【考える本棚】
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 波田野節子『李光洙――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(中公新書)
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“愛国啓蒙”のゆくえ
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「李光洙(イ・グァンス)は韓国の夏目漱石である。近代文学の祖とされ、知らぬ者はいない」――帯の言葉を前にして、俄然、興味を惹かれました。「あとがき」にもこうあります。

〈韓国の大学の国文科で書かれた博士論文と修士論文のなかでは、李光洙に関するものがもっとも多い。李光洙文学の質と量が圧倒的なこともあるが、一九六二年から三中堂が刊行した韓国で最初の個人全集『李光洙全集』全二〇巻が、研究をやりやすくしていたことも見逃せない。年譜のほかに作品、作中人物、人名、月報の索引まで付いており、当時としては画期的な全集である〉

 1962年(昭和37年)といえば、たしかにこれだけの個人全集は「画期的」という他ありません。1950年に58歳で消息を絶った夫の著作を収集し続けた妻の熱意のたまものだと聞けば、なおさら驚くばかりです。

 同時に、それほどの国民的作家が「親日=対日協力」という理由で、長きにわたって否定的に捉えられ、「触れるほどに血の噴きだす民族の傷口」と呼ばれるくらい激烈な批判に晒されたことにも興味をそそられます。

 李光洙の生涯(1892-1950?)の大半は、日本の植民地時代(1910-1945)に重なっています。13歳で1905年に来日したのが留学生活の始まりですが、それは第二次日韓協約によって韓国が外交権を失い、日本の保護国に転落した年でした。日露戦争に勝利をおさめた日本が、韓国に対する支配の度合いを徐々に強めていた頃です。

 5年後、祖国に戻った李光洙は教員となり、国家存亡の危機を前に「愛国啓蒙運動」に身を投じます。その矢先に、日韓併合条約が公布されます。後年の回想録『わが告白』の中で、李はこの衝撃を振り返ります。

〈私は旅行を中止して駅から学校に向かった。しばらく歩いてからやっと、「ついに国が滅びたのだ」と考えることができた。 私は道端にしゃがみこみ、どれほどの間か知らないが一人で泣いた。国が滅びる、国が滅びると口では言っていたが、それでもまさかと思っていたのだ。「なぜだ。皇帝がこの国の主人なのか。なんの権利があって、この国と国民を他国に与えることができるのだ」 こうも考えたが、それは「力」があっての話だ。 力! そうだ力だ! 日本は力で我が国を奪った。奪われた国を取り戻すのも力だ! 大韓の国を押さえつける日本の力は、それよりも大きな力をもってしか押し返すことができない〉

 学校を退職した李光洙は、上海に赴き、朝鮮独立運動家たちと出会います。大陸を放浪しながら見聞を広め、1915年に再来日。翌年、早稲田大学に入学します。「敵地にのりこみ、敵の刃で敵を打つ」の気概で文筆活動に励んでいた彼に、朝鮮総督府の機関紙「毎日申報」が着目し、原稿を依頼してきます。敵の土俵にのることは「愛国志士なら眉をひそめる行為」ですが、「自分の文章によって朝鮮人を啓蒙し、日本人に朝鮮の事情を理解させて朝鮮の改善につなげたい」と願う彼にはまたとない好機でした。「相手に利用されながら相手を利用するという綱渡りのような行為」であると承知したうえで、自らの文才に賭けました。次々に論説が発表され、文名は朝鮮で一気に高まります。

 その彼にいきなり新聞小説の依頼電報が届きます。1917年元旦から始まった連載長篇小説が、朝鮮語による初の近代小説『無情』です。暗い時代にあって、民族の未来に対する希望を求めていた大衆に、明るい展望をもたらしたこの作品で、李光洙は近代文学のスターとなります。

 ちなみに、この時期、切り詰めた暮らしの中で無理な執筆活動を続けていた彼は、結核を発病します。死の淵をさまよう彼に救いの手を差し伸べたのが、後に妻となる許英粛(ホ・ヨンスク)でした。裕福な家庭に育った彼女は、東京女子医学専門学校に留学しており、彼を献身的に看病します。やがて朝鮮で初めての産院を開業するのも彼女です。

 一方で、民族の独立運動に次第に積極関与し始めた李光洙は、1919年、仲間11名とともに「朝鮮青年独立団」を結成し、彼の手で「二・八独立宣言書」が起草されます。本書巻末にこの文章が付されていますが、「吾族は日本に対し永遠の血戦を宣すべし」とあり、これが三・一独立運動にもつながります。

 その後、上海に亡命した李光洙は、新韓青年党の活動に加わり、「大韓民国臨時政府」樹立に参加します。しかし、内部分裂や社会主義の浸透などに反発して、1921年に帰国。合法的な形で民族の力を養うことが「自分の行うべき独立運動」だと考えます。これが大きな運命の岐路でした。

