【考える本棚】
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 秋山祐徳太子『秋山祐徳太子の母』(新潮社)
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しとはしと、おまいはおまい(人は人、お前はお前)
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 久しぶりにその雄姿を仰いだのは、今年2月6日に帝国ホテルで開かれた「赤瀬川原平さんを偲ぶ会」でした。ランニングシャツに短パン姿、日の丸を背負って町を駆け抜ける「ダリコ」のパフォーマンスの披露です。にこやかな笑みを浮かべた赤瀬川さんの遺影が、後ろからそれを眺めている構図が愉快でした。

 笑いの絶えない偲ぶ会でしたが、今年80歳になった著者の健在ぶりに拍手しながら、最近はこういうバカバカしいことを大マジメにやる人がいなくなったナ、と妙に感じ入りました。「能ポン」もそうです。「ダリコ」に「負けず劣らずバカバカしくも下町庶民的な、私の表現行為のしとつである」と本人が語るところです。

 そうそう。先にお断りしておくと、本書の基調言語は江戸弁です。著者のお母さん、つまり今回の主人公は、先祖が湯島で大店(おおだな)を構えていたという生粋の江戸っ子で、現在の港区芝の生まれ。小気味のいい江戸弁が魅力です。「あのひと」は「あのしと」になり、「ひどいこと」は「しどいこと」で、「おまえ」は「おまい」です。息子である秋山さんもヒとシが使い分けられないのは母譲りで、本書は会話も地の文も、すべて「女のしと」、「親戚のしとびと」で統一されています。「能ポン」も、したがって「私の表現行為のしとつ」なのです。で、以下がその説明――。

〈カーキ色の兵隊服にカーキ色のヘルメットを冠った私が、能の摺り足でしばし舞ってみせた最後に、「よーッ、ポン!」と、口の中に入れた右の人差し指で左の頬の内側を弾かせ、小鼓の音までを演じてしまうというもので、子供の頃に見た大道芸人の、ニワトリが卵を産む際の擬音の作り方の応用でもあった〉

 大のオトナがこれを芸術と称して真剣にやるから面白いのです。1960~70年代のエッジな空気とはそういうものでした。既存の権威や価値観を覆す「ポップ・ハプニング」と称する奇抜なパフォーマンス、独特なブリキ彫刻が秋山祐徳太子の代名詞。その人にこんな素晴らしいお母さんがおられたとは、迂闊な部外者は想像すらしませんでした。

 大のご自慢であり、憧れの人でもあった母上との「心豊かな極上の日々を活写」(帯文の言葉)しているのが本書です。生まれてすぐに父と兄を亡くした著者は、以来60年におよび、母1人、子1人の生活を続けます。息子が母の再婚を心配すると、「あたしが嫁さんに行くわけがないだろ。おまいがいて、天下の母子家庭の見本を作ってみせようとしてるとこなんだから」と断言します。戦中戦後の困難な時代も、サッパリとしたお互いの信頼感で、息を合わせて乗り切ります。

 女手ひとつで育てるために、母は花柳界の町、新富町にお汁粉屋を開き、「下町の動く人間ポップ・アート」とも言うべき芸者さん、駄菓子屋、ブリキ屋、イカケ屋など、ポップでキッチュな素材が充満している環境で、著者はのびのび育ちます。後年の表現の原点はここに形成されたと言えるでしょう。

 とりわけ母親の面白がり精神は、著者の潜在能力を引き出します。ある時、美大の仲間からハガキが届きます。母親は表書きに関心を示します。

「この、秋山祐徳太子様、てのは何だい?」「ああ、それは祐徳、て名前からの連想で、聖徳太子のパロディだね。最近、学校ではデン助じゃなく、面白がってこう呼ぶ連中が多くなったんだよ(略)」「まさかおまい。(略)聖徳太子の恰好をして外を出歩いたりするつもりじゃあるまいね」「あ、そりゃ面白い。思いもしなかったけど、いずれそういう芸術行為があってもいいよね。祐徳太子、聖徳太子に扮す、か」「言っとくけど、あたしゃ一緒に歩かないよ、絶対に。そりゃ恥ずかしいよ」

 こうして明らかにそそのかされ、息子は内なる芸術家に目覚めます。「やだね、この子は。恥ずかしいったらありゃしない」と息子の傑作エピソードを得意になって、誰かれかまわず吹聴するのも母の楽しみ。映画館でニュース映画に宮城(皇居)が出てくると、観客席に立ち上がった息子が直立不動になって、「天皇陛下万歳!」と叫んだ話がお気に入りです。何かといえば、「ほら祐徳、万歳しろ」とけしかけて笑っているのが母でした。

 ともかくお母さんの胸のすくような言葉と個性が、圧倒的な魅力を放ちます。息子の成長を見守りながら、ここでそう言うか、と感嘆するような切れのいいセリフ。片親だからといって馬鹿にされようものなら、母は息子に言いました。「いいかい祐徳、たとえ負けようが、喧嘩しなくちゃならない時には、ちゃんと喧嘩するんだよ」

 高校受験で弱気を見せると、「撃ちてし止まん、だよ。……撃って撃って撃ちまくるのだ、ハッハッハッ」と笑い飛ばし、芸大受験に怖れをなすと、「そんな弱腰でどうするッ。二十倍がたとい三十倍になったって、撃って撃って撃っても止まずに、さらに撃ちまくってから止むを得ず止んでみせればいいじゃないか」と喝を入れます。三年続けて受験番号1番を獲得してみせると、「おまいらしい」と面白がります。

