【考える本棚】
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 永田和宏『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年―』(新潮文庫)
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いつか来る日のいつかを怖る
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「考える人」に連載されていた永田和宏さんの「生命の内と外 ホメオスタシスの謎」が今号で完結しました(2015年冬号)。細胞膜を介して「閉じつつ開いている」生命の不思議を、歌人ではなく、細胞生物学者としての永田さんにお書きいただいたのですが、実はこの連載、当初の予定より2年以上遅れてスタートしました(2013年春号~)。

 理由は他でもありません。永田さんの、40年連れ添った最愛の妻である、歌人の河野裕子(かわのゆうこ)さんが、2010年8月12日に亡くなったからです。連載の約束は、そこでいったん棚上げし、急遽、本書の企画が優先されることになりました。1周忌を控えた2011年6月号から「波」に1年間、「河野裕子と私 歌と闘病の十年」が連載され、翌年7月、本書が刊行されました。

 実力、人気ともに戦後生まれ世代を代表する歌人であり、もともと幅広いファンを持つ河野さんでしたが、突然の、64歳という早すぎる死の衝撃。そして、死期の迫る中で詠まれた絶筆作品の感動が、故人を愛惜する無数の声となって、新聞、雑誌の投稿欄に溢れました。死を悼み、いとおしむ文章や短歌が次々と、いつまでも寄せられました。その追悼の波の大きさ、広がりは、短歌界がかつて経験したことのない「社会現象」だとさえ言われました。

 逝去からちょうど4年6ヵ月。文庫化されたのを機に、本書を再読してみました。

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  

 死の前日に作られた最後の一首として知られます。同じ日に口述筆記されたもう一首――。

 さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ   

 いずれも夫である永田さんが、か細い声を傍(かたわ)らで聞き、その手で書き留めた作品です。長男の淳(じゅん)さん、長女である紅(こう)さんを含め、歌人一家として知られる家族の誰かが、こうして病床の河野さんの歌を書き写しました。命尽きるまでのひと月ほどの間に200首近くもの歌が詠まれたといいます。

 さて、本書が書き起こされているのは2000年9月20日の夜、「左脇の大きなしこりは何ならむ」と気づいた河野さんの一首からです。翌々日、京大病院で受診し、悪性の乳がんだと宣告されます。直後の場面を詠(うた)ったのが、次の一首です。病院から出てきた妻を迎えた夫は、平静を装ったつもりでした。

 何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない  

〈私のそれまでの人生で、この一首ほど辛い一首はなかったと言ってもいいかも知れない。できるだけ平静を装っていたつもりなのに、お見通しだったということか。どんな形相をしていたのだろう。(略)「吊り橋」への連想の突飛さにも驚くが、私には「私はここよ」の一句が痛い。「どこを見ているの、私はここよ。しっかり見てよ」と言われているよう。心ここにあらず、視線が泳いでいたのだろうか〉

 翌月、手術。手術自体は成功を収め、病は小康を得ますが、2年ほど経った頃から河野さんの精神状態が変調をきたします。感情の抑制が利かなくなり、鬱屈、憤懣が爆発します。「こうなったのはあなたのせいだ」となじり、夫に容赦ない罵りの言葉を浴びせます。いったん堰を切ると、家族を責め立てる言葉がいつ果てるともなく続きます。幾晩も幾晩もそれが続きます。いかになだめ、慰めようとしても、彼女の怒りは鎮まりません。刃物を持ち出すなど、状況はエスカレートする一方でした。

 こうして始まった凄絶な日々、家族全員を巻き込んだ地獄のような苦しみを、著者は魂の奥底から声を絞り出すようにして、本書に綴ります。なぜあんなことになったのか、防ぐことはできなかったのかという悔い。自らの至らなさ、無力さを噛みしめながら、自問自答を繰り返します。呻くような一行と一行の間に、万感の思い、さまざまな記憶、情景がぎっしりと詰まっているであろう文章が続きます。

 それでも、本書を著者に書かせた原動力は、その時妻が抱えていた根源的なさみしさを、しかと確かめたいという衝動ではなかったかと思われます。死という理不尽にひとり抗(あらが)い、苦しみ、もがき、体当たりした妻の姿を、いま一度引き寄せ、そこに寄り添いたいと願ったからではないでしょうか。

〈特に、河野が一時、精神的に相当に不安定な時期があり、その攻撃性から家のなかが地獄のような様相を呈した時期がかなり長く続いた。それらをあからさまに書くということに、はたして意味があるのか。彼女を傷つけることになりはしないか。書きすすめつつも、それらはついに解き難い疑問として私を苛(さいな)んだ〉

