【考える本棚】
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 矢貫隆『潜入ルポ 東京タクシー運転手』(文春新書)
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えっ、そうだったの!
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 交通問題や救急医療問題を中心にした執筆活動を行ってきた著者が、のべ約3年間、東京でタクシー運転手をしながら本書を準備していたとはまったく知りませんでした。京都で大学生だった頃、学資を稼ぐために4年間タクシーの学生運転手をしていたことも今回初めて知りました。

 その人が、なぜ、いまタクシー業界への“潜入ルポ”なのか、といえば、タクシー運転手の給与の実態に愕然としたことが理由のひとつです。2006年、京都で乗ったタクシーの運転手に、収入を尋ねてみました。すると「水揚げ40万円がやっと」という答えで、手取りの給料は月に17万円行くか行かないかでした。30年ほど前の自分の稼ぎが15万円くらいですから、当時と大差ありません。「どうして?」と驚き、実態を身をもって知るために、その年の1月末から8月末までの7ヵ月間、古巣の京都に舞い戻り、タクシー運転手として働いてみました。

 その昔は職業差別もひどいものでした。「タクシー運転手というのは“当世の雲助”だから」と平然と言い放つ人を私自身も見たことがあります。タクシー運転手だというと、ローンが組めない、アパートが借りられない。かと思えば、凶悪事件の犯人などが捕まって、それが“元タクシー運転手”という場合は、新聞もテレビもわざわざ前職を報じます。同じような扱いを受ける職種はホステス、警官、教員、自衛官――。タクシー運転手とホステスは前歴が「そうだから」こんな犯罪をおかした、となり、残りの3つは「前職がそうであるにもかかわらず」という文脈で使われた、と著者から聞きました。

 その頃、大学生の著者は、運転手仲間からよく言われたそうです。「学生なんだから、早くこの仕事を辞めて、運輸大臣になって俺たちを助けてくれ」と。その時の義侠心がムクムクと頭をもたげてきたことも、本書の動機のひとつです。

「悪化の一途を辿るタクシー事情を取材するため東京でタクシー運転手体験取材を始めたのは、二〇〇八年(平成二〇年)のことである」とあります。アメリカの投資銀行、リーマンブラザーズが経営破綻した直後の2008年10月から11月にかけて、1ヵ月。翌2009年7月から11月まで4ヵ月。そして2010年12月から2013年5月までの約2年半、勤め先を変え、腰を据えて都内を走り回ります。最後の長期勤務で乗せた客数は、推定約1万人。夜日勤、昼日勤、隔勤と、東京のタクシー運転手がこなすひと通りの勤務形態を体験し、おまけに電気自動車にも乗りました。

 さて私自身、仕事柄、タクシーには日頃からお世話になっています。取材のための遠距離移動も、深夜帰宅も、ありとあらゆるパターンを40年近く体験してきました。東京のタクシー事情はいやが上にも気になります。2002年、小泉内閣当時の規制緩和で業界の参入条件は大幅に緩和されました。その結果、1980年に272社、タクシー総台数2万1721台(個人タクシーを除く)だったところが、これを機に様相が一変。2010年末の時点では、事業者数362社、台数は3万1799台に増えています。これに個人タクシー約1万7000台を加えると、実に4万8000台以上のタクシーが客を求めて走っているという勘定です。

 それに対してタクシーの客数は減少するばかりです。輸送手段の多様化もあり、料金値上げの度に客離れが進みます。結果、減り続ける客を、増え続けるタクシーが奪い合うという状況です。東京のタクシー運転手の平均年間給与所得は、1997年が約524万円(全国平均は約405万円)だったのが、いまや(2013年では)約403万円(同、約298万円)。16年間に120万円以上の収入減、1年ごとに8万円近くのダウンです。

 転げ落ちる水揚げ。それを食い止めようとすれば、休憩時間もそこそこにがむしゃらに働くか、客を拾うためには「何でもあり」の争奪戦を繰り広げるか、タクシーの根幹であるはずの「安心・安全」にとっては非常に危険な状況が広がっている、というのが著者の診断です。かつては運転手同士の不文律として、「道路の反対側で客が手を上げていてもUターンはしない、自分が空車で走っている場合、前を走る空車を抜かない、抜いてしまったらそのまま右車線を走り去る」という暗黙の了解事があったそうです。ところが、いまは違います。空車同士が客を取り合って割り込むことや、姑息な手段でライバル車を出し抜く裏ワザまで、“仁義なき争奪戦”が野放しの状態なのだ、とか。

 その結果、多発しているのが交通事故です。国土交通省が毎年発表している「自動車運送事業に係る交通事故要因分析検討会報告書」によれば、「タクシーの走行距離1億キロあたりの事故件数」は、空車時が実車時の2.5~3倍という数字になっています。要するに、「タクシーの事故は、客を求めて走っているときに圧倒的に多く発生している」というわけです。

「街路灯があるとは言っても、所詮は夜。前方視界の確認が怪しい深夜、意識と視線が極端に路肩に偏ったタクシー」が先を争って団子状態で走っています。視線は無意識のうちに、いるかもしれない客を探して歩道側に向けられますから、前方視界の、特に右前方に弱点が発生します。さらに「焦りの気持ち」が安全確認をおろそかにします。

