【考える本棚】
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 中島岳志『下中彌三郎』(平凡社)
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平凡の非凡
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 平凡社ライブラリー @Heibonsha_L(聞こえますか…いま…私は…書店員様の…心に…直接…話し掛けて…います…角田光代さんの新刊『平凡』の…版元は…平凡社ではあ…りません…「売行き好調…平積み用20冊…注文!」といったFAXが…最近…平凡社に…送られて…きます…本当に…羨ま…違っ…『平凡』の…版元は…新潮社様…です)

 ちょうど1年前、角田光代さんの新刊『平凡』(新潮社)を、平凡社の本だと勘違いして注文する書店員が何人も現れたというのです。「平凡社ライブラリー」のこのツイートが話題になったことは言うまでもありません。

(もちろん…角田光代さんの『平凡』の…ご注文…FAX…は…送信元の…書店様に…返信…しております…『平凡』の…新潮社様HP紹介文→…「つい想像してしまう。もしかしたら、私の人生、ぜんぜん違ったんじゃないかって――。」…あなたの…もう一つの…人生…を…描く…短編集…ぉ…面白そう…)

 これに対して、「新潮社出版部文芸」が「わー、すみません!」と反応してやりとりが続きます。「い、いつの日か…書店様の店頭で新潮社『平凡』×平凡社『新潮』合同フェアを展開したい…ものですね…」と平凡社さんがつぶやいたところで、ひとまず幕となりました。

 私が10代だった頃、人を惑わせたのは、平凡社と平凡出版(現・マガジンハウス)の違いです。世は高度経済成長の時代。平凡社の繰り出す『世界大百科事典』、『国民百科事典』は空前の百科事典ブームを巻き起こしました。かたや大衆芸能娯楽誌の「平凡」と、若者文化を牽引する男性向け週刊誌「平凡パンチ」は、疾風怒濤の勢いでした。百科事典と大衆娯楽誌――現象的には水と油で、まったく異質と見える出版社であるにもかかわらず、名前が実に紛らわしい!

 いずれにせよ、「平凡」という平凡ならざるネーミングの意図はどこにあったのか――気になるといえば、ずっと気になっていた疑問です。とりわけ百科事典の平凡社については、いっそう謎めいて思えたものです。

 それが本書であっけなく解き明かされます。しかも、そこから一つの意外な物語が、歴史の深層のように浮かび上がってきます。まずは本書に引用された、平凡社の創業者、下中彌三郎の証言です。1914年の会社設立に際して、社名には随分悩んだと語っています。

〈さて、かんじんの版元の名がきまらない。あかつき社、あけぼの社、希望社、純真社、天真社、愛人社、便利社、など考えて見たが、どうもおちつかぬ。理に走れば情をはなれ、高尚にすぐれば足が地につかず、強い方に傾けば偏りを感ずる。俗にくだければいやしくなる。考えあぐねているようすを、そばで見ていた妻みどりが、「平凡社はどう」という。なるほど、それがよい、ときまった〉

「平凡」という語は下中にとっても思い入れがあった、と著者は指摘しています。当時の「日露戦争の勝利に沸き立ち、日比谷焼き討ち事件のような世論の暴走」が際立つ状況に対し、「常識や中庸の重要性」を下中も痛感していたはずだというのです。とはいえ、下中という人物は熟慮型の保守主義とは対極の人でした。思想は生涯を通じて左右に激しくぶれ続け、ルソーに触発された自由主義教育論、熱烈な天皇主義、神秘思想、社会主義的労働論、農本主義的アナーキズム、アジア主義、超国家主義、世界連邦主義、非武装中立論、絶対平和主義等々の、多彩というより乱脈で、無節操な思想の遍歴を刻みます。

 彼が生涯理解できなかったのは「平凡の非凡」ではなかったか、と著者も指摘しています。英国の作家G・K・チェスタトンが言った「平凡なことのほうが非凡なことよりもよほどに非凡である」という認識とついに無縁ではなかったか――と。

