【考える本棚】
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 長谷川洋子『サザエさんの東京物語』(文春文庫)
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サザエさんの一族再会
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「磯野家の謎」、「サザエさんの秘密」について薀蓄(うんちく)を傾ける人には時々お目にかかりましたが、『サザエさん』の作者である長谷川町子さんがどんな人であったかを具体的に語ってくれる人にはなかなかめぐり会いませんでした。作者と主人公はまるで別の生き物だとは分かっていても、ついつい“そそっかしくてお人好し、陽気で純情で、親孝行の”サザエさんのような人柄を思い浮かべてしまいます。

 ところが長谷川3姉妹の末っ子の手になる本書を読むと、実像はずいぶん違っていたことが分かります。人見知りで、人付き合いが大の苦手。仕事先の出版社や新聞社の人間ともほとんど会わず、パーティや会合も敬遠していたために、友人、知人は極端に少なかった、と。

 家の中ではどうかといえば、これが甘えん坊で「お山の大将」。声も主張も人一倍大きくて、「一人で五人分くらい騒々しい」と長姉は時々、耳をふさぐようにしていたとか。見かねた著者が、ある時ご機嫌のいいタイミングを見計らって、「少し我儘が過ぎるんじゃない」と意見すると、「我儘というのは、我のままということでしょう。それはつまり裏表のナイ、ウソのない人ということよ。わかったか、ボケナス!」と反省の気色はゼロ。

〈家庭漫画って清く、正しく、つつましく、を要求されるでしょう。だけど、それって私の本性じゃないのよね。だから『いじわるばあさん』のほうが気楽に描けるのよ。私の地のままでいいんだもの〉

 生涯、独身を通したのも、「ご亭主や子供の世話で一生送るなんて我慢できない。お嫁さんがほしいのは私のほうだわ」というような人でした。

 福岡で過ごした少女時代は腕力と毒舌にものをいわせたかなりの悪童。ところが、女学校2年生の時に最愛の父をうしなって、一家で東京に移り住んだのが転機となります。「木曾山中で幼少を過ごした木曾義仲が都のお公家さんの笑い者になったように」、東京の「お嬢様学校」に転入した途端、カルチャーショックで次第に内向的になったといいます。

 こうして父なき後は、しっかり者の母親を中心に、東京で女4人の暮らしが始まります。ここで驚くべきは、比類のないこの母親のたくましさです。暇があれば漫画を描いている町子の姿を見ていた彼女は、いきなり当代一の人気作家、『のらくろ』の田河水泡の許に娘を弟子入りさせてしまいます。

〈母は姉の漫画の才能に以前から注目していたので、描き溜めた漫画を持たせ、まり子姉を付き添わせて田河水泡先生の門を叩かせた。紹介者もツテもないのに、当時の第一人者を師として選ぶところが無鉄砲で母らしい。こんなときは保護者として母がついていくべきだと思うのだが、自分は絶対に表に出なかった。二十歳前の娘二人のほうが先生に同情してもらえると思ったのか、それとも自分の道は始めの一歩から自分で開けという教育なのか、母の考えはわからないことが多い〉

 突然、38歳で夫を亡くし、娘3人と世の荒波のただ中に放り出された母親は、「生活の手段を持たない自分自身をどんなにか口惜しく、不甲斐なく思ったことだろう」と著者は回想しています。子育ての方針は明確で、「一つはキリスト教の敬虔な信者であること、二つ目は人に頼らず一人で生計を立てられること」――。こうして町子は漫画の道に進み、長姉は挿絵家として歩み出し、著者も東京女子大に入学しますが、途中で“物書き”見習いとして菊池寛に弟子入りし、そのまま文藝春秋社(当時)に入社します。いずれも母親が早々と人生のレールを敷いた結果です。

 ところが、時代は次第に戦争一色となり、一家はふたたび福岡に疎開。そのまま終戦を迎えます。前々から「サザエさん」の連載が、なぜ地方新聞の「夕刊フクニチ」で昭和21年にスタートしたのか興味深く思っていましたが、これで謎が解けました。

