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 待つこと、夢見ること
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 ついさっきまで考えてもいなかったのに、高倉健さんのことを書きたくなりま
した。11月10日、突然の訃報に接してから、ずっとぼんやりしていました。話題
になったNHKスペシャル「高倉健という生き方~最後の密着映像100時間~」
(11月23日)も見ませんでしたし、新聞、週刊誌の追悼特集も何だか読む気にな
りませんでした。

 ファンだという自覚はなかったにもかかわらず(代表作で見逃しているものもいくつかあります)、この喪失感はなんだ、というのが正直なところです。

 私にとっての高倉健は、1960年代から70年代にかけてのスクリーンの中のヒーローです。高校生時代、あまり風紀のよろしくない一角にあった東映の“小屋”で「昭和残侠伝」シリーズを見続けました。明らかにかぶれていました。健さん演じる花田秀次郎、池部良演じる風間重吉の花と風が、最後に「こいつだけは許しちゃおけない」と、敵方に殴り込みをかける道行きのシーンでは、客席から「待ってました、健さん!」の声がかかり、主題歌の「唐獅子牡丹」を一緒に歌い出す客が必ずいました。

 いま「アナと雪の女王」を見ながら、主題歌の「レット・イット・ゴー」を「レリゴー、レリゴー」と歌っている若い女性たちと同じです(そうは思ってもらえないかな)。劇場で流れる「唐獅子牡丹」とレコード盤の歌詞が違っていることに気がついて、映画館の暗闇で必死にそれをメモったのは『みんな夢の中――続マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)の久世光彦さんです。

 そして、いま神戸の横尾忠則現代美術館で開かれている「記憶の遠近術~篠山紀信、横尾忠則を撮る」でも、横尾さんが高倉さんとのツーショットにコメントしています。

〈60年代のぼくのアイドルというと、高倉健と浅丘ルリ子に尽きる。どちらかと言えば、義理人情に対して否定的なぼくが、「昭和残侠伝」というヤクザ映画のヒーローを支持したのは、自分でも不思議なのだが、スクリーンから放たれる哀しみと優しさ、そして強さ……相対する要素を演じる健さんに、ぼくのなかの虚像と実像を統合させることができたのかもしれない〉

 私の場合は、花田秀次郎と風間重吉のコンビが重要だったので、高倉健その人にぞっこん、というのとは違っていました。『映画俳優 池部良』(志村三代子・弓桁あや編、ワイズ出版)によれば、この絶妙のコンビはこのように位置づけられています。

〈スターの階段を駆け足で昇ろうとしていた高倉と、二枚目スターとして新たな方向性を模索していた池部。年齢も、俳優として辿ってきた道のりも大きく異なる二人であったが、高倉は大先輩である池部の支えによってスターとなり、池部も高倉と共演することで新たな一面を発揮することに成功した。(略)高倉と池部のコンビは、すでに衰退の道を辿り始めていた日本映画界が最後に咲かせた大輪の花だったのかもしれない〉

 高倉健という人の面白さは、常に人との関わりの中で真価が輝いてくる控えめな個性にあったような気がします(おそらく異論もあるでしょうが)。実際にその人にお会いした機会はごくわずかですが、いまでも時々思い返す出来事があります。15年前のふたつの思い出。共通するキーワードは「待つ」ということです。

 ひとつは、私がつけた雑誌記事のタイトルをめぐってでした。それは、ビバリーヒルズで評判を呼び、トム・クルーズ、マドンナ、リチャード・ギアなどを魅了した新感覚の和食レストラン「マツヒサ」のオーナー・シェフ、松久信幸さんのその後をフィーチャーした記事です(*1)。

 松久さんは1949年生まれ。東京で寿司職人として腕を磨いた後、23歳で日本を脱出、南米ペルー、アルゼンチン、そして北米アラスカでレストラン経営に挑戦します。しかし、店が火事に見舞われるなど、不運もあって挫折。背水の陣で臨んだロサンゼルスでの4度目の挑戦が実を結び、1987年、ついにビバリーヒルズに「マツヒサ」をオープンします。そこに1年ほどして初めて現われ、以来、店を贔屓にしてくれたのが俳優のロバート・デ・ニーロでした。

 シェフとしての名声を高め、全米のジャーナリズムでトップ・クラスの評価を受け始めた松久さんに、ある日デ・ニーロが声をかけます。「一緒にレストランをやらないか?」。デ・ニーロはニューヨークで購入していた倉庫に松久さんを案内します。しかし、心は大きく動いたものの、“時期尚早”と判断した松久さんは、事情を説明して辞退しました。そこで話はいったん立ち消えになります。デ・ニーロはその後も、相変わらず店を贔屓にしてくれました。

 4年ほどたった頃、自宅に突然電話があり、「ノブ、そろそろいいだろう?」と言われます。松久さんは一瞬何のことだか分からず、「えっ?」と聞き返したところ、「ニューヨークにいい場所があるんだけれど、見に来ないか?」という誘いでした。4年も待った上でまた声をかけてくれたのです。デ・ニーロとの共同経営で、ニューヨークに「NOBU」が誕生するのは1993年。ちょうど「マツヒサ」が「ニューヨーク・タイムズ」の「世界のレストラン10」に選出されたのと同じ年でした。