 当時の著者にとって、島尾敏雄の『死の棘』(新潮文庫)ほど身につまされる小説はなかったといいます。『死の棘』は夫の浮気が引き金となって妻が精神に異常をきたし、ヒステリックな発作を起こすようになるという作品です。原因は異なりますが、河野さんの場合は、なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか、自分ひとりが取り残されていくのではないか、夫から子から見放され、見捨てられるのではないか、という不安、恐怖――絶対の「置いてきぼり感」ではなかったのか、と著者は述べます。

 いつ果てるともなく続く現実の責め苦に、やがて著者自身も疲れ果て、狂気の淵を覗きこむような、切羽詰まった状況に追い込まれます。「この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし」(永田)――。

 しかし、この夫婦にはどんな修羅の日常にあっても「歌」が存在していました。

〈どんなに荒れていても、河野は、歌を雑誌などに出す前にかならず私に見せた。私も河野と口をきかない時にでも、出された歌稿に目を通し、歌の頭に○を付けたり、△を付けたりしたものだ〉

 白木槿(むくげ)あなたにだけは言ひ残す私は妻だつたのよ触れられもせず  

〈私には辛い歌である。この一首は、河野が精神的な危機を乗り越えてからの歌であるが、触れて欲しい、繋がっていたいという河野の気持ちは知りながら、私はどうしても河野を避け、遠ざけ、腫れものに触るように接していた。できるだけ刺激を与えないような関係を築こうとしていたのか。無意識のうちにそのように振る舞っていたのだろう〉

 あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて  

 やがて精神状態は最悪の状況を脱し、徐々に落ち着きを取り戻します。家族にもようやく安堵感がめばえます。ところがそうした時に、がんの再発・転移が告げられます。術後8年。もう大丈夫かと思い始めた2008年7月でした。

 まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり  

 今回は、驚くほど事態を冷静に受けとめた河野さんでした。それを、著者はこう解釈します。

〈……再発後の、静かに凪(な)いだ水面のような精神の安定は……最初に癌の宣告を受けて以来、死というものを考えに考え、おかしくなるほどに真剣に考え抜いた末に、彼女が辿りついたある種の精神の高みなのであった。(略) ……この再発を機に、彼女はどこかで私を突き抜けた。私には及ばない断念と諦念(ていねん)、そして死に臨む強い意志、生きてある生の時間を愛おしむ健気(けなげ)な感覚と、生と死に対する思慮において、いつの間にか、私の手の届かぬ遥かな精神の高みに至っていたと思うのである〉

 泣いてゐるひまはあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく

 わたくしはわたくしの歌のために生きたかり作れる筈(はず)の歌が疼(うず)きて呻く

 泣いている暇があったら、一首でも多くの歌を遺したい。秋から抗がん剤治療が始まりますが、その副作用や苦痛よりも、少しでも長く生きて、自分の歌を一首でも多く形にしておきたい――。

〈これは、ある意味では、癌が見つかって以来の十年という時間のなかで、彼女が苦しみ、もがき、呻き、そして恨み、その果てにようやく見出した生き方の結論なのでもあった〉

 うろたえたのは、むしろ著者のほうでした。妻が自分の傍らからいなくなる日が来るかもしれない、と考えた瞬間に、不安に押しつぶされそうになりました。

 歌は遣(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る (永田)

 相槌(あいづち)を打つ声のなきこの家に気難しくも老いてゆくのか (永田)

 妻の死を前提に、その死を見据えた歌を発表するのがいいのかどうか――。著者は悩みます。そして決断します。正直に、真っすぐ自分の心と向き合おう、と。

〈逡巡する思いと、一方では、いま詠っておかなければ、この私の思いはついに彼女には伝わらないままに死なせてしまうという思いが、抜きがたく私を支配した。迷いに迷い、ついに決心して河野の死を直接見据えた歌を発表した〉

 お互いの思いをもっとも直截に伝える回路として、この夫婦には「歌」がありました。妻はこう詠います。

 わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし  

 わたししかあなたを包めぬかなしさがわたしを守りてくれぬ四十年かけて  

 やがて病院での療養を打ち切り、河野さんは自宅に戻ってきます。そんなある日、夫は訪問看護のドクターから、「痛みも次第にひどくなるので、モルヒネの量を増やしてはどうか」という相談を受けます。病人の苦痛を和らげるには「もう眠らせてあげてはどうか」という提案です。著者は、それを即座に断ります。「ほとんど反射的な反応だった」といいます。

〈眠ってしまえば、歌を作ることができなくなる。いま歌が作れなくなれば、何のために彼女がこれまで強い副作用に耐えてやってきたのかが、泡となってしまう〉

 こうして冒頭に引いた――「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」の一首が生まれます。  

〈近代以降、これほどの歌を最後の一首として残した歌人はいないのではないかと私は思う。私が自分の手で、この一首を口述筆記で書き残せたことを、涙ぐましくも誇りに思う〉

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)