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 究極のハーモニーへ
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「その時、君は東京芸術劇場にいたか?」――と訊かれて、「ノー」と答えるし
かなかった瞬間から、グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・
オーケストラ・オブ・ベネズエラという長い名前は脳裏に刻みつけられました。
2008年12月17日、初来日した彼らの初日の公演を、その夜ライブで体験した人と
そうでない人と、人類は2つに分かれるかもしれない、と言う人さえ現れました。

 スタンディング・オベーションとカーテンコールの嵐が巻き起こり、彼らの定番のアンコール、「マンボ」、「マランボ」の2曲を聴いた観客たちは、いつまでもその場を立ち去ろうとしませんでした。ドゥダメルは何度もステージに呼ばれて姿を現わしますが、オケが退場してもなお拍手は鳴りやまず、最後にはドゥダメルが一人だけ登場し、さらには帰り支度をしてコートを着込んだ団員まで出てきたという、前代未聞の夜。

 昨年9月に刊行された『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ――エル・システマの奇跡』(トリシア・タンストール、東洋経済新報社)をこのメールマガジンで紹介した際にも(No.361)、YouTubeにアップされたその晩の「ノリノリのアンコール」の話をマクラにふりました。

「気がついたら泣いていました」という言葉がまだ強烈な記憶として残っていた頃、「オーケストラ!」というタイトルがふと目を引きました。さして評判になっていない映画だったと記憶しています。ところが、客席は意外なほどの入りでした。しかも、隙だらけのドタバタ劇であるにもかかわらず、最後のコンサート場面ではただ訳もなく感動して、エンドロールが終わっても、座席に深く身を沈めてしばらく立ち上がれませんでした。2010年4月17日の夜のこと。

 これを見た人とそうでない人で、その後の人生が変わるとまでは言いませんが、映画「オーケストラ!」(*)について、評論家の佐藤忠男さんはこう評しています。

〈これは破天荒な映画である。喜劇であり、悲劇であり、社会派映画であり、大メロドラマでもある。そしてなによりもやはり情熱的な音楽映画である。そんな映画ってあるだろうか。それがあるのだ〉(劇場用プログラム)

 現実にはおよそあり得ない荒唐無稽な筋書きであるにもかかわらず、こんなことがあってほしいと強く願わせる夢物語。ふたつの事実をもとに脚色されています。ひとつは、共産主義時代の旧ソ連では、ユダヤ人を嫌ったブレジネフ書記長の意向で、ユダヤ系の演奏家たちや、彼らを擁護した関係者が一斉に追放されるという事件がありました。もうひとつは、2001年に偽のボリショイ交響楽団が香港で公演するという出来事が実際に起こったというのです(これはやや怪しい話ではありますが)。

 主人公のアンドレイは、かつては天才と讃えられたボリショイ交響楽団の伝説的な指揮者です。ところが、1980年代のユダヤ人排斥運動に異を唱えたために解雇され、あろうことか、いまはボリショイ劇場の清掃係として働いています。

 そんなある日、支配人の部屋を掃除していると、カタカタと1枚のファックスが送られてきます。パリのシャトレ座からの出演依頼です。2週間後に予定していたロサンゼルス交響楽団が来られなくなったので、代わりに出演してほしいという依頼でした。それを読んだアンドレイに、突拍子もないアイデアが浮かびます。かつての仲間たち――自分と一緒にオーケストラを追われた演奏家たちを集めて、ボリショイ交響楽団としてパリに乗り込んで公演する!

 妻にこの計画を打ち明けると、彼女は呟きます。「離婚するわよ」……「行かなかったらね」。そして、「“マエストロ”だと証明して」、「コンサートをやり抜くの。30年も待ったのよ。30年も」と主人公の背中を強く押すのです。

 かつてのチェロ奏者は救急車の運転手をしていました。その救急車に乗りこんで、昔の仲間を次々に訪ねます。タクシー運転手、蚤の市の業者、ポルノ映画のアフレコなど、さまざまな仕事をしながら、彼らは食いつないでいました。音楽とは縁遠い暮らしに身をやつし、楽器を売り払った者もいました。しかし、パリへの誘いには一も二もなく応じます。団員55名がかき集められます。

 次に、どうしてもこの計画に不可欠のマネージャーには、かつて自分たちを放逐した悪魔の手先、前ボリショイ劇場支配人に白羽の矢を立てます。突飛きわまりない発想ですが、なぜかこの男も飛びついてきました。パリと聞いた瞬間に、彼には彼の見果てぬ夢があり、心を奮い立たせたのです。

