ピリスに聴くシューベルトのサウダーディ
 湯川豊

 村上春樹さんの長編小説『海辺のカフカ』のなかに、シューベルトのピアノ・ソナタニ長調D850(第十七番)が出てくる。高松の甲村図書館の館員である大島さんが、田村カフカ少年を車で高知の山小屋みたいなところに連れてゆく。そのときカー・ステレオで大島さんが(カフカ少年とともに)聴くCDが、このニ長調ソナタなのだ。

 ──湯川豊さんの文章は、このようにして始まります。文藝春秋で「文學界」編集長、編集総局長などを歴任された湯川さんは、村上春樹さんと編集者としてのつきあいが長く、またクラシック音楽を日常的に聴くこともあって、村上さんとは音楽をめぐる雑談が弾むことも、しばしばあるようです。さきほどの冒頭から続く部分を引用してみましょう。

『海辺のカフカ』について、私は(共同通信の小山鉄郎さんとともに)長いインタビューをさせてもらった。それが二〇〇三年の一月頃で、おそらくその前後の打ち合せの折だったかに、シューベルトのピアノ・ソナタが話題になった。村上さんは、小説のなかに出てきたニ長調ソナタがいちばん好きだ、といった。

 それでは湯川さん自身は、シューベルトのピアノ・ソナタでいちばん好きなのは何番なのか、というところから、この一篇の「物語」が始まります。村上さんに「少しためらいながらいった」湯川さんの愛聴するイ長調D664(第十三番)とは、どのようなピアノ・ソナタなのでしょうか? 湯川さんはこう書いています。

 ためらったのは、イ長調D664が、シューベルトのソナタとしてはきれいに整っていて、可愛らしすぎるような気がしないでもなかったからだ。
 そして村上さんがあげたニ長調D850はどちらかといえば苦手だった。

 1819年、シューベルトが21歳の夏に作曲したピアノ・ソナタ第13番の魅力とは、いったいどのようなものなのでしょう。湯川さんが様々な演奏家の録音を聴きくらべながら、やがて出会うことになる、ポルトガル生まれのピアニスト、マリア=ジョアオ・ピリスの、深い懐かしさを湛えた演奏の魅力とともに語られてゆくこの一篇は、音楽を聴くということのきわめて個人的な経験の成り立ちを私たちに伝えてくれます。CD案内付きで、どうぞお楽しみください。