたびに需要が伸びて、絶頂期の1921年(大正10年)には年間15万6000個のヴァイオリンが生産され、中国、欧米の市場にも輸出されるようになりました。驚くのは、当時のヨーロッパのヴァイオリン製作の現実です。アマティ、ストラディヴァリ、グァルネリなど、16~17世紀に名工を生み出した北イタリアのクレモナの伝統はすっかり途絶え、衰退していました。ドイツ、フランスなどの量産工場も100人を超える規模のものはなく、最盛期の政吉の工場が1000人あまりを雇用していたのとは桁違いでした。

 かくして「ヴァイオリン界のフォード」として、廉価で大衆向けのヴァイオリンを量産し、市場の拡大をなしとげた政吉は、同時に工業製品だけでは飽き足らず、三男の鎮一がベルリン留学から持ち帰った古銘器グァルネリを手本にして、高級手工ヴァイオリンの製作に乗り出します。大正末年以降の新たなチャレンジです。

 そして、グァルネリの「鳴り音」を自分の楽器で再現すべく、ついにその「秘法」――「済韻(さいいん)」と呼ばれる音量・音質の改良方法を発見します。その精魂を傾けた作品が実際にどういうものであったのか、「クレモナ巨匠の遺作に匹敵する絶品」と評された幻の銘器がどこにあるのか、是非この目で確かめたい――。

 著者の願いがかなって、円熟期の政吉の作品が二本「発見」されたというのが、本書のもうひとつのドラマです。

 ひとつは、現在、皇太子殿下がお持ちのヴァイオリンです。故高松宮宣仁(のぶひと)親王から直接贈られたもので、政吉の1926年製であることが分かりました。もうひとつは、1929年製の楽器で、戦中戦後の大混乱をもくぐり抜け、地元の方によって守られていました。現在は著者の勤務先である愛知県立芸術大学に寄贈されています。

 とびきりの材料を使って手間暇をかけて作る芸術品。「この時代に、これだけの技術をもって製作されていたとは!」と、クレモナで活躍する、現役ヴァイオリン製作者の松下敏幸さんを驚かせた政吉の名器は、きっとまだどこかに残されているはずです。「大事に扱って、きちんとメンテナンスして演奏してほしい。良い響きがするに違いない」と著者は語ります。

 第一次世界大戦後は、欧米から著名な演奏家が次々に来日し(ミッシャ・エルマンは1921年に来日し、帝劇で大成功をおさめます)、蓄音機が普及し、ラジオ放送も開始されます。ほんものの西洋音楽の受容が広がります。ところが、大戦景気の反動が起こり、昭和恐慌の時代に突入すると、ヴァイオリンの売り上げは激減し、工場の経営は悪化の一途をたどります。

〈鈴木鎮一のように、蓄音機で名演奏家の演奏を聴き、ヴァイオリン音楽に目覚めるという現象は、程度の差はあれ、日本のあちらこちらで起きていたと思われる。……それまで唱歌などを曲がりなりにも弾いて自分で楽しむことで満足していたアマチュアが、名演奏家の演奏に接したとき、その音楽の深さ、その楽器の真のむずかしさに直面する。 第一次世界大戦の大戦景気以降、ヴァイオリンが輸出はもちろん、日本国内でどんどん売れなくなっていき、昭和に入るとどん底の状態に至るが、その裏にはこうした事情もあった。 ヴァイオリン音楽に人々が飽きたので、ヴァイオリン離れが起こったのではなく、ヴァイオリン音楽の奥深さを人々が知ってしまったために、ヴァイオリン離れが起こったとも言えるだろう〉

 1932年(昭和7年)についに不渡り手形を出し、会社は倒産することになります。その後長男の努力によって会社は再建されますが、政吉は太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)1月31日、満84歳の生涯を閉じます。「七〇歳を過ぎてからの工場の倒産はさぞつらかっただろうが、その後も彼は楽器の製作に没頭」します。

 ほとんど意識がなくなっても、まだ仕事を続けているつもりだったのか、傍に呼んだ息子に向かって「機械のスイッチを切ってくれ」と言ったのが、最期の言葉となりました。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)