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 16歳の「音楽的夭折」
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「古い鈴木ヴァイオリンを、実は私も所持しています」という方からご連絡を
いただくなど、前回のメールマガジン(No.601)には思いがけない、嬉しい反響
がありました。ところが、一方で大失態! 北イタリアの楽器工房の町「クレモ
ナ」を「クレナモ」と誤記しておりました。お詫びして訂正いたします。ついに
やってしまったか、と頭をかく他ないのですが、こういう記憶違いというのはあ
りがち(?)ではないですか(自分の粗忽さを棚に上げるようですが)。

 いま発売中の「芸術新潮」が特集しているのは「ヒエロニムス・ボス」――。この名前を最初に覚えた時、なぜか「ヒエロニスム」とインプットしてしまい、以来口をついて出そうになる「ヒエロニスム」は誤りで、正しくは「ヒエロニムス」、と“脳内操作”を繰り返すうち、どちらが正しいのかこんがらがってきました。

 立派な教養人がとんでもない「言いまつがい」(*1)をしているケースも時として見かけます。どこに落とし穴があるか分かりません。皆さんも気をつけましょう。

 さて、「クレモナ」の間違いをいち早く指摘してくれた知人が、メルマガを読んで思い出した楽しい小著があるといって、『ヴァイオリンはやさしく音楽はむずかしい』(ルイ・グレーラー、全音楽譜出版社)という本を教えてくれました。著者は日本のクラシック・ファンにもお馴染みのヴァイオリニスト。1913年にニューヨークで生まれ、トスカニーニ率いるNBC交響楽団などで活躍した後、1960年に来日し、日本フィルハーモニー、新日本フィルハーモニー、札幌交響楽団などでコンサートマスターを務め、武蔵野音大などでも教鞭を取った人物です。

 この本には、トスカニーニ、ストコフスキー、クライスラーや、ロシア系ヴァイオリニストの巨匠エルマン、ハイフェッツといった人たちのエピソードが満載されています。良き時代のアメリカの楽団仲間のことが愉快に綴られていて、とても面白い一冊です。ところが、そこに「W少年の悲しみ」という非常に短い文章が挟まっていて、これを読んだ途端、胸を衝かれてしまいました。

 将来の演奏家を育成する交響楽団「ナショナル・オーケストラル・アソシエーション」で指導にあたっていた著者の許には、何人かの日本人留学生がいました。その中でも「とりわけ若く、優秀だったW少年」がしばらく練習に顔を見せません。仲間の一人(前回のメルマガに登場した鈴木鎮一さんのヴァイオリン教室から来た小林健次さん)にたずねると、「じきに出てくるからというのですが、どうもはっきりしません」。

〈あまり心配なので、ある日小林氏をつかまえて、いったい何があったのか、何か私で助けになれることならするから、事情をちゃんと話してくれと迫りました。彼はW少年が睡眠薬を飲んで自殺をはかり、病院に入っていることを教えてくれました。とんで行った私は、体を動かすこともできず、植物のように横たわる、W少年の悲しい姿を見なければなりませんでした。彼は私が来たことが分かると、口はきけないのですが、私の指をぎゅーとにぎり、つぶった目の間から涙をこぼしました。何か日本にいる義理の家族が彼の帰国を主張し、彼はそうしたくなかったとかで、悲観してこんなことになったらしいのです。彼のすばらしい指も、もう動くことはなく、彼の天才的な心も、もう現わすことができないのかと思うと、胸がつぶれる思いがしました。あまりにも美しい才能というのは、その純真さ故に、もろいのでしょうか〉

 いまでは知る人も少ないかもしれませんが、W少年とは渡辺茂夫さん。敗戦後間もない日本で「神童」として注目を集め、世界的巨匠ハイフェッツの強い推薦によって、ジュリアード音楽院に無試験で入学を認められ、名匠ガラミアンに学ぶことが決まったという、何から何まで異例づくめの待遇で、1955年(昭和30年)夏に14歳でニューヨークに渡った天才です。

 グレーラーさんの文章に心を揺さぶられ、矢も盾もたまらず本棚の奥から『神童』(山本茂、文藝春秋、1996年)を探し出しました。「夜空にきらめく一瞬の光芒のように消えた」渡辺茂夫さんの音楽的人生を、愛惜の念をこめて追った力作ノンフィクションです。

 ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアーの指導を受けた絢爛たるヴァイオリニストたちが、ロシア革命の勃発によって故国を離れ、世界中に散らばります。音楽家の大きな流れはアメリカ大陸へと向かいますが、日本へ逃れた亡命者の一人にボリス・ラスという逸材がいました。彼はアウアーから学んだ独特の運弓法を日本にもたらし、このアウアー奏法を全身で受けとめた演奏家に渡辺季彦(すえひこ)氏がいました。やがて、彼が「世界一のヴァイオリニスト」をこの手で育てたい、という夢を抱き、鬼気迫る凄絶なレッスンで鍛え上げたのが渡辺茂夫さんです(甥っ子で、後に養子に迎えます)。

 茂夫は1941年6月生まれ。戦時色一色におおわれた時代でしたが、幼い頃から毎日伯父や母がヴァイオリンの練習に励む姿を見ながら、茂夫はヴァイオリンの旋律を空気のように吸って育ちます。子供用のヴァイオリンが与えられ、伯父のレッスンが始まったのは、終戦の翌年の10月でした。

〈日本は困窮のどん底にあったが、文化は焼けこげた石畳の間からも雑草のように萌えいでる。驚くべきことに、若い音楽家の登竜門である音楽コンクールは一年も欠けることなく十九年につづいて二十年も行なわれた。そしてクラシックの幼児教育もまた不死鳥のようによみがえっていたのである〉

 クラシック音楽どころではないはずの貧困と混乱の状況であったにもかかわらず、巖本真理、辻久子の女性ヴァイオリニストが東西の花形としてしのぎを削り、1948年(昭和23年)10月には、戦後、日本が送り出す初の音楽留学生として、20歳の江藤俊哉が米国フィラデルフィアのカーチス音楽院へ飛び立ちます。そして、それから約1ヵ月後、渡辺茂夫は有楽町・読売ホールで初のリサイタルを開きます。小学校1年生、わずか7歳のデビューでした。戦前、天才少女の名をほしいままにした諏訪根自子のデビューが12歳、巖本真理が13歳だったことを考えても、7歳は驚異的な早さです。

 その後も着々とリサイタルをこなし、天才の出現に世間が刮目した1954年(昭和29年)5月、12歳の茂夫の人生を左右する出来事が起きます。来日していたハイフェッツがある内輪のパーティで、茂夫の演奏をほんのワンパート聞いただけで、「この子は正式に私のオーディションを受けるべきです」と言ったのです。茂夫はほどなく、ハイフェッツを帝国ホテルのスイートルームに訪ねます。

〈「何か得意な曲があるかね? あったら聴かせてくれないか」 ハイフェッツの要求で茂夫はクライスラーの『中国の太鼓』を弾きはじめた。 ……茂夫の弦からシャープな切れ味の高音部と深い低音部が流れ出た。……注意深く耳をかたむけていたハイフェッツは、突然、立ち上がるとピアノに歩み寄って即興で伴奏をはじめた。…… ハイフェッツは自分が学んだレオポルド・アウアーの懐かしい音が、数十年を隔てて少年のヴァイオリンから流れ出るのを聴き取ったにちがいない。それはボリス・ラスから父・季彦を経て茂夫に授けられた重厚かつ堅牢な奏法であった〉

 こうして異例の米国留学の道が開かれるわけですが、当時、茂夫の弾くベートーベンのヴァイオリン協奏曲を、オーケストラの一員として聞いていたあるヴァイオリン奏者の証言があります。

「彼はヴァイオリンを持ったとたんに神になったんです。これは本物だ、誰にも真似ができない、こんな音がどうして出てくるのか。私は感嘆していました。小さな子供が鍛えられて技術を覚えたというのではないんです。そんな天才なら掃いて捨てるほどいる。違うんです。曲の解釈……技術をこえた何か。誰かに教えられたものではなく、彼が内面に持っているオリジナリティです。彼はもはや人間ではない。天から舞い降りた神でした」

 運命の皮肉か、この証言をした楽団員はやがてフルブライト留学生として米国の医科大学に学びます。そこに突然、1957年11月6日、日本にいる母親から電報が届きます。かつて息子が口をきわめてその感動を語っていた天才ヴァイオリニストの少年が「自殺未遂で重体だ」というニュースを知らせてきたのです。彼はすぐさま列車に飛び乗ると、ニューヨークへ向かいます。そして、病院で変わり果てた茂夫と対面するのです。

 病室にはさまざまな人が駆けつけていました。「私は茂夫をあずかっている母がわりの人間です。どうしたらいいのでしょう」と訴えていたのは、茂夫の現地後見人である日米協会(ジャパン・ソサエティ)で学生担当をしていたベアテ・シロタ・ゴードンさんです(*2)。

