【考える本棚】
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 高井としを『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫)
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あなたの考え方の相続人
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 いまなら“ブラック企業残酷物語”となるのでしょうか。「女工哀史」という言葉を聞けば、実際にその作品を読んでいなくても、あるイメージが湧いてきます。明治、大正時代の紡績工場で牛馬のごとくこき使われ、過酷な労働条件、劣悪な職場環境を耐え忍び、それでも栄養失調や病で倒れる者は後を絶たず、挙句は使い捨てにされていった哀れな女性たちの姿が目に浮かんでくるはずです。細井和喜蔵(わきぞう)という著者の名前に聞き覚えがあるかもしれません。

 今年で刊行から90年を迎えました。昭和29年(1954年)に出た岩波文庫版が累計37万部というロングセラー。人権意識の乏しかった1世紀近く昔のルポルタージュであるにもかかわらず、現在と異次元の話かといえば、必ずしもそうではありません。ちょうど小林多喜二没後75周年の2008年に、『蟹工船』(新潮文庫)が突然若者の間でブームになりました。「格差社会」、「ワーキングプア」、「派遣切り」、日比谷公園の「年越し派遣村」などが話題になっている頃です。この年、新潮文庫版は約56万部の大増刷となりました。同じようなリバイバル・ブームが、『女工哀史』に訪れないとも限りません。

 この歴史的な作品に「共作者」として関わったのが、本書の著者である高井としをです。細井和喜蔵の「事実婚」の妻であり、本書は彼女の自伝的書物です。文庫の親本は1980年に刊行され(草土文化)、かなり評判を呼びました。今回、初めて読んで驚いたのは、その圧倒的な面白さです。『女工哀史』誕生秘話といった文化史的価値にとどまりません。ひとりの女性の波乱の人生――バイタリティに溢れ、向上心に燃え、まっすぐな正義感を貫いた痛快な生き方の魅力です。たとえ一生、貧しさと縁が切れなかったにせよ――。

 明治35年(1902年)、岐阜県の山間部に炭焼きの子として生まれます。満10歳で親元を離れ、大垣で紡績工となりました。ところが、「きいて極楽見て地獄」の労働環境にたちまち反発。工場を逃げ出す一方で、独学で本を読んで勉強し、「子どものころから弁護士といわれたほど口達者だった」のを武器に、勤務先の理不尽な仕打ちにも堂々と、ものおじせずに挑みます。やがて、勤めていた豊田織機(名古屋)でストライキが起き、そこで一枚のビラを手にします。大正デモクラシーの旗手、吉野作造の「個性の発見」という論文でした。

〈だれでも人間は全部平等で、個性と人格、人権があることを、各個人が気づかず、知らずにいる。一人ひとりが自分の個性にあった仕事や学問をして、社会のためにも自己のためにも今より幸せな生活をする。自分を大切にする。そして他人を尊重する。労働者は話しあい、学びあい、団結することによって生活の向上ができる。学者も医者も政治家も個性の発見に努力せよ。労働者よ、団結せよ。自己の尊さに目ざめよ〉

「だいたいこんな内容だった」という呼びかけに、著者は「魂」を入れられたといいます。「矢もたてもたまらなくなり、その夜のうちに持ち物全部を売り払い、旅費をつくって上京した」というのです。数え年で18歳。所持金36円、手ぬぐい、くし、ちり紙だけを携えての思い切った決断です。後にある町の親分さんに「お前さんは女にはもったいないいい度胸だ」と言われる著者の面目躍如です。そして、この吉野作造の文章をその後も愚直なまでに貫いた見事な人生をまっとうするのも彼女です。

 和喜蔵と出会うのは、大正10年(1921年)、東京・亀戸でのこと。「やさしい先生」のようだった細井は、丹後ちりめんの産地として有名な京都府の奥座敷、与謝(よさ)郡加悦(かや)町(現・与謝野町)に生まれます。父の顔は知らず、6歳の時に母を、13歳で祖母と死別し、15歳で郷里を去って後は、大阪、東京の繊維工場を転々としながら、一人で生きてきました。工場をやめて病気療養中だった和喜蔵が24歳、としを19歳。