 規制緩和だ、市場原理だといっても、実施の手順や方法が重要です。宅配便などと違って、この世界にいわゆる市場原理が働くかといえば、そんなに単純な話ではありません。利用者は道路や乗り場に立ち、そこに来たクルマに乗るのが基本です。大半の人はどの会社だからといって選別しているわけではありません。たしかに大阪では初乗り500円のワンコインタクシーが登場したり、京都の格安タクシー会社も話題になりますが、本書を読めば、その内実は「リース制」という運転手にとっては過酷な条件の上に成立していることが分かります。

 厳しい条件といえば、「運転手負担金」の実態にも驚きます。タクシー料金がクレジットカードで支払えるようになって、便利になったと喜んでいました。ところが、著者の勤務先では、この支払いの5%を手数料として運転手が負担していたそうです。クレジット会社に支払う手数料は3%程度なので、運転手は約2%上乗せされていることになります。これはクレジット支払いの端末機設置費用の一部を運転手が負担するという意味です。

 他にも「無線控除(無線設備の費用の一部負担)」、「Gカラー控除(黒塗りのハイグレード車に乗務する場合は、スタンダード車との車両価格の差額の一部を負担する)」など、給与明細にはいろいろな項目が記載されていて、厳しい賃金体系に加えて、運転手の肩にはさまざまな負担がのしかかっているのです。

 それでもタクシー業界は依然として“買い手市場”だといいます。タクシー運転手が求職者の受け皿であるからです。長引く不況で右肩上がりに増え続けた運転手の数は、サブプライムローン問題が起こった2007年に7万4000人に達し、翌年にリーマンショックが起こると7万5000人を突破して過去最高になりました。ピークを過ぎたとはいえ、いまでも7万人超の状態が続いているそうです。

 ただし、なる人も多い割に辞める人も多い、というのは、仕事がきつい上に低賃金だという理由。さらには客との想像を絶するトラブルが頻発していることも原因しています。

〈世の中におかしな人はたくさんいるのだろうけれど、そして、おかしな出来事もたくさんあるのだろうけれど、当たり前の日常生活を送っている限り、多くの場合、そうした人や事態に遭遇する機会はなかなかないものだ。/けれど、タクシーは違う。月に一度や二度は、この類の嘘みたいな話が運転手の身に降りかかってくる〉

〈乗客の態度は、タクシーを利用する時間帯によってずいぶん違っていて、車内で態度が豹変するのは、たいがいは夜の客である。飲み会を終え、同僚たちとの別れ際、店の前やタクシー乗り場などで笑顔で話していた彼や彼女が、タクシーに乗った瞬間、まるでスイッチをパチンと切り替えたかのごとく“とてつもなく嫌なヤツ”に豹変してしまうことが多いのにはびっくりしたものだ〉

 トンデモ利用者の話は時々聞きます。笑い話の類もふんだんにあって、酔っ払って座席で寝ていた客(ディズニーランドに近い幕張の住人)が、道を聞かれる度に「真っ直ぐ」、「真っ直ぐ」と言い続け、運転手の「もう真っ直ぐ進めないんですけど」の声に飛び起きると、目の前には真っ黒な空間が広がり、ザザーッという音が寄せては返していた。なんと、九十九里の海岸に突き当たっていた、といった嘘みたいな実話は、罪のない部類でしょう。ところが、乗り逃げ常習犯、理不尽な罵倒を続けるモンスタークレイマーなどの話を聞くと、とても「いい時代に生きている」という気はしてきません。

 片や、トンデモ運転手が存在していることも確かです。著者が嘆くように路上喫煙禁止地域での大っぴらな喫煙、タバコの吸殻や食べ終えたコンビニ弁当などのゴミのポイ捨て、甚だしきは立ち小便など、信じられない所業の人たちをわりに見かけることも事実です。

 道を知らない運転手が多い、という不満も一般的です。新宿で乗って東京都庁を知らない運転手、日比谷で乗って国会議事堂を知らない運転手。神保町から六本木までと言って乗ったタクシーが、靖国通りをいつまでも直進するので、「どこまで行く気か」と尋ねたら、「昭和通りまで行けば、六本木までの道、ちゃんとわかります」、「どこに行くにも昭和通りからじゃないと道がわからないんです」と逆に嘆かれたという話……。

 とはいえ、この広い東京のすべての地理に通じろというのも無理な話です。不得意エリアがあって当然です。著者ほどの運転手が率直に、その難しさを具体的に語るのを読めば、それがなぜかということもよく分かります。

 とまれ、悲喜こもごもの話題を乗せて、きょうもタクシーは走っています。新たな車種が導入され、「観光タクシー」、「福祉タクシー」、「妊婦応援タクシー」、「救急・救護タクシー」など、新たなサービスも生まれています。けれども、「安心・安全」というタクシーの生命線がおろそかになったままでいいのか――。著者の危機感はそこに尽きます。

 タクシーのサービスの本質とは何か。それを改めて問い直し、現状の問題を解決し、遠くない将来に、胸を張って東京のタクシー自慢をさせてもらいたい――著者はこのように結んでいます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)