【考える本棚】
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 中田整一『ドクター・ハック――日本の運命を二度にぎった男』(平凡社)
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あるスパイの数奇な人生
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 第2次世界大戦末期、スイスを舞台に繰り広げられた日米和平工作のドラマは、これまでも多くの書物やテレビ番組などで取り上げられてきました。私自身が読んだ限りでも、朝日新聞欧州特派員として滞欧7年に及んだ笠信太郎の物語である『スイス発緊急暗号電――笠信太郎と男たちの終戦工作』(坂田卓雄、西日本新聞社)や、「文藝春秋」(1951年5月号)に掲載された藤村義朗(よしろう)元海軍中佐(在ベルリン日本大使館付海軍武官補佐官)の手記「痛恨! ダレス第一電――無条件降伏直前スイスを舞台に取引された和平工作の全貌」などがあります。

 ただ、話のスケールがあまりに大きく、日米にまたがる関係者の証言にもいまひとつ確信が持てなかったため、どこまでが真実で、何がまだ秘密のヴェールに覆われているのか、客観的な全体像はつかみかねるというのが正直な印象でした。いろいろな経緯はあったにせよ、結果的には不発に終わった終戦工作。歴史のあだ花として、ほとんど忘れかけていたというのが事実です。

 本書はそこにドクター・ハックと呼ばれた不思議な存在――1930年代半ばの「日独接近の舞台裏で、終始、日本側に立っていたいわば二重スパイ」の肖像を描き出すことによって、あの時代の生き生きとした歴史の息遣いを伝えてくれます。生前は、関わった相手の秘密を守り抜き、自らの人生の痕跡すら残すことを望まなかったというハックですが、遺品の中から発見された日々の覚書(ナチス高官に宛てた報告書、日記風の回想、在ベルリン日本海軍武官事務所宛ての秘密情報の報告書など)や、関係者たちの証言、各種の一次資料等々を駆使しながら、著者は見事に第2次世界大戦前夜の日独接近を仲介し、その後は一転して日独伊三国同盟に強く異を唱え、太平洋戦争突入後は日本を戦争から救済するために、亡命先のスイスで必死の努力を重ねた謎の人物に肉薄しています。

 さて、この物語の主人公、ドクター・ハックことフリードリッヒ・ハックは、1887年、ドイツのフライブルクに生まれます。父親は医学博士、母親は児童文学者という知識人の家庭に育ち、フライブルク大学で経済学博士号(ドクター)を取得します。その後、教授の勧めで1912年に来日し、東亜経済調査局(のちの満鉄調査部)に職を得ます。ここで日本語の習得、日本文化の研究に励み、日本に対する造詣、親愛感を深めたことが彼のその後を決定します。

 ところが、たまたま旅の途中で立ち寄った青島(チンタオ)で、1914年、第一次世界大戦の勃発に遭遇。日本とドイツは敵対関係になり、ハックは情報将校として祖国のために参戦します。ドイツ降伏後は、福岡俘虜収容所などで5年間の捕虜生活を送りますが、日本語を巧みに操るハックは通訳として珍重されます。やがて大戦終結後も、日本に残る道を選んだ彼は、日本海軍、陸軍のエージェントとしてドイツの最新兵器や重工業品の輸入、高度な軍事技術導入の仲介ビジネスに携わる一方で、その事業パートナーとなった、ドイツの兵器産業クルップ社駐日代表との親交が深まるにつれ、日本軍部の秘密任務の遂行に次第に巻き込まれていくのです。

 詳細は本書に譲りますが、副題にある「日本の運命を二度にぎった男」の最初の出番となるのは、1935年10月、ヒトラーの側近であり外交顧問を務めていたリッベントロップ(後の外相)と、ベルリンの日本陸軍駐在武官であり、やがて日独防共協定の推進者となる大島浩陸軍少将との初対面を、ベルリンの自邸でお膳立てする時です。両国外務省による正規の外交ルートとは別の、ヒトラーの私的外交機関と日本陸軍との交渉の橋渡しの役目を担うのです。

 続いて1936年2月、ハックはドイツの映画撮影隊を引き連れて、日独合作映画制作のために来日します。やってきたのは、山岳映画の巨匠として世界的に名をはせたアーノルド・ファンク監督らの一行です。

 元越後長岡藩家老の娘、杉本鉞子(えつこ)の世界的ベストセラーである『武士(サムライ)の娘』(No.352参照 http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag/352.html )にヒントを得て、同名のドイツ版映画をファンクが撮り、日本版の「新しき土」は伊丹万作が監督するという作品。主役に抜擢されたのが15歳の原節子でした。

〈ファンクは、繊細でほっそりと貴族的な容貌をもつ魅力的な少女に、欧州の映画ファンを魅了する隠された才能があることを見抜く眼力をもっていた。 ギリシャのアルカイック期の人物彫刻の口辺に見られるような、いわゆる“アルカイックスマイル”の微笑をもつ少女だと直感した。 ここに、スター原節子の誕生が約束されることになったのである〉

 日本びいきのハックは、ベルリンの「日独協会」理事として、当時悪化していたドイツの対日感情を好転させ、日独の友好を進展させたいという純粋な夢を抱いていました。ただ、ナチス党の文化戦略、啓蒙宣伝の全権を掌握していたゲッベルスから映画制作費を引き出したことで、作品がナチスの国策映画という政治的な色合いを帯びることは避けられませんでした。

 実際にまた、この合作映画の制作は、前年から進んでいた日独接近の秘密交渉の隠れ蓑でした。ハックは大島浩の密命を帯び、日本の要路の人物たちとの面会を重ねます。後の日独防共協定の根回しでした。この時、ハックの動向に注目していた一人に、在京ドイツ大使館に食い込んでいたソ連の大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲがいました。このあたりの虚々実々の駆け引きは、実に興味深くスリリングです。