 一昨年、89歳で亡くなりましたが、終戦直後、離ればなれになっていた両親(父は東京芸大のピアノ教授レオ・シロタ氏)に会うために陸軍の軍属を志願して日本に進駐し、GHQ民政局のケーディス大佐の下で新憲法草案の作成にかかわったことは周知の通りです。女性の地位向上をめざして現行憲法第24条に「個人の尊厳と両性の本質的平等」を盛り込むように尽力したことは、彼女の大きな功績です。

 ジュリアードで茂夫を指導し、一時期はホームステイさせていた伝説のヴァイオリン教師ガラミアンも来ていました。ハイフェッツが強いテクニックを身につけるためには、ガラミアンについて学ぶのが一番いいだろうと推薦した、厳格にして当代最高の弦の教師。「自分の奏法でがっちり枠をはめてくるタイプ」であるところから、幼いながら、すでに自分のスタイルを完成させようとしていた茂夫に、過重な精神的苦悩を強いたのではないか、という説が根強くあります。

 その師が「シゲは私の最も大切な学生(ベスト・スチューデント)です。それなのに私は何もできなかった」と狼狽しています。そして先ほどの本の叙述に照合するように、ルイ・グレーラー氏も現れます。

〈茂夫は植物人間ではなかった。喜怒哀楽をあらわし、気に食わないことがあると力いっぱい抗い、凄まじい形相で暴れ、動物じみた咆哮を放った。穏やかなときは嬉しそうに笑った〉

 これが2年前、輝かしい前途を信じてアメリカに降り立った茂夫の、16歳の紛れもない現実でした。一命は取りとめたものの、多量の睡眠剤を服用したために、大脳皮質が損傷していました。そのような重病人の面倒を、誰が、いつまで、どこで見るのか、いろいろ議論があったようです。

 アメリカと日本の距離はいまより遥かに遠く、両国が戦いを交えた記憶も生々しく、コミュニケーションの手段は手紙が主体の時代です。法的後見人であった日米協会には、将来にわたって「十分な補償をする」覚悟もあったようです(結局、この約束は「反故にされた」といいます)。とまれ、両親の強い要請もあって、日本に帰国させる結論に達した時、茂夫を送り届ける役目を担ったのは、先のフルブライト留学生でした。

 1958年1月、氷雪に包まれたラガーディア空港に見送りに来たのは、ベアテ・シロタ・ゴードンさん一人でした。重病人の移送は、いまとは比較にならないほど困難でした。

 帰国し、再入院。退院したのは3月末でした。「スーツに着替えた茂夫は病人には見えない美しい姿と表情だった」といいますが、両親の必死の祈りも空しく、「言葉を失い、行動の自由も失い、二度とヴァイオリンを持つこと」はありませんでした。

 そして、歳月は流れます。40年以上にわたって在宅療養が続けられ、1987年に養母が世を去ると、残された養父・季彦氏がヴァイオリン教師を続けるかたわら、ひとりで茂夫を介護します。1999年8月15日、茂夫は58歳の生涯を閉じます。寝たきりに近い茂夫の面倒を最後まで見た養父は、2012年、103歳で亡くなります。

 茂夫の死の3年前に、彼の青春と悲劇を描いた『神童』が刊行され、またかつて自主制作・頒布された茂夫の演奏や肉声を集めたCD2枚組の「神童〈幻のヴァイオリニスト〉」が発売されます。複数のテレビドキュメンタリー番組が制作され、再評価の動きが広がります。

『神童』の著者は「あとがき」に記しています。

〈あの時代にこのような天才がいたことを多くの人々に知ってほしかった。渡辺茂夫さんは敗戦後の日本の宿命を負ってアメリカに渡り、若くして幕を閉じた。彼はある時代の日本そのものだった。胸に迫るのはそのことだ。ありうべき未来に彼の弦から流れたであろう豊穣の調べは聴くことができず、書かれたであろう数々の名曲は幻となった。夜空にきらめく一瞬の光芒のように消えた渡辺茂夫さんの音楽的生命だったが、音楽を愛する人々の胸に不滅の輝きとして残るであろうことを信じたい〉

「天から舞い降りた神童」が、なぜあのような悲劇的結末を迎えなければならなかったのか――。グレーラーさんのエッセイから、16歳で「音楽的夭折」を遂げた清冽な魂の物語がよみがえります。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)