〈大切なのは「平凡」な日常を支えるバランス感覚であり、長い年月の中で積み重ねられてきた社会的経験値の継承である。不安定な世界の中で、「平凡」を維持することこそが、人類の英知である。 下中は、このような認識から距離のある人物だった。そして、その危うさを鋭く見抜いていたのが、妻のみどりだった。下中が出版社を立ち上げる際、(略)傍でそっと「平凡社はどう」とささやき、これが採用された。みどりは、常に前のめりな下中に「平凡」という釘を刺したのである〉

 評論家の大宅壮一に「エタイの知れぬ怪物」と言わしめ、支離滅裂すぎて誰もが全人像を断念したという難敵に、著者は果敢に挑みます。ハチャメチャと見える思想的な変転にもかかわらず、下中の行動には実は一貫した論理があり、その情熱がめざすところのユートピア思想は終生揺るぎなかったと解き明かします。詳細には敢えて踏み込みませんが、下中の振れ幅の大きい言論活動の中から普遍的なテーマを抽出し、その一貫した理想の根っこを掘り起こそうとしたのが本書です。

 ともかく下中の人生は常に忙(せわ)しなく、めまぐるしく、行動はいつも唐突で、性急でした。組織や運動を立ち上げることには熱心ですが、「その多くは継続性がなく、発展性」を欠くのが常でした。しかしながら、その移り気な彼が、唯一粘り強く関わり続け、守り、育て上げたのが平凡社です。

 36歳で自ら著した小事典『や、此は便利だ』の販売のために創業すると、円本ブームに沸く1927年には『現代大衆文学全集』全60巻を刊行。1931年、社の経営が危うくなると、わずか5ヵ月の準備期間で『大百科事典』全28巻を刊行し、名実ともに「事典の平凡社」を確立します。

 そしてこの流れが戦後の『世界大百科事典』全32巻(1955年)の刊行、『国民百科事典』全7巻(1961年)へと続き、空前の百科事典ブームを生み出すのです。ただ、私が本の世界に関心を持ち始めた60年代初めから、平凡社を強烈に印象づけたのは、1963年に創刊された日本初の本格的グラフィック月刊誌「太陽」の創刊と、多くの写真家を顕彰した太陽賞の創設。さらには1973年の自然動物雑誌「アニマ」の刊行。また当時気鋭の永井陽之助、山口昌男らを編者とした『現代人の思想』シリーズや、網野善彦、阿部謹也らの中世史ブームを引き起こした著作の刊行等々です。時代の先端を拓く知的でスマートな出版社として、当時もっとも輝いて見えたのです。

 それだけに、平凡出版と混同されやすい社名であることは、一種のご愛嬌でもありました。かたやポピュラーな若者向け文化を生み出す威勢のいい会社。かたや知の最前線をゆくブリリアントな会社。まったく対照的な社風と映っていただけに、共通する「平凡」の2文字はシャレのような可笑しみがありました。ところが、本書を読みながらハッと気づいたのは、両社が持つ(かもしれない)深い精神的なつながりです。それこそ根っこの部分にひそむ同類項の気配です。

 現在のマガジンハウスである平凡出版は、1945年に誕生した戦後生まれの出版社です。創業時の社名は凡人社。創業者の一人である岩堀喜之助が、平凡社の下中彌三郎から「平凡」という誌名を譲り受けたところから出発します(この話は本書に出てきませんが)。

 そもそも「平凡」は、1928年に平凡社が新たな国民雑誌をめざして創刊した雑誌です。しかし、「思惑は外れ、売れ行きは予想の半分にも満たず、返品が大量に押し寄せ」て、5号で廃刊の憂き目を見、平凡社は経営の窮地に立たされます。そこから起死回生の願いをこめて送り出されたのが、『大百科事典』全28巻の企画です。約4年を費やす大事業となりますが、時代を画する出版物となるのです。第1巻の月報で、下中は力強く宣言しています。

