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 美女とコラムニスト
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 諏訪正人(すわまさと)さんが2月8日に亡くなりました。84歳。毎日新聞の朝
刊一面コラム「余録」を23年2ヵ月にわたって執筆し、通算本数は6354にのぼっ
たといいます。書き出したのが1979年4月17日、「私の余録はこれで終わり、明
日から新しい筆者と交代します」と締めくくったのが2002年6月19日。

 私がちょうど社会人2年目を迎えたあたりから、サッカーの日韓共催ワールドカップで、トルシエ・ジャパンがベスト8入りを前に敗退したあの時まで、毎朝の頭と心のコンディショニングにどれほど諏訪さんの助けを借りたことか――感謝と敬愛の思いはひとしおです。

 この2月12日に創刊5万号を迎えた毎日新聞にあって、「余録」の23年2ヵ月は、最長不倒記録だろうと思っていました。ところが、さらに上を行く25年のレコード・ホルダーがいたのです。侃堂(かんどう)、丸山幹治氏でした。日本政治思想史の丸山真男氏の厳父といったほうが、むしろ通りがいいかもしれません。

 丸山幹治氏は大阪朝日、読売、京城日報などを経て大阪毎日に入り、1928年から「硯滴(けんてき)」(1902年に創設。後に「余録」と改題)を担当、東京に移って後も1953年まで書き続けました。戦前・戦中・戦後の3つの時代をまたいでこの欄を担当したのですから、並の25年ではありません。2倍、3倍の重みがある仕事です。政府の圧力や干渉、社の意向、読者の期待といったものの複雑なバランスを取りながら、時流に目を凝らし、自らの節を曲げず、当たらず触らずでない筆致を保つには、言うに言われぬ苦労があったことは明白です。

 面白いのは、丸山氏が大阪朝日時代に「天声人語」も執筆していたことです。「天声人語」と「余録」――日本を代表する2つの新聞コラムを書いた例は氏を除いて他になく、今後もおそらく現れないことでしょう。

 ところで、「天声人語」といえば、昨秋、後藤正治さんが『天人(てんじん) 深代惇郎(ふかしろじゅんろう)と新聞の時代』(講談社)というノンフィクション作品を著し、深代惇郎という伝説のコラムニストにふたたび光を当てました。1973年2月から朝日新聞の名物コラム「天声人語」を担当し、いまなお語り草となる多くのコラムを書きますが、1975年11月に体調を崩して入院。同年12月17日、急性骨髄性白血病のために46歳の若さで亡くなります。執筆したのは、わずか2年9ヵ月でした。

「神様がこのような書き手をふっと地上に寄越して、そしてさっと天に召し上げた」――同書に紹介されている同期記者のひと言です。故人となって40年が経ちますが、いまだに思慕する人は絶えず、コラムはいささかも古びることなく、清新な輝きを放ち続けています。

〈新聞のコラムニストは一般にいうエッセイストとは性格が異なる。森羅万象、日々生起するホットなニュース、社会的な課題をまな板に載せて論評することを課せられている。あくまでジャーナリストの筆によるエッセイである。時がたてば使われた素材は古びていくのは当然であるが、深代惇郎の「天声人語」はいま読み返してもなお、立ち止まらせるものを含んでいる〉(後藤正治、前掲書)

 同書の執筆を進めている3年あまり、後藤さんはいつも『深代惇郎の天声人語』の抄録本をバッグにしのばせ、折に触れてはページを繰ったといいます。以前から、幾度も読み返してきた本です。

〈ただ、一気に通読できたことが一度もない。一ページ一編。一つひとつの分量はわずかなのであるが、読み手にふっと思考することを誘うものがある。五つ六つ読むと、小休止してごろんと横になりたくなるような、不思議な味わいの本であり続けてきた〉

「根(こん)をつめては読めない。拾い読みしては本を閉じ、余韻に浸りながら、いろいろ考えさせられた」とも聞きました。そして、まったく同じような感想を、私は諏訪さんの本に対しても抱きます。「余録」を抜粋した『諏訪正人の「余録」』(毎日新聞社)は、6354本のコラムの中から自ら厳選した500篇。700字あまりの短い文章ですが、一つひとつに心血が注がれています。書き手が「一日に一つ卵を産むニワトリ」(毎日新聞「記者の目」、2002年6月25日)なら、読み手も一日一話制でいく他ないと悟るのです。

〈余録を書きながら、頭にあるのはきょう一日のことだった。あすは薄明のかなたに霞んでいる。きのうはすでにぼやけている。朝からきょうは何を、どう書こうかとそればかり考えていた。書き終えるとすでに夜。あすのことを思う余地はない。完全な一日本位制〉(同)

 書きだめをしたことは一度もなく、その日の分をその日に一つだけ書いた、と語ります。始めた当初は2、3週間で行き詰まるのではないかと考えていましたが、気がついたら23年が経っていた、「われながらあきれるほどのその日暮らし」だった、と自嘲気味に洩らします。「余録」の筆を擱(お)くにあたり、「たった一日でいい、コラムらしいコラムを書きたいと念じながら……会心のコラムはついに書けなかった」とも。

 新聞コラムとは、いったい何でしょう。一面の記事に代表されるその日その日のニュースに対して、それを素材にはするけれども、どこかで切れている、その微妙な境界線が重要です。

〈出来事をめぐる見方は決して一つではない。その出来事を後ろから、斜めから、横から、裏から、いろんな角度からながめまわすのが新聞コラムの仕事である〉(「幻の美女を追って――『余録』の23年」、「新聞研究」2002年11月号)