 美大の卒業制作に悩んでいると、「オリジナリティ、てのは、おまいらしさ、てことかい? だったら他人(しと)が絶対に作らないようなバカげた面白いものがいいんじゃないの?」、「おまい、よく言ってるよね、下町芸術、て。トタンやブリキで彫刻を作るなんてのは、いかにも下町芸術家のようで、おまいらしい気がするね」。こうして巨大なブリキのバッタが誕生します。

 これだけでは教育ママのはしりと誤解されそうですが、自分の理想を押し付けるのとはまるで対極です。ここまで息子を全肯定できるかと驚嘆するほどの接し方です。60年安保闘争で熱を上げているのを脇に見て「あたしゃ、おまいを信じてるから。やるときゃやるのが男、てものさ」と言い、1969年、「万博破壊共闘派」と称して、仲間と京都大学のバルコニーで全裸になって、公然猥褻物陳列罪容疑でお縄になりそうと知ると、「人殺しや強盗をやらかしたわけじゃなし、大して立派なもんじゃないにしても、堂々と出したんだったら、堂々と捕まってみせな」と尻を叩きます。

 そしてハイライトは何と言っても、1975年に東京都知事選に「泡沫候補」として出馬を考えた時です。母は見透かしたように、「それでなんだろ、おまいも桃太郎をやってみたいんだろ」、「ほら、いたじゃないか、おまいの呑み友だちで区議になった煙突男の桃太郎が。おまいは都知事選でその桃太郎と似たこと、いや、それ以上をやらかしてみたいんだろ」。

 供託金のことを気にすると、「それくらいの額なら、あたしの生命保険を解約すりゃ済むこった」、「なに言ってる。あたしとおまいは母子(おやこ)だろ、親に遠慮なんてするな! ……思いっきりやってみりゃ、おのずと将来の道も開けるというもんだ」、「なんだかワクワクしてくるねぇ」と。

 こうして秋山祐徳太子は、3選をめざす美濃部亮吉、石原慎太郎の二大有力候補の「保革大激突の谷間に、政治による芸術行為の花を、あえかにでも一輪咲かして」みせようと旗を掲げて戦います。

〈そして告示の日。母は火打石をカッカッとやって送り出してくれた。下に出てふと振り返ると、母が家の三階のベランダに出て手を振ってくれていた。四十にして立つ勇気がふつふつと湧いてくる思いがした〉

 結果は、美濃部氏が石原氏を破って3選を果たし、著者はなんと赤尾敏氏(大日本愛国党総裁)に次ぐ第5位の得票という大健闘。ちなみに、この選挙での誤記投票ベスト3は、美濃部達吉(亮吉氏の父上、いままた注目の「天皇機関説」の憲法学者)、石原裕次郎、秋山聖徳太子の順で、こちらは堂々の3位でした。ともかく一部始終を「屈託なく笑う母を見て、あぁ立候補してよかった」と著者は思います。

 お母さんのセリフはどれも引用したくなるほどに、ひとつひとつが奮っています。お汁粉屋に地廻りのチンピラが入ってきて、「ちょっと顔を貸せ!」と凄んでみせると、「何を言ってるんだい! 顔は取り外しがきかないんだよ!」と啖呵を切って追い返したり……。

 母の周囲には笑いが絶えず、その上料理が上手くて着物が似合う。本書のカバーに使われている写真でも、凛としたその雰囲気が伝わります。曲がったことが大嫌い、背筋をピンと伸ばして生きてきた気骨と品格が感じられます。

 店を畳んで別の仕事に就き、住まいを高輪に移してからも、「母は下町人情の美風をここ、宮様邸の隣りの団地にも存分に吹かせ、人の輪を広げていた」と息子は手放しで称えます。人情に厚くて正義感が強く、気っぷが良くて、面倒見がいい。言いたいことをズバズバ言って、怒る時は怒るけど、庶民の教養と美意識を備えた常識人。「隠していても何でもお見通し。いい友人のようだった」と著者は言い、「あたしゃねえ祐徳」と呼ぶ声が「今でも聞こえてくるようだ」と。

 この母にしてこの子あり――母子の機微を語って見事なのは、1994年、伊東で開かれた「秋山祐徳太子の世界展」のオープニング・パーティで種村季弘さんが述べたスピーチです。つまんで引用するのが躊躇(ためら)われるほど、温かくて素晴らしい2人の紹介です。是非本書でお読み下さい。

「いいかい祐徳、親の末路を、よぉく見とくんだよ」――徐々に元気を失っていた母親が、去る直前にこう言います。

〈最後まで、飽くまで私の母であり続けようとしている母の言葉に、私は粛然とさせられた。そして感動した。しとさまから、いくらマザコンと呼ばれようと構わない、私はこう言いたかった。私の母は偉大だ〉

〈……平成九年四月二十二日午後二時ピッタリに心停止した瞬間、明治・大正・昭和・平成の九十一年六ヶ月を生き抜いた母がふわりと天に舞いあがってくのを、私は確かに感じた。母が好きだった童謡、シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ、が聞こえてくるかのように〉

「孤児多感 亡母一笑 百日紅」とは、友人が詠じた一句です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)