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 ベネズエラに種をまいた日本人
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 グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの初来
日公演(2008年12月17日)の衝撃については、先月のメールマガジン(No.407)
に書きました。

 ベネズエラ全土から選抜された、若手精鋭メンバーによるオーケストラ。10代にして「バーンスタインの再来」といわれ、34歳のいまや「100年に1人の天才」、「クラシック界の救世主」とまで呼ばれるカリスマ指揮者ドゥダメル。彼らを生み出したベネズエラの国家的プロジェクト「エル・システマ」の奇跡については、No.361で紹介した通りです。

 1975年、ホセ・アントニオ・アブレウ博士によって始められた世界最大規模の合奏型音楽教室は、主として貧困層の子どもたちに無料で楽器を提供し、音楽学習の機会を与え、合唱やオーケストラ合奏への参加を通じて、自己を律する力、他人との協調性、連帯感、そしてコミュニティの一員であるという社会規範を学ばせるプログラムとして目覚しい成果を挙げてきました。それは、貧困や若者の犯罪という深刻な社会問題を抱えたベネズエラ国内にあって、子どもたちを非行や犯罪被害から守り、音楽を通して健全な市民を育てるという社会変革へのチャレンジでもありました。

 人口3000万人に満たないベネズエラ全土でいまや約40万人の青少年が参加し、300にも及ぶ音楽教室で学び、そこからドゥダメルのような傑出した指揮者や演奏家が輩出しています。また、傘下のオーケストラも年々増え続け、頂点に位置するシモン・ボリバル・ユース・オーケストラをはじめ、平均年齢がいずれも10代後半だという2つのユース・オーケストラが世界の桧舞台に次々と招聘され、各地で熱狂的に迎えられています。

 ベルリン・フィルの芸術監督サイモン・ラトルの有名な言葉があります。「クラシック音楽の将来にとって、最も重要なことが起きているのはどこかと聞かれたら、私の答えは決まっている。ベネズエラだ」――。

 さて、創設から39年のうちにここまで成長を遂げたエル・システマですが、草創期は当然ながら試行錯誤の連続でした。世界中のどの国においてもそうであるように、幼少期の子どもたちに一定の時間、楽器を練習させるのは容易なことではありません。ましてやベネズエラは、その点でもあらゆる問題のオンパレードでした。そもそも親も子も、楽器を習うとはどういうことかを理解していません――練習時間に遅れる、遅れたことを何とも思わない、人が演奏している脇で声をあげたり走り回る、ガムを噛みながら楽器を弾く、楽譜を忘れる、おさらいをするという習慣がない……。

 そんなところから出発して、いかに子どもたちの興味をかきたて、演奏の面白さを覚えさせ、ドロップ・アウトさせないか――指導者の忍耐、努力、情熱に加えて、何か拠りどころになる指導方法が求められていたのです。それなくしては、成果を目に見える形で示しながら、国家予算を獲得し、これを全国規模で展開しようという目論みは、「絵に描いた餅」に終わる危険性を多分に孕んでいたのです。

 そこに、一人の日本人が現れました。今回の特集「オーケストラをつくろう」(「考える人」2014年秋号)を取材する中で、初めてこの事実に行き当たりました。彼が絶妙なタイミングで登場したことが、エル・システマの状況を一変させた、というのです。

〈その日本人とは、ヴァイオリニストの小林武史である。 小林武史は、戦後日本のヴァイオリン界のパイオニアであるだけでなく、日本のクラシック演奏家が、世界でも通用することを実証してみせた国際的クラシック音楽演奏家の草分けである〉(山田真一『エル・システマ』、教育評論社)

 1931年スマトラ生まれ。10歳からスズキ・メソードの創始者、鈴木鎮一氏にヴァイオリンを学び、東京交響楽団、チェコ国立ブルノ・フィルハーモニー、オーストリア・リンツ州立ブルックナー管弦楽団、読売日本交響楽団など、各オーケストラのコンサートマスターを歴任。1971年にオーケストラから身を引いた後はソロ活動に専念し、世界各国で演奏活動を展開しました。先日も紀尾井ホールでソロ・リサイタルを開いたばかりの現役ヴァイオリニストです。