〈貧しさと無理な執筆活動のために東京で喀血していた李光洙が、もし上海で客死(かくし)していたならば、彼の名前は輝かしい「民族の英雄」として記憶されただろう。だが、彼は民族とともに生きることを選び、朝鮮半島に戻り国内で独立運動を摸索した〉

「帰国」はすなわち「日本への投降」と見なされる危険も覚悟の上でした。彼は、毎年のように襲ってくる大病と闘いながら、小説に、論文に自らの民族愛を訴え続けます。しかし、1931年には満州事変、1933年には日本の国際連盟脱退と、民族の将来には暗雲が立ち込めます。愛息の急死という悲劇にも見舞われます。

 日中戦争を目前にした1937年6月、突然、李は逮捕されます。治安維持法違反という容疑ですが、実際には朝鮮内に残る民族主義の芽を根こそぎにしようとする当局の捏造事件でした。彼はほどなく保釈されますが、やがて同志18名とともに思想転向表明を行い、過去の誤りを清算して、「吾等は至誠[を]以て天皇に忠義を致そう」と明言します。

「対日協力」に踏み出した李は、1940年2月、日本名「香山光郎(かやまみつろう)」と創氏改名し、朝鮮総督がスローガンとした「内鮮一体」を称揚する小説、評論を日本語で書きます。それは、「内鮮」融和の論理を逆手に取り、同じ「天皇の赤子(せきし)」であるなら、朝鮮人を同胞として愛してほしい、差別から解放してほしい、という悲痛な訴えでした。読者の大半を占める在朝日本人に向けて、それを切々と呼びかけたのです。

 著者によれば、「現在の韓国で、李光洙の対日協力行為として誰もが第一に挙げる」のは、「学徒兵志願の勧誘」だといいます。1943年11月に日本へ渡り、留学生たちに学徒出陣を説いたのですが、当時彼の肉声に接した若者の一人は、「李光洙の親日に民族のための苦しみ」を見たと証言し、彼の懊悩を感じ取っています。

 1945年8月15日、「解放」の日を、李は53歳で迎えます。3年後に大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国が成立。李は大韓民国を支持しますが、やがて対日協力者に対する反民族行為処罰法が制定されると、1949年2月に検挙され、調査委員会で尋問されます。“売国奴”として糾弾された李の言葉は、韓国ではあまりにも有名です。「私は民族のために親日をしました」。

〈間違っていましたとか、反省していますという言葉で表わしては嘘になると思ったのだろう。「私の歩んだ道は正道ではありませんが、そうした道を通る民族への奉仕もあるということを、わかってください」と話した。だが、調査委員会は言うに及ばず、一般の人々にもわかってもらえなかった〉

 李は翌月保釈され、8月に不起訴と決まります。翌1950年6月、朝鮮戦争が勃発します。

〈……李光洙は高熱を出して自宅で寝こんでいた。政府発表を信じて避難をしないでいるあいだにソウルは北朝鮮軍に占領され、李光洙は連行されてそのまま平壌に移送される。平壌刑務所に収監された人物があとで逃亡に成功し、刑務所で李光洙を見たと話したのが、最後の目撃証言である。その後の彼の生死は詳(つまび)らかでない〉

 ……以上が、「韓国近代文学の祖」といわれる李光洙の波瀾万丈の人生です。真情あふれる評伝としての面白さに惹かれ、一気に読み終えました。なぜ李光洙が祖国と同胞を“裏切る”ような生き方を選んだのか。なぜ彼の存在が、いまだに「民族の傷口」であり続けるのか。現在につながる問題の根源が、そこに横たわっていることが分かります。

 たまたまNo.442で『日韓併合期ベストエッセイ集』(鄭大均編、ちくま文庫)という本を紹介しましたが、その時に驚いたのは、35年間におよぶ「日韓併合」の時代に、二つの国の間を行き来した人々が、いま読むと不思議なくらい何げない日常を文章に綴っていることでした。何かにつけ、とげとげしい対立感情ばかりが強調される昨今の両国関係であるだけに、それが逆に新鮮でした。

 本書もまた、できるだけいまの政治的なフィルターを排除して、あの時代をそのままに描き出そうとしています。彼の著作を読み解きながら、李光洙という人物がまとった時代の空気、彼が抱え込んだ矛盾や葛藤をリアルに浮かび上がらせようとしています。そこには近代化をめざして疾走していた日本の姿も垣間見えます。

〈李光洙は、私たち日本人にとって「窓」のような存在だと思う。彼を通して、私たちは明治時代から敗戦までの日本のさまざまな姿を見ることになる。日本の近代に翻弄された植民地の作家李光洙は、つねに日本を見ていた。彼の目に映った日本の姿は私たちが自分でこうだと思っていた姿と違うかもしれないが、それもやはり日本なのである。そういえば李光洙の幼名は宝鏡(ボギョン)。彼は父親が老僧から眼鏡をもらう夢を見て授かった子どもであった〉(あとがき)

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)