 ハックはまたこの年5月、大島浩の要請で満州に渡り、満州国皇帝溥儀とも会見しています。目的は満州における日独経済交流の強化を図る地ならしでした。こうして同年11月、日独防共協定が結ばれます。ソ連抑止の有効な手立てを主導できたと喜んだのも束の間、3年後の独ソ不可侵条約の締結によって、日本は手ひどい打撃を蒙ります。「欧州情勢は複雑怪奇」の声明を発して平沼内閣が総辞職したのは、周知の通りです。

 しかし、何といっても本書のハイライトは、ハックの2度目の大役です。やがてナチスドイツの正体に目覚めたハックは、両国の将来に対して危機感を抱きます。そんな矢先、ナチス内部の政争に巻き込まれた彼が、秘密国家警察ゲシュタポに逮捕されるという事件が起こります。救出に全力を注いだのは日本海軍です。ハックに資金を与え、ナチスの虎口から脱出させ、スイスに亡命させるのです。

 この恩義を一生忘れなかったハックは、スイスで冷静に戦況の成り行きを見つめつつ、日本に一級のインテリジェンスを提供し続けます。1940年の三国同盟には徹底した反対の意を唱え、「この条約は必ず英米を敵にまわし、日本は欧州の戦局にまきこまれるだろう」と警告を発します。また太平洋戦争に突入した日本がまだ戦勝気分に酔っている1942年の春に、彼は早くも指摘しています。

〈戦争は必ず終止点があるものです。その際に交渉が出来る隙間をつくっておくように。敵側の中に何らかの連絡方法を予め保持しておくことが大切です〉

 日本が断末魔に陥る前に、和平交渉の道筋を用意しておくように、との進言です。そして日増しに日本の敗色が濃くなっていく1945年4月23日、ハックを通じた和平交渉がスイスを舞台に開始されます。海軍の藤村義朗中佐とアメリカの諜報機関である戦略情報局(OSS)のアレン・ダレス(後のCIA長官。対日講和条約締結時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスの実弟)らとの交渉です。

 これがどの程度の実現可能性をはらんでいたものか――ハックの遺品のメモ、OSSの文書、ダレスの残した記録、関係者たちのメモワールや手記、取材した証言などを手がかりに、著者はその輪郭を、複数の視点からできるだけ正確に描き出そうとしています。

 ハックたちはこの工作に全力を傾けました。ところが、終始冷淡だったのは東京の上層部です。これは日本に戦争継続を断念させるためのアメリカの謀略だと見なし、黙殺を決めます。その一方で、ソ連の斡旋を期待して、連合国との和平に望みを託すのです。この独善的な情勢判断の誤りがどういう惨劇を招いたかは、歴史が証明している通りです。貴重な情報を過小評価し、自ら壊滅的な道をたどった国家の悲喜劇は、8月14日午後3時頃(日本時間では午後10時頃)、突然スイスにつながった東京からの至急電話が象徴しています。「藤村中佐、あの話はなんとかならないか!!」

〈スイスの藤村の部屋では、偶然、ハックが居合わせて新聞を読んでいた。かれの顔は、見るみる青ざめて椅子から立ち上がると、読んでいた新聞を激しく床に叩きつけた。「何で今頃……、百日遅かった!!」 日頃の温厚なハックが、藤村の前ではじめて見せた怒りの声が大きく響いた。なぜ、五月に交渉を始めたときに、もっと真剣に対応しなかったのだ、というハックの無念の思いがこもっていた。……あまりにも身勝手な東京のやり方にハックは、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ〉

 ハックとダレス機関は、実はもうひとつ別の終戦工作も手がけていました。藤村・ダレス工作が頓挫した後も、なおハックは最後まで懸命の努力を続けていたのです。しかし、それも潰(つい)えました。7月26日、ポツダム宣言。8月6日広島への原爆投下。8日ソ連軍の満州、朝鮮への侵攻開始。9日長崎への原爆投下。14日の電話になぜハックが激怒したか。その絶望の深さに気づかなかったのは、東京の大本営作戦参謀たちでした。

 著者の中田整一氏は長くテレビのドキュメンタリー制作に携わってきた元NHKプロデューサーです。2・26事件のさなかに取り交わされた関係者の電話を傍受した大量のレコードを探しあて、事件の全容に迫った「戒厳指令…交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~」や「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」など、昭和史、とりわけ戦争の時代を検証する数多くの番組を手がけてきました。近年は、カリフォルニアの日本兵捕虜秘密尋問所「トレイシー」の存在を明らかにした同名のノンフィクション作品など、著作の執筆に余念がありません。

 歴史を題材とする際に「愚直に心してきたことは、歴史を一次資料や一次証言者に語らせること、複眼の視点で歴史を見ること、現場にたって物事を考えてみること」と語っていて(第32回講談社ノンフィクション賞「受賞のことば」)、本書でもその特徴はいかんなく発揮されています。

 ハックたちの和平交渉がスイスで着手される直前、ちょうど70年前の4月7日、沖縄への無謀な「水上特攻作戦」を命じられ、乗組員約3300名とともに東シナ海に沈んだのが戦艦大和です。その時の第2艦隊司令長官・伊藤整一にちなみ、両親が「整一」の名を付けたと聞きました。1941年生まれ。福岡県大牟田市の生家は、伊藤整一司令長官の生家(現・みやま市高田町)とは甘木山(あまぎやま)という小高い丘陵ひとつをはさんだ徒歩30分の距離だとか。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)