〈私は、ほとんど学校教育を受け得ないで育ったために、書物ばかりにたよって学問しました。私が教職を抛(なげう)って出版事業を始めた動機も、出版事業着手の最初から、立派な百科事典を出したいと念願するようになった動機も、ともに私の経歴が然らしめたのです。私の要求するところ、他もまたこれを要求するであろう。私はこの信条に立っております。私は百科事典を要求する、私の家庭また百科事典を要求する、ゆえに百科事典は隣人同胞の要求であり、万人家庭の要求であろう。百科事典出版せざるべからず、すなわち、これが私の百科事典出版に対する一貫不惑の動機だったのです〉

 知的高みに立った“上から目線”の企画でないことは、この真率な言葉からもよく分かります。2歳にして父を喪い、小学校は3年で退学し、「小さな大人」として家計を支えた少年時代からの夢――「世界のすべてを把握したい」という知的好奇心こそが出版事業の原動力でした。言葉を換えれば「知へのアクセス」を大衆化する一種の「政治闘争」でもありました。

 岩波文庫の巻末に掲げられた「読書子に寄す」(岩波茂雄)の「今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた」に、時代的にもほぼ呼応する言葉です。

 さて、平凡出版の「平凡」ですが、やがては集英社の「明星」(現「Myojo 明星」)と並び、庶民の憧れの的である映画や歌謡曲の人気スターたちを、これでもかと満載させた誌面によって100万部を優に超える強力メディアに成長します。創刊時の想定イメージとはまったく違う展開でした。

 終戦直後、岩堀喜之助が、大政翼賛会の同僚であった清水達夫らに、雑誌をやらないかと声をかけたのが、先の凡人社の始まりです。岩堀が下中彌三郎から誌名を譲り受け、雑誌「平凡」が1945年11月に創刊されます。最初は中間小説雑誌をめざしていました。

 創刊号の巻頭には「平凡談義」という一文が掲載されます。筆者は新居格(にいいたる)。戦前は社会時評、文芸評論などで活躍し、思想的にはアナーキズムに傾倒した文筆家のひとりです。その彼が、この巻頭エッセイで「平凡人(平凡な人間)こそ真の自由を享有しうる。平凡人の世界は広く、拘束も少ない」と書いています。

 この文章は、塩澤幸登『雑誌の王様――清水達夫と平凡出版とマガジンハウス』の中で見つけました。そして、著者の塩澤氏はそこで岩堀喜之助の思想に触れ、彼はおそらく戦前の「昭和維新の革命思想につながっている」のではないか、本当は「右翼農本思想の信奉者だったのではないか」と示唆しています。

 となると、5号で廃刊に追い込まれた「平凡」の名前を譲り受けたという逸話にも、下中と岩堀の深い縁(えにし)を感じないわけにはいきません。下中の戦前・戦中の思想遍歴を見た後では、彼から岩堀への、あるいは岩堀から下中への、何らかの精神的なリレーがあったのではないかと想像されるのです。

 やがてまったく対照的な軌跡を描く二つの有力出版社が、実は根っこで深くつながっていたのではないか、というのは、この「平凡」の2文字にこめたそれぞれの思いにおいてです。アプローチは違うにせよ(そしてそれは時代とともに顕著になりますが)、大衆に寄せる夢をともに追いかけた同志とは言えないだろうか、と思うのです(*)。

 さて、80年代に入ると平凡社は業績が悪化して、麹町にあった自社ビルを手放すことになりました。その時、平凡社社長が言ったとされるひと言が、まことしやかな噂として私の耳にも届きます。

「うちは真面目にいい本を作っていて、むこう(平凡出版)はいい加減なモン(というふうにいったことになっている)を作ってて、なんてことだろう」(塩澤、前掲書)

 真相は不明です。ただ、この噂を平凡出版の社長が聞きつけて、それなら「横文字でカッコいい社名にしよう」と決断したのが、マガジンハウス命名のきっかけだというのです(同)。連綿と続いてきた両社のかすかな紐帯(ちゅうたい)が、ここに終焉の時を迎えたのかもしれません。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)