 その小林さんがベネズエラ政府文化庁からの要請によって、国際交流基金派遣文化使節としてベネズエラを訪れたのは、1979年6月中旬でした。それまで何度か東南アジアへの文化交流の旅を経験していた小林さんは、初の南米ベネズエラでも、おそらくはソロ・コンサートやオーケストラとの共演をするのだろうと想像していました。ところが、いつまでたっても滞在中の詳細がまったく知らされず、チケットすら送られてきませんでした。

〈小林は、この時点でベネズエラ行きを断念することもできたが、結局、「世界中、どこの人でも同じ音楽を楽しむことができる」という信念と、東南アジアへの使節としての成果が小林を、全く状況のわからないベネズエラ行きへ背中を押した。 ただ、コンサート・スケジュールも、滞在場所もわからない、どのようなホールがあるのかもわからないという状況であったため、小林は一つこれまでと違う準備をした。  それは、小林の恩師、鈴木鎮一が戦後始めた、「スズキ・メソード」の教育指導法を学習していったことだ。「もし、コンサートもできないような場所ならば、せめて、楽器の学習機会などを通して、現地の音楽家たちと交流したい」、そう思ったのだ〉(同)

 これが結果的に、エル・システマにとって願ってもない贈り物になりました。その頃すでにスズキ・メソードは、日本よりも海外での評価が著しく高まっていました。自分自身はスズキ・メソードの卒業生ではないものの、鈴木鎮一氏から直接レッスンを受けた経験から、その理念は誰よりもよく理解しているという自負が小林さんにはありました。しかし、まさかベネズエラで、自分がまったくの初心者の子どもを相手に、いきなりスズキ・メソードを教えることになろうとは予想もしていませんでした。

 空港に降り立つやいなや、唖然とするような出来事の連続となりましたが、極めつけは、受け入れ責任者であるアブレウ博士が依頼してきた内容でした。インディオ(先住民)の子どもたちにスズキ・メソードを使ってヴァイオリン・レッスンをしてほしい、それとカラカスにいる幼児40人、青少年数十人、セミプロ数十人、全部で100人以上を指導してほしい、というのです。まさに「寝耳に水」、驚天動地のリクエストでした。

〈私の中に住んでいる“情熱”が頭をもたげてきて、よし、やってやろう! この国でどこまで私の実力が発揮できるか試してみるよい機会である。インディオは全部で三十四人。カラカスから二千キロも離れた所から連れてこられた子どもたちだった。九歳から十八歳まで、一人だけ二十八歳の青年もいた。(略) アマゾンの奥地から連れて来られた子どもたちなので、当然ヴァイオリンなど見たことも聴いたこともない。鈴木鎮一先生の格言「人は環境の子なり」から実行した。レッスンの始めには「コンニチハ」、終わったら「アリガトウゴザイマシタ」、そして「サヨウナラ」と日本語で教えた。挨拶をきちんとさせることは、良いコミュニケーションが出来るためと、学習態度にも重要な影響を与えるからだった。そして、耳から良い環境を与える意味でスズキの教本のレコードをテープに入れてレッスンの前や彼らの宿舎に帰ってからも常に聴かせるようにした。グループに分け、まず楽器をあごで押さえることから訓練して、弓を持つ、音を出す、指で弦を押さえる…。(略) インディオの子どもたちはとてもはにかみやで純朴だった。その分、都会に住む子どもより良い環境を素直に受け入れやすかったといえる。大変な忍耐はいったが、愛情がわいてきた〉(小林武史『ファンタジア わが人生』、神奈川新聞社)

「青天の霹靂」はさらに続きました。インディオの上達ぶりを見たアブレウ氏が、「二か月でインディオの子どもたちがシンフォニーを弾けるようにしてコンサートもやる」と、新聞、テレビが取材している前で、文化大臣に約束したのです。

〈普通、ヴァイオリンというものは、楽器を持って音が出せるまで一か月はかかるものである。キラキラ星を弾くのに三か月はかかるのが当たり前だ。……三か月でシンフォニーをやらせるなんていうことは、神様だって無理だと思った。ここから先は、私の情熱が常識を上回れるかどうかである〉(同)

 小林さんは腹を決めて、朝から晩まで死に物狂いで猛練習を続けます。子どもたちも必死でついてきました。「疲れたか?」と聞いても首を振り、「もっと」と言います。インディオだということで、子どもたちがあからさまな人種差別を受け、劣悪な宿舎に押し込められているのも氏の義侠心を駆り立てました。お菓子をたくさん買って宿舎に置いてきたこともあるそうです。