 前置きが長くなりましたが、この「NOBU」が大成功を収め、東京に「NOBU TOKYO」がオ-プンする(1998年10月)という時に、松久さんにインタビューして記事にしました。タイトルの肩コピーには「デ・ニーロを4年待たせた天才シェフ」と謳いました。いまの世界的な和食ブームの先駆けとなった松久さんを、輝やかしき存在としてこのように“格付け”したのです。

 しばらくして、高倉健さんから人を介してメッセージが寄せられました。「とても面白く読みました。いい記事だと思いました。ただ、タイトルがちょっと違う。『デ・ニーロを4年待たせた』ではなく、『デ・ニーロが4年待った』だと自分は思う」――。

 虚をつかれました。高倉健という人の心の配り方、想(おも)いのありかが目に見えるようで、感動しました。それから3ヵ月ほどして、私は東大泉にある東映東京撮影所にいました。映画「鉄道員(ぽっぽや)」のクランク・アップの日(1999年3月20日)に、高倉さんを昔なじみの撮影所スタッフたちと、一緒に撮影しようと待機していました。

「鉄道員」という映画は、“平凡で、どこまでも不器用な”一人駅長の人生を描いた作品です。高倉健にとっては20年ぶりの東映映画。久々に撮影所の門をくぐった時に、「どうしてか分からないけど、涙が流れた」と後に語っています。

 この企画は撮影所で働いてきた現場のベテラン・スタッフたち――健さんとともに量産時代の映画を作ってきた活動屋たちが、「これを映画にできないだろうか」と浅田次郎さんの原作を持って、撮影所長を訪ねたところから始まったと聞きました。彼らは定年を間近に控えていました。健さんがニューフェイスとして東映に入社してきた当時から、役者と現場と立場は異なれど、ともに映画作りに心血を注いできた“戦友”です。

 断られることを覚悟して高倉さんに打診した坂上順(すなお)撮影所長は、「いつかまた健さんと一緒に映画を作りたい」と夢見て、いまもじっと待ち続けている男たちの願いを聞き入れていただけないでしょうか、と語ったそうです。その思いが健さんの心を動かし、彼は戻ってきました。「なので、映画を完成させ、退職していく戦友と一緒に集合写真を撮ろう」というのが、作品のサブテーマなんです、と坂上さんは言いました。

 カメラマンは十文字美信さん。ちょうどその頃、富士通のパソコンのCMで高倉さんと倍賞千恵子さんを撮影している時期でした。ガランとした別のスタジオに、たしか10数灯のストロボを持ち込んで、大がかりな準備をして待ちました。しんしんと冷えました。

 やがて坂上所長に案内され、高倉さんに続いて、一同が入ってきました。この道ひと筋という面持ちの14人の活動屋と、俳優高倉健。十文字さんの指示で、駅長の姿をした健さんを真ん中に全員の位置取りが決まります。ところが、クランク・アップの高揚感と、これから健さんと一緒に写真を撮るのだという緊張感で、みなの表情が強張っています。「日本一のカメラマンだからな」――低いけれどもよく通る声で、健さんが場をなごませます。それでも、まだ硬さはほぐれません。

 十文字さんが手短にディレクションします。正面を向いた集合写真を1、2カット。次に、全員に高倉さんの顔をじっと見つめるように指示します。「健さんと20年ぶりの映画が、きょう無事にクランク・アップしました。その思いをこめて高倉さんのほうをじっと見てください」。いきなり心臓が高鳴ってきました。数カット。

「もっと健さんに近づいて、健さんの体に触ってみて下さい」。次の指示が出ます。誰もひと言も発しません。寒々としてだだっ広いスタジオの中で、ストロボを焚いたその空間だけが浮き上がり、いまにも誰かが泣き出すのではないか、というような雰囲気に息が詰まります。数カット。

「何か語りかけて下さい」。照れたような誰かのひと言が笑いを誘い、ようやく表情がほどけました。数カット。十文字さんが言いました。「それではそのままの表情でこちらを向いて下さい。レンズを一緒にご覧下さい」――。涙がこみ上げてきました。撮影は終わりました。

 スタッフ一人一人と改めて握手をしている高倉さんに、私たちも礼を述べました。丁寧に頭を下げた健さんは、「こちらこそ、ありがとうございました」と言って、その場を後にしました。映画職人たちも、それに続いて去っていきました。

 この日を20年待っていたのは、スタッフなのか、健さんなのか。おそらくその両方の想いなのだろう、と見送りました。写真は、健さんを取り囲むような形で、皆が微笑みかけているカットを使いました。記事のタイトルは「一九九九年、闌(た)けたる刻(とき)」。

〈一人駅長が生涯をかけて守り抜いた「小さな駅」と「娘への想い」。厳寒のうちに一人駅長乙松の役を終え、俳優高倉健は立ち去りがたい想いを秘め、東映撮影所を後にした。その後ろ姿に、厳寒に耐え春の息吹を萌(きざ)す、闌(た)けたる松の姿を見た〉

 最後の一節から引いたタイトルは、執筆者が提案し、健さんが諒解した、と記憶しています(*2)。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)