 全員のパスポートとビザを偽造し、パリへと旅立っていく一団のドタバタ劇の裏側で、アンドレイはシャトレ座に公演の条件を提示します。演奏曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ソリストにはクラッシック界の新星、アンヌ=マリー・ジャケを迎えたい、と。そこからこの物語のミステリアスな展開――なぜチャイコフスキーのこの協奏曲なのか、そしてなぜソリストに彼女を指名するのかが、大きなドラマを予感させながら、観客をグイグイと惹きつけます。

 なりすましの名門楽団の面々は、パリに着くやいなや勝手気ままな行動に走り、リハーサルそっちのけで姿をくらまします。30年もブランクがある上に、すっかりタガのはずれたハチャメチャな連中に、ぶっつけ本番でどんな演奏ができるのか、不安はふくらむばかりです。

 一方、ヴァイオリニストのアンヌ=マリー。自分がずっと弾かなかったチャイコフスキーをボリショイ交響楽団と、伝説の指揮者のもとで演奏することは“夢”でした。ただ、なぜ自分が指名されたのか、コンサートの前夜、アンドレイと食事をともにしながら、率直に問いかけます。アンドレイは語ります。

「このコンサートは、いわば告白なんだ。一つの叫び」「音符の一つ一つに命がある。アンヌ=マリー、音符のそれぞれがハーモニーを探している。幸せを探している」

 そこで明かされる彼の痛切な過去――この協奏曲をめぐって彼と楽団の仲間たちが受けた屈辱、癒されることのない心の傷。ところが、それを半ばまで語ったところで、アンドレイは口をつぐみ、ウオツカを立て続けにあおります。困惑と動揺の中に突き放されたアンヌ=マリーは、最後にこう言って立ち去ります。「公演は中止しましょう。必ず失敗するわ」

 しかし、このコンサートでチャイコフスキーのこの曲を演奏することが、自分にとって何か新たなものを見つけるきっかけになるかもしれない、と感じたアンヌ=マリーは、不安を抱えたまま、意を決してステージに上がります。

 改めてDVDを借りて、コンサート・シーンの時間を確かめました。約12分20秒。124分の作品のおよそ10分の1にあたります。

 チューニング(音合わせ)の段階から客席をざわつかせるようなグズグズの団員たち、指揮者やソリストよりも遅れて入って来る者あり、アマオケ以下のおぼつかない曲の出だしには、思わず場内に失笑が漏れ、シャトレ座支配人は頭を抱えます。ところが、ソリストの調べが流れ出すやいなや、見違えるような変化が起こります。楽団がいきなり覚醒したかのように、素晴らしい音を奏で始めます。曲を介した魂の交流が、アンドレイとアンヌ=マリーの間に生まれます。前夜のディナーの席でアンドレイは言いました。

「“協奏曲”には究極のハーモニーがある。不変の音楽性が」「崇高で魅惑のヴァイオリンが私と楽団を高みへと導く。空へと高く高く。僕らは空を飛ぶ。僕らは究極のハーモニーへ観客とともに飛んでいく」

 ドラマティックで雄弁なこのヴァイオリン協奏曲が、アンドレイの黙して語らなかった「話の続き」をアンヌ=マリーに聞かせます。二人は初めて心を通わせます。その共感が団員に広がり、いよいよ一体感を増していく演奏。彼らの笑顔。究極のハーモニーへと向かって高まる音楽とドラマの緊迫感。

 1878年に作曲された当時は、ペテルブルク音楽院教授の偉大なヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーに「演奏不可能」と初演を拒否されたり、初演に際しても民族色の濃い作風が好まれず、「悪臭のする音楽」とまで酷評されたいわくつきのヴァイオリン協奏曲です。しかしこの映画ではむしろ、ロシア人の矛盾に満ち満ちた気質、東欧やロマ(ジプシー)の民族的な匂い、そして政治や社会的現実の猥雑きわまりない要素などが渾然一体となりながら、美しいヴァイオリニストの情感豊かな調べにのって、まさに「高く高く」昇華されていくような興奮と感動に襲われます。

「オーケストラはひとつの世界だ。世界なんだよ」「皆、一つの楽器と才能を携えて来る。コンサートのために団結し、一緒に演奏する。魔法の夢とハーモニーを生み出そうと」

 これもアンドレイの台詞です。「音符の一つ一つに命がある。音符のそれぞれがハーモニーを探している。幸せを探している」とともに――。

 明後日(10月4日)発売の「考える人」最新号は、「オーケストラをつくろう」という特集です。ベネズエラに生まれた青少年のための音楽教育プログラム「エル・システマ」の衝撃と、世界最高峰のベルリン・フィルの未来に向けた挑戦、そしていま、私たちの身のまわりで起きているさまざまなオーケストラの新たな胎動。人と人との心をつなぐ音楽の原点――その偉大な力に、オーケストラの魅力とともに迫ります。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)