 一面の記事が物事を正面からとらえた「よそ行きの写真」だとすると、コラムは「素人が小型カメラであちこちから気楽に撮ったスナップ写真」だとも語ります。だから重要なのは、想像力。鳥の目となって空高くから見下ろすのも、虫の目となって地べたから仰ぎ見るのも、すべて想像力の所産だというわけです。

〈私は編集局のざわめきを潮騒のように聞きながら、論説室の片隅で余録を書いた。 大きな事件が起きれば背景をあれこれ思いめぐらす。どんな小さい事件でも思いめぐらす材料に不足することはない〉(「新聞一面の根元――『余録』二十三年」、「図書」2002年11月号)

 ……と、ここまで書いてきて、諏訪さんの代表作としてどのコラムを紹介したらよいものか、さっきから迷い続けています。心に残るものがたくさんあり過ぎて、優劣のつけようがありません。迷った末に選んだのは、1984年10月14日に掲載された「六羽のハト」という一篇。

 当時、JR有楽町駅前には西武、そごうという2つの新しいデパートが誕生し、街が大きく変貌していました。ついきのうまでは、ここに朝日、読売、毎日の新聞三社が軒を並べ、抜きつ抜かれつのスクープ合戦を繰り広げていました。各社の屋上には鳩舎(きゅうしゃ)があって、ハトがクウクウ鳴いていました。通信管をつけて、原稿やフィルムを運ぶ、いまならバイク便、あるいはインターネットのような役目を果たしていたのです。

〈数々のスクープをものにした伝令だったが、三十九年の東京五輪取材を最後に引退し、ハトは公共施設や希望者に引きとられていった。有楽町の空から伝書バトの姿が消えたのは四十年代のはじめである。ハトの行方を追うように、新聞社も住みなれた有楽町を去った。 本社が皇居前の竹橋に移ったのは四十一年秋だが、この社屋にハトがいる。ビルの九階外側のヒサシに六カ所、六羽のハトがとまっている。高村光太郎賞を受賞した彫刻家、一色邦彦さんの作品だ。飛びたとうとしているハト、帰りついたハト、六羽ともポーズが違う。 実物より少し大きいアルミ製。気づかずに通り過ぎてる人が多いが、ハトは上から静かに見下ろしている。人なつこい顔をしたハトもいれば、はるか永田町方面を見ているハトもいる。タカを警戒しているのか。六羽のハトに囲まれて、あすから新聞週間〉

 以来、毎日新聞のあるパレスサイドビルを通り過ぎる時は、ふと視線を頭上のハトに向けるようになりました。日比谷公園にいるハトも、かつてはジャーナリズムの一翼を担った由緒正しいハトの末裔かもしれない、と思ってみたり――。

 擱筆(かくひつ)は2002年6月18日。この日、宮城スタジアムで日本代表はトルコに0-1で敗れ、ベスト8入りを逃しました。

〈日本のチームのW杯は終わった。美しい夢を見た。夢は必ず覚める。それがきのうだった。しかし、覚めても、記憶は鮮明に残る。残像をいつまでも大事に取っておこう。 私の余録はこれで終わり、明日から新しい筆者と交代します。ご叱正、ご鞭撻ありがとうございました〉

 執筆の終点がなぜ6月18日だったのか。その理由を知ったのは、しばらくたってからでした。

〈無我夢中で余録を書いているうちに、ついうっかりして年齢を忘れてしまった。そんなばかなことがあるものかとおっしゃる方がいるかもしれないが、恥ずかしながら事実である。 数年前、それに気がつき、愕然として誕生日にやめようと決心し、会社に申し出て、二年遅れで実現した〉(前掲「新聞研究」)

 そして、こう続きます。

〈朝日新聞欧州総局長だった故深代惇郎氏は七三年一月、急に帰国することになり、ロンドンでの各社特派員の送別会で「東京に絶世の美女がいて、急遽帰国しなければならなくなった」と理由を語ったそうだ。 絶世の美女。さては突然の帰国の裏に女性問題がからんでいたのではないかと早とちりした向きもあったようだが、「絶世の美女というのは、もちろん天声人語のことさ」とその夜、ロンドンの同僚がパリの私に電話で大笑いしながら解説してくれたことを思い出す〉

 パリの諏訪さんに、おそらくロンドンから電話したと思われる小西昭之さん(後のワシントン支局長、故人)から、私も何度かこの話を聞きました。深代さんの懐かしい思い出話とともに、何度も繰り返し聞きました。諏訪さんは続けます。

〈深代氏の天声人語はわずか二年半で終わったが、私にいつまでも消えることのない鮮烈な残像を残した。深代氏はきっと新聞コラムという絶世の美女と対面したのだと思う。 深代氏の美女と違って、私の中の幻の美女はつつしみ深い。遠くのほうでかすかに後姿が見えるような気がするときがあるが、目を凝らしてもよく見えない。急いで近寄ると、さっと身をひるがえして逃げてしまう。絶世の美女のくせに逃げ足は速い〉

 流されゆく日々との「その日暮らし」に別れを告げて、「余録」はいま一冊の書物としてわれわれの前にあります。洗練されたユーモア、行間ににじむ教養、悠然たる構えに秘められた記者魂――。「眇(びょう)たる数百字のコラム一つで愉快になって元気が出る。生きる勇気が何となく湧いてくる。毎日新聞の読者なら覚えがあるはずだ」とは、愛読者の一人だった丸谷才一さんが、諏訪さんの「余録」を評した言葉です。

 深代さんと諏訪さん、一歳違いだったのか、と感慨にいたります。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)