〈愛読していた志賀直哉氏の『赤西蠣太(あかにしかきた)』に登場する御殿女中が、〈小江(さざえ)〉という名前であったことと、私達の住まいが海岸の側にあったことから、姉は主人公の名前を「サザエさん」と決め、家族の名も、すべて海にちなんだものから選んだ。毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、ごく気楽に執筆を始めたのだった〉

 そして、再度上京してからは、またしても母親の本領発揮です。当時50歳だったというのですが、「夕刊フクニチ」の連載を1冊にまとめ、『サザエさん』を出版しようと思い立ちます。

〈出版についての知識は皆無で、紙の仕入れ方(その頃はなかなか手に入らなかった)、印刷や製本の頼み方についても一切、手がかりがなかった。 あまりに無謀な思いつきなので娘達は口々に反対したが、母の決心は固かった〉

 なおかつ世田谷に小さな家を求め、自前の出版社「姉妹社」を立ち上げます。そして絵描きの道をめざしていた長姉に「絵なんかやめて姉妹社の社長になり大いに営業に励みなさい」と厳命を下し、猪突猛進、戦後の長谷川家の基本路線を一気に整えてしまうのです。著者は伝票を書いたり月末の請求書を書いて集金に出かけたりして、「よろず承(うけたまわ)り係」を仰せつかります。

「サザエさん」連載は「夕刊朝日新聞」などを経て、昭和26年4月から朝日新聞朝刊に引っ越します。そして昭和49年2月まで、計6477話、国民的漫画として親しまれ、その間に映画、テレビドラマ、アニメーションとなって、いまなお世代を超えて愛され続ける不朽の名作となるのです。

 書斎の中では、作者が「毎日、呻吟(しんぎん)し、イライラし、時には鬱(うつ)になってムカついたりする日々」を送っていました。病気休載の中断が生まれたのも、絶えず胃痛に襲われていた執筆ストレスが原因です。47歳の時には、胃潰瘍ならぬ、実は胃がんの摘出手術も受けていました。そんなことを読者は少しも知りませんでした。

 ともあれ長谷川町子さんその人もユニークですが、そろって聡明で個性的、エネルギーに溢れた母娘4人の激突家族ぶりが傑作です。いつの頃からか“串だんご”と称するようになった姉妹の求心力もきわめて強く、著者は新聞記者の伴侶を迎え、やがて2女にも恵まれますが、母親の頼みで夫は同じ屋根の下に住むことになり、かくて漫画を地でいくマスオさんが誕生します(ただ、夫は35歳の若さで亡くなり、6歳と4歳の娘を抱えた著者は、元の長谷川姓に戻りますが)。

 さて、本書の原本が刊行された際、世間を驚かせたのは、1983年、還暦に近づいていた著者が、“串だんご”からのひとり立ちを図ろうとする場面です。これまで住んでいた桜新町の家が老朽化したために、姉二人は近くに家を新築して、そちらへ移り住むことに決めました。ところが、ここで著者は引っ越すことをためらいます。重要な場面ですので、少し長い引用になりますが、そのまま紹介いたします。

〈生まれたときから末っ子の味噌っかすで、機関車に引かれる貨物列車同様、姉達の引いたレールの上を走ってきた。おもしろいこと、楽しいこと、心強いこともたくさんあった。でも、自分で考えて自分で決めて、自分の足で歩いてこその人生ではないだろうか。 私は自分の自主性のなさに改めて呆れていたのだ。 自分の足で歩くといえば聞こえはいいが、才能も度胸もない私がたどる人生は、ずっと地味で、つましく、苦労の多いものになったはずだ。しかし、生まれてきた目的とは、自分に与えられた相応の器の中で転んだり、すベったりして生きていくことではないだろうか。(略) 実は姉達が引っ越していってから一カ月間、私は多少の自由を経験したのだった。自由とはこんなにも素晴らしいものだったのか。それは生まれて初めての経験だった。目に見えない縄目から解放され、手足も心も、のびのびと動くことに感動した。 些細なことでも自分の一存で決められるのは新鮮な驚きだった。六十歳に近くなってひとり立ちもおかしいが、これがひとり立ちできる最後のチャンスではないだろうか。 いろいろ考えているうちに決心が固まってきた〉