「ぼくは長生きできないだろうから、今の仕事だけはなんとしてもやりあげたい」と和喜蔵は語ります。

〈「どんな仕事ですか」とききましたら、「今まで紡績で絞りあげられたことや、女工さんたちの悲惨な生活を一冊の本にして、世にだしたい。体の弱い僕は、とてもほかの仕事もできないし、紡績資本家からはブラックリストをまわされるし、石にかじりついてもこの実情を世間一般の人びとに知らせたい」といったので、「およばずながら私もお手伝いいたしましょう」ということになったのです。はじめて会ったのに話は午後までつづき、若い男性なのに昔からの知りあいの人みたいで、気安くお話ができたのです〉

 こうして翌年、事実婚の形で「友情結婚」した二人は、関東大震災をはさんだ3年間、ひたすら『女工哀史』の完成に向けて、二人三脚で取り組みます。執筆に打ち込む夫を経済的に支え、作品の肉付けに、女工たちの生い立ち、考え方や、同性でしか知り得ない女子寄宿舎でのエピソードなどをつぶさに語って聞かせたのが著者でした。

 震災のために住まいも職も転々とし、生活の苦しさは増す一方でしたが、この頃の生活を著者は次のように述懐しています。

〈(略)なによりありがたく感じたのは、男女は世界中に半分半分生れている、そして男女は同権であるといって、それを実行してくれたことでした。三年間の同棲生活で一度もけんかしたことはなく、私が仕事に行っている間に洗濯をすまして、夕食の支度もしてくれましたが、実に上手でした。きれい好きだったので室内はいつもぴかぴかにしていました。私が深夜業を十二時間働いてふらふらに疲れて帰ると、冬はふとんをあたため、夏は窓をあけてうちわであおいでくれて、「すまん、すまん」とあやまっていたのでした。だから貧乏ではあったが、平和な毎日でした〉

 こうして『女工哀史』はようやく完成。大正14年(1925年)7月に改造社から刊行されました。ところが翌月、和喜蔵は急性腹膜炎で死去します。本の上梓に「精魂をかたむけつくした」ような一生で、発病してからわずか3日目の、あまりにあっけない最期でした。

 知り合ってから約4年、結婚生活は3年だった彼女の運命は、その後も波乱に満ちたものとなります。3章立てになっている第1章の「『女工哀史』日記」が、全体のおよそ半分です。そして第2章「ヤミ屋日記」、第3章「ニコヨン日記」と続き、ここからの著者の逞しい生き方にはただ感嘆する他ありません。

 和喜蔵の死から2年後に、労農党の活動家、高井信太郎と出会って再婚しますが、治安維持法下で組合弾圧が激化する中、特高に目をつけられた日々は辛苦の連続です。やがて戦争が始まり、夫は空襲による火傷がもとで終戦の翌年に死去します。7人の子どもをもうけていましたが、うち2人は早世し、焼跡で5人の子どもを抱えての生活です。

 ヤミ屋となり、牛の内臓(ホルモン)を売り歩き、ヤミたばこを扱って、生きることに必死の毎日です。町の親分に「女にはもったいないいい度胸だ」と誉められるのは、「地まわりの兄ちゃんたち」を相手に戦ったのがきっかけです。

 そして昭和26年(1951年)3月に、48歳の著者は国の失業対策事業(いわゆる「失対」)に入ります。日当240円(100円札2枚と10円札4枚であるところから「ニコヨン」と呼ばれる)に惹かれ、伊丹の職業安定所で手続きをするのです。ところが、1ヵ月のうち働けるのは18日間で、この地区の日給は何と160円! 

