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 肥った豚とスマホ
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 大学の卒入学式も一段落して、いよいよ新学期が始まりました。われわれの会
社の最寄駅、地下鉄東西線の「神楽坂」は、「早稲田」駅の隣りです。この季節
には、電車の中のなにげない会話にも地方出身者だと知れる新入生たちを見かけ
ることがしばしばです。ふと40数年前の自分自身の姿を想像してしまいます。

 もっとも、当時は入学式も卒業式もありませんでした。60年代末の学園紛争の影響で、そうした儀式はまだ「中止」の状態が続いていました。おまけに私が入学した年は、国立大学の学費値上げの反対闘争が長引いて、5月の連休明けまで授業はなく、何とも拍子抜けする初年度でした。

 卒業の時も、似たり寄ったりの状況です。研究室に顔を出すと、助手が卒業証書を手渡してくれました。その足で生協購買部へ向かい、金文字で大学の名前が印刷された黒い丸筒を買い求め、それに卒業証書を納めます。実にあっさりしたエンディングでした。

 紛争前は、どこの大学でも「晴れの門出」として卒業式が行われていました。イメージとして印象的なのは、東京オリンピックが開催された1964年春の東京大学の卒業式。大河内一男総長が語ったとされる、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という言葉が有名です。

 新聞やテレビでも大きく報じられ、たしか「サザエさん」の漫画にも取り上げられた気がします。そんな記憶を呼び覚まされたのは、この春、東大教養学部の卒業式(学位記伝達式)で、石井洋二郎教養学部長がこの発言をめぐって興味深い指摘をしたからです。大河内総長のあの“伝説”には、根本的な間違いが3つあるというのです。

 その1。「大河内総長が言った」として、彼のオリジナルな言葉であるかのように思われていますが、元はといえば、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義』という著作からの引用です。総長の式辞原稿を確認すると、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれているようで、「なれ」と「なりたい」の若干の相違はありますが、出典がきちんと明示され、作法にのっとった正当な引用であることに誤解の余地はありません。

〈ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です〉

 その2。石井教養学部長は、J・S・ミルの著作の日本語訳にも当たってみました。すると、先ほどの箇所はこう訳されています。「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」(*)。内容がだいぶ異なっています。さらに英語の原文はこうだといいます。

 It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied ;better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

 原文と日本語訳はきちんと対応していますから、どうやらこれは大河内総長が自分なりの記憶に基づいて「適当にアレンジした」のでは、という疑いが生じます。ご愛嬌だといって大目に見ていいものか(笑って許される範囲の意訳かどうか)といえば、石井先生はやや厳しく見ているようです。「下手をすると、これは『資料の恣意的な改竄』と言われても仕方がないケースです」と。

 その3。ここが私にとっては最大の関心事なのですが、実はこの肝心のフレーズを大河内総長は、卒業式では読み飛ばしてしまったというのです。つまり、「実際には言っていない」発言だというわけです。

〈原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです〉

 記者は卒業式の現場を取材することが認められていなかったのかもしれません。理由はとまれ、この「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えは、3つの間違いがダンゴ状になった完璧なフィクションだというわけです。

〈早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です〉

 以上が、石井学部長の式辞の前段です。そして、ここから導かれる結論は、私たちが日常的に接しているあまたの情報――とりわけ「ネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいい」という教訓です。つまりは、いわゆる情報リテラシー――まことしやかな情報を、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分の頭で批判的に検討し吟味する精神を培うこと――が大切なのだという指摘になります。

〈……善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。 しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の足と頭で検証してみること、この健全な批判精神こそが……「教養」というものの本質なのだと、私は思います〉

 卒業生へのはなむけの言葉は、このように締めくくられています。さてそこで、大河内発言を当時の新聞がどう報じていたのか、ほんの少し調べてみました。1964年3月28日の朝日新聞夕刊です。振り袖姿の女子学生に囲まれて謝恩パーティで乾杯している大河内総長の写真が出ています。「やせたソクラテスたれ」という見出しがあり、式辞の要旨がまとめられています。時代の空気が感じられる内容ですので、あえて要旨の全文を紹介してみます。

〈過去において東大は日本における有力な指導者たちをもっとも多く世に送り出した大学だったといえる。しかし東大出身者は日本の発展の推進役でもあったが、同時に日本の悲劇的な破滅の推進役だった人が少なくなかったことも忘れてはならない。いま卒業生にとってなにより必要なことは出世コースのすわり心地のよさに負けることではなく、政治や経済や文化などの面で日本的なゆがみやひずみを正すことである。 むかしJ・S・ミルが「ふとったブタになるよりはやせたソクラテスになりたい」といったことがある。いまの社会のひずみから目をおおってふとったブタの栄誉に安住するよりは、たとえ身はやせても信念に生きることが人間らしいのだ。卒業生の諸君がやせたソクラテスになる決意をしたとき日本は本当に良い国になるでしょう〉

 J・S・ミルの引用だというワン・センテンスを総長が読み飛ばしていたとするならば、聴衆はその後に出てくる「ふとったブタ」も「やせたソクラテス」も、やや唐突ながら、総長自身の哲学的な比喩だと思って聞いたのでしょう。そして、「ふとったブタよりもやせたソクラテスたれ」とともかく檄を飛ばされたと受け止めたのは間違いないでしょう。

・言いもしなかった言葉を「述べた」と書いたメディアの誤り。・あやふやな記憶をもとに自分に都合よく原典をデフォルメして使った引用者の罪。

 2つの責任は免れないにせよ、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という話自体はあながち“幻”ではなかったようです。真相は定かでありません。しかし、どうやらそのあたりも先刻承知の上で、石井学部長は、「あらゆる情報の真偽を自分の目で確かめるように」、「必ず一次情報に立ち返って検証するように」と暗に卒業生たちにけしかけていたような気がします。

 さて一方、今年の入学式の挨拶では、信州大学の山沢清人学長の発言が賛否の波紋を広げています。曰く、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」。

 さっそく大学のホームページで全文を読んでみました。確かにこの言葉がそのままテキストには載っていて(おそらく読み飛ばしはなかったのでしょう)、このフレーズに続いて「スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます」と述べられています。

 スマホに象徴されるモノやサービスの利便性が今日ほどではなかった時代には、創造性を育てるために必要な、時間的、心理的な「ゆとり」がありました。自分の頭で考えることにじっくり時間をかけることができました。

〈信州大学では、自然に囲まれた緑豊かなキャンパスでの勉学と課外活動、都会の喧騒とは無縁の落ち着いた生活空間、モノやサービスなどが溢れることのない地に足の着いた社会など、知的にものごとを考え、創造的な思考を育てる環境を簡単に手に入れることができます。先輩諸氏は、このようにして、ゆっくりとした時間の流れを作っていたのです〉

 であればこそ、その良き環境を自覚的に受け継いで、「自分で考えること」を習慣づけ、「考えること」から決して逃げないでほしい――東北大学工学部出身の山沢学長は、万感の思いをこめて先の問いかけを発したに違いありません。

「健全な批判精神を」という石井先生の言葉、そして山沢学長のメッセージ。瑣末なスマホ是非論に矮小化するのではなく、この二つの教育現場に共通する危機感、あるいは願いに、是非まっすぐ向き合ってほしいと思います。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)