 そして2ヵ月後のコンサート本番です。まずインディオの子どもたちだけでキラキラ星変奏曲など10曲を演奏。続いて他の幼児や青少年のオーケストラ・メンバーも加わって、ベネズエラ国歌、ハイドンのおもちゃの交響曲、ベートーベン第9の終楽章などがアブレウ氏(!)の指揮で演奏されました。コンサートには、大統領以下、政府の要人、日本大使館の関係者なども臨席し、その成功は新聞やテレビで大きく全国に報じられました。翌日、その新聞記事を機中で眺めながら、小林さんは「複雑な思い」を心に残して、帰国の途についたといいます。

 その後、コンサートの成功に自信を得たアブレウ氏らは、スズキ・メソードを積極的に採り入れる方針を打ち出して、一時は「国立スズキ・メソード・アカデミー」の設立計画も持ち上がりました。ただこの構想は、結局実を結びませんでした。アカデミー開館の許可書とメッセージを鈴木鎮一氏から直接預かった小林さんのベネズエラ再訪は、約2週間の滞在中、一度もその打合せの機会が設営されることもなく、むなしく過ぎました。親書はそのまま持ち帰られることになりました。

 それでも、小林さんが残したスズキ・メソードの教本全巻と、この時の構想がエル・システマの発展に大きく寄与したことは間違いありません。いまやその音楽教育システムやカリキュラムが、世界35ヵ国以上に導入されているのは「種をまいたものとして喜ばしいことかもしれない」と小林さんは語ります。

 むしろ痛恨の極みは、2ヵ月半みっちりとヴァイオリンの特訓を施したインディオの子どもたちのその後です。コンサートを聞いた大統領が、「インディオの村に音楽学校を作る」と全国放送のラジオで宣言したにもかかわらず、実行した形跡はありません。小林さんが繰り返し「継続」を切望したにもかかわらず、再び軍用機に乗せられアマゾンの奥地へ送り返される時、子どもたちが使っていた楽器は取り上げられ、楽器演奏とのつながりはそこで断たれたといいます。小林さんを落胆させたことは言うまでもありません。

 ところで、10月24日のニューヨーク・タイムス国際版に興味深い記事が載りました。エリ・ホッタ(堀田江理)氏による「トウキョウのソフトパワー問題――スズキ・メソード:いちばん見過ごされている日本の文化輸出」と題する記事です(*)。

 要約すると、現在46ヵ国、約40万人が学んでいる(うち日本人は2万人)というスズキ・メソードですが、この活動を日本政府が積極的に支援することはこれまで一切ありませんでした。支えたのはソニーの共同創立者、井深大さんら民間の支援者たちでした。世界が注視している鈴木鎮一氏の教育法を、いまだに正当に評価していないのは日本なのではないか。外から強く言われない限り、自国文化の何が「クール」なのかを把握すらできないのは、日本の慢性的な問題ではないか――という苦い指摘です。

〈これと鮮やかな対照をなすのが、ベネズエラ政府の公的援助を受けた音楽教育プログラム、エル・システマである。この制度は、さまざまな背景をもつ子どもたちの人生を変える力を音楽がもっているという考えに基づく。鈴木と共通点があるのは驚くことではない。というのも、スズキ・メソードをベネズエラに持ち込んだのが日本人、小林武史であるからだ。小林は、1970年代、ベネズエラに招かれて恵まれないインディオの子どもたちにオーケストラで演奏することを教えた。日本政府と違って、ベネズエラ政府は70年代半ばから、この文化的努力に対して資金を提供しつづけてきた。 そのエル・システマ運動がいま日本に戻ってこようとしている。「相馬子どもオーケストラ&コーラス」は、2011年の大地震と津波が東日本に大きな被害をもたらしたあと、この地域の子どもたちが集団で音楽を奏でることを励ます目的で設立された。そしていま日本人がエル・システマを取り上げている。エキゾチックな衣装をまとっているがゆえに、その手法(メソード)の利点に気づいたわけだが、知らないのは、実はそれがもともと日本にあったということだ〉

 何とも皮肉な結語です。ちなみに小林武史さんは、このメルマガのNo.404で触れた小林健次氏の実兄にあたります。兄弟そろって、日本の音楽界の先駆的な役割を果たしたことに敬意を表したいと思います。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)