「失対は食わなんだり食わなんだり。生かさず殺さず。さかさにしても鼻血もでないのが私らのことだよ」と自嘲の声があがるくらいの扱いですが、著者はここでも持ち前の闘争心を発揮して、失対労働者で組織された「全日本自由労働組合」(全日自労)の伊丹自労を結成します。当初は組合費の徴収もままならず、職安や市役所からの妨害工作もあって、ことは容易に進みません。家では母親の帰りを待ちわびる子どもらがいるにもかかわらず、労働運動に血道を上げて「ばかな母ちゃん」と涙がこみ上げます。それでも弱き者の先頭に立ち続け、日雇い労働者の健康保険制度、教科書の無償化、日給の値上げ、託児所、乳児院、養老院の設立など、次々と成果を獲得していきます。

 日雇い労働に集まった人たちは、「引きあげ者、未解放部落の人、戦争未亡人、都市爆撃で家も会社も焼けてしまった失業者、戦争中に動員されて日本へきた朝鮮の人たち」などで、組合加入者には働く母親たちも多数いました。

 はじめには 赤だ赤だときらわれて 今は仲間のまんなかにいる 

 かっこいい 理くつはいわぬ母たちが 一ばん先に座りこみに行く 

 私自身の記憶をたどっても、姉さんかぶりで汗を流す、こうしたしっかり者の母親たちが、当時は日本のあちこちで見受けられました。2012年の紅白歌合戦で話題をさらった美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」は、まさにこれらのお母ちゃんたちに捧げられた一曲です。

 昭和30年の後半が「泣き笑い」日記の体裁で綴られています。たくまざるユーモアに、著者とその家族が偲ばれます。

〈米屋さんも大分借りているし、勝子の給食代も持たせてやらんとかわいそうだが、今日あぶれたので金はなし。信子に相談したら、給料の前借りしてくるといってくれたが、二人顔を見あわせて「蛸足ね」といって笑った。やっぱり私は日本一の貧乏人だ、といったら勝子は、なんでも日本一ならえらいよと笑っておった。この親にしてこの子ありか、あきれた母子だと、われながらあきれ果てた〉

〈家も古い借家で、家主がけちんぼだから、雨が降ると大水がでる。座る場所もないほどの雨もりだ。入口の戸も錠がこわれているので、夜も昼もかぎはかからず、荒れほうだいに荒れた家だから、空家かとときどき人が見にくる。美世子は傘をさしてトイレにはいるし、バケツやたらいやなべやどんぶりまでだして雨もりの水を受けたら、勝子は笑ってドレミハだ、雨の音楽会だという〉

 かと思えば、一緒に働いている仲間にノイローゼの患者がいて、つぶやく独り言が不気味です。

「十万円あったらお召の着物を着て、ハカタの帯をしめられる。美しくしていればうちの人も怒らないだろ。めんどうくさいから頭へツルハシぶちこんでやろか。まっ赤な血がいっぱいでたらきれいだろ」

 働き過ぎがたたり、全身リューマチは悪化の一途を辿ります。「一足歩くごとに頭のなかまで突きさす激痛」に襲われますが、生活を守るためには休むわけにいきません。こうして70歳近くまで働き通した著者ですが、1971年に第一線を退きます。20年間の“ニコヨン哀史”で出会った「思い出の仲間たち」の記は、どれもが胸に刺さる話です。

 ロングセラーとなった『女工哀史』の印税がそのまま著者の手に渡っていれば、こうも困窮しなくてすんだはず。それが、なぜそうならなかったのか。どうして印税が彼女に支払われなかったのか――。

 このいきさつは文中で著者が、また「解説」で斎藤美奈子さんが説明しています。著者の無念さは巻末の長篇詩からも窺えますが、その一方で彼女にとって生涯揺るがなかったのは細井和喜蔵への感謝です。わずか4年の間とはいえ、人生の糧となる言葉を与え、道を照らしてくれた彼への変わらない思いです。

〈ああ 細井よ あなたが死んで/とうとう五十年目/私は七十二歳のおばあちゃんになった/よくも生きたと思います/あなたが死んで/悪妻の代表のようにいわれ/この世の中がいやになったり/酒を飲んだり 男友だちと遊んだり/旧憲法では相続権もなかった私/でも 私は ちゃんと相続できたのよ/それは あなたの考え方/それは あなたの辛抱強さ/おまけについてた 貧乏神/みんな みんな もらったのよ(略)〉(「『女工哀史』後五十年!」)

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)