 控え目に書かれていますが、この決断は生半可なものではなかったと思います。勇を鼓して、身がすくむような怖れに打ち勝って、真情を語ったに違いありません。それでも9年後に、町子姉が亡くなった際、「洋子には絶対に知らせてはならない」と長姉から厳命が下りました。SSS(スリーエス)マークの「姉妹社」3人娘の間に走った亀裂は、姉たちが他界するその日まで、ついに修復することはありませんでした。あれほど姪っ子2人を父親代わりに可愛がってくれた姉たちなのに、また徒歩10分くらいの近くにいたにもかかわらず、そこには限りなく遠い距離が生まれてしまったのです。

「今まで通り一緒に旅行したり観劇を楽しんだりしましょう。病気や困ったことがあったら助け合いましょう。ただ、私は自分らしく自分の選択した余生を送ってみたいのです」という著者の気持ちは聞き入れられませんでした。“串だんご”の末っ子のひとり立ちが払った代償は、あまりに大きかったというべきでしょうか。

 その一方で、著者は「彩古(さいこ)書房」という小さな出版社を設立し、次女とともに児童心理学関係などの良書の出版に情熱を注ぎます。そして、乳がんと闘っていたフリージャーナリストの千葉敦子さんの日常生活の心得を本にした際は、商業的にも成功を収め、ひとり立ちの充実感を手にします。

 今回、文庫化されるに際して、書き下ろしで2章が加えられました。その1篇「それからの七年」には、彩古書房の幕引きや、母、町子姉に続き、長姉の訃報に接した際のことが綴られています。

「先輩たちとのお付き合い」には、文藝春秋の社長だった池島信平さん、落語、歌舞伎の評論家として活躍した安藤鶴夫さん、陶芸家の河井寛次郎さんという三人のことが描かれています。前の二人については町子姉からの伝聞らしく、「知識と知恵の宝庫のような」池島さんとの楽しい語らいの思い出が、またアンツルさんには吉原を案内してもらった話が紹介されています。吉原への「道々うかがったお話が、落語より面白」く、「廓(くるわ)にのぼるときの心得、花魁(おいらん)の位、客としての作法など、はじめて聞く話に時のたつのを忘れた」と、人付き合いの苦手だった町子姉にしては珍しい、印象的な逸話です。

 河井寛次郎さんについては京都の工房に、旅行ついでに家族で立ち寄った時のこと。突然の訪問であるにもかかわらず、温かく迎えられ、心から寛いだ様子が伝わってきます。

〈帰る道々、考えた。なぜ先生のお宅はあんなに居心地がいいのだろう。先生は当り前のように人を迎え、当り前のように送り出される。なんだか自分が空気になったように、鎧(よろい)を脱いで自由になってしまう〉

 そして文章をこう結んでいます。

〈こういう先輩方とその後も親しくしていただいていれば、町子姉の世界はもっと拡がったろうし、「知識と知恵の宝庫」から、おこぼれをいただければ、四コマ漫画のワクから飛び出して、自由な発想や表現を生み出せたのではないだろうか。 家庭という狭い世界に閉じ籠ったまま一生を終わったことが、改めて惜しまれる気がする〉

 いえいえ、そんなことはありません。むしろ狭い世界を舞台にして、四コマ漫画という限られたワクの中で、愉快な「サザエさん」の物語を現出させた作者にこそ賛辞を送りたい思いがこみ上げます。勝手な読者の感想かもしれませんが、それを支えた女性家族全員に感謝を捧げたいという気がします。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)