【考える本棚】
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 井上麻矢『夜中の電話――父・井上ひさし 最後の言葉』
(集英社インターナショナル)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 「マー君ちょっといいかな」
------------------------------------------------------------------------

 自分たちは親に見放された、親のかすがいにすらなれなかった――著者が18歳の時に、突然、両親が離婚します。それまで何不自由なく育った三人姉妹は、いきなり人生の荒波の前に放り出されます。母は家を去り、父はほとんど家に帰ってこなくなりました。きちんとした説明はなく、ほどなくそれぞれが再婚します。子どもたちは傷ついた心を抱え、自分たちの身の置き所を探さなければなりません。

〈生活環境はがらりと変わってしまい、明るかった性格が一変して、私は内向的になった。そして一番楽しいはずの青春を楽しいと思えないまま過ごした〉

 三女で母親っ子だった著者は、父に反撥し、憎み、拒絶しながら、20年近く疎遠な関係を続けます。けれども、それだけになおのこと、楽しかった時代の家族の思い出を決して手放してはいけない、と頑なに思っていたのも著者でした。結婚して二女を授かり、自らが新しい家族を作り上げる立場になった時に、長く封印してきた思いの丈を語ろうとしたこともありました。『激突家族――井上家に生まれて』(中央公論社、1998年)という最初の著作です。

 確執が激しく、しかも「何度もかさぶたが出来るのに、いつも中途半端に剥がれ落ち、随分長いこと傷が乾くことがなかった」(同書あとがき)という著者だけに、父を求める思いは切ないほどでした。

〈幼い時、私は父のことが大好きだった。けれどずいぶん小さい頃から、父に甘える術など知らないまま大人になった気がする。私が物心ついた時には、父はすでに売れっ子作家であったため、忙しくて書斎にこもってばかり、三姉妹の一番下の私には書斎という場所は聖域であり、入って行けるところではなかった。実際、机に向かって書いている父には、誰一人声をかけられなかった〉

 わだかまりを抱えた父娘の関係に“和解”の季節が訪れるには、まだ歳月が必要でした。

 ところがその数年後、久々に父娘が2人で話し合う機会が生まれます。「あなたは子どもと向き合うことから逃げてきた」と厳しく父に詰め寄る娘に、「随分大人になったんだね」と父は驚きます。自分はずっと父に認められたかったのだ、と著者は気づきます。それがきっかけとなり、父に誘われ、2009年4月、両親が旗揚げをした劇団「こまつ座」に経理担当として入ります。7月には支配人を兼任することに、11月には社長に就任。それもこれも、9月に肺がんの宣告を受けた父、井上ひさし氏が、井上家の“家業”ともいえる劇団の将来を麻矢さんに託したいと考えたからでした。

〈抗がん剤治療のために入院している父を訪ねた際に、「こまつ座の代表取締役社長になって、こまつ座を継いでほしい」とはっきり言われた。…… その時の私に、選択肢などなかった。病床での父からの頼まれごとをできませんと言えるほど、親不幸ではない。とにかく一刻も早く父を楽にしてあげたい、そういう思いだった〉

 それを機に、夜中の電話が日課となりました。抗がん剤治療をしていない日の夜11時過ぎ、スポーツニュースが終わった頃に、父から電話がかかってきます。「マー君ちょっといいかな。三十分だけ。今日はどうでしたか? 疲れていないですか?」――こうしてかかってきた電話は、明け方で終わることもあれば、朝の八時、九時まで続くこともありました。

 会話の内容は、こまつ座の今後のこと、社長の心得、仕事の進め方、稽古場や劇場の現場のことなど。演劇の世界の大変さを、身をもって知る父だけに、新米社長を早くなんとか一人前にしなければ、と必死で言葉を尽くそうとしたのです。

〈そこには父と娘の生ぬるい感情など一つもなかった。父は娘を必要としていたのではなく、本気で自分の作品を世に出せる人間を探していたのだ〉

 あまり長時間に及ぶ電話を気遣い、「身体にさわるといけないので、寝たほうがいいのでは」と一度口にしたところ、言下に叱責されました。「僕は命がけで君に伝えたいことが山ほどあるのに、どうして君は、それをきちんと受け止めてくれないのだ」――。

〈とにかく父は私に早く教え込まなければならない。時間がない。そこに甘えなど一切入り込む余地はなく、電話が終わると私の手には血豆ができていた。一言一言、父の言葉をノートに書き留めながら話を聞いていたので、その指に血豆ができてしまったのだ。受話器を当てている左耳は真っ赤になって痛かった。毎日、緊張感の中で会話は行われた〉

「一日二時間以上眠る日がなかった」と麻矢さんは語ります。「命を削ってかけ続けた電話を、私から切ることなどできなかった。私も命がけでそれを受けとめなくてはと覚悟した」。

 翌2010年4月9日、父は死去。闘病中の170日間が短期集中の特訓でした。経理担当として見たこまつ座の経営は火の車。それでも「今の仕事から目をそらさないで、つらくても続けてほしい」という父親の信頼、願いを裏切ることはできません。

「自分がいなくなった後の三年間を無駄にしない。この三年間が井上ひさしの旬と心得よ。しかし、その後もこまつ座の作品は残る」

 こう言って、自分の死後3年間をプロデュースして父は逝きました。「こまつ座は劇団だから、井上ひさしの追悼は芝居でする。そういう態度で臨みなさい。一年間は追悼だから観にきてくださるでしょう。その間に借金を返してしまうのだよ。二年目、三年目には本当にこまつ座を観にきてくださるお客様が望んでいた作品をやればいい」、「三年一所懸命やったら、四年目が見えるし、四年目を一所懸命やったらば五年目が見えてくる」と。

 この「命の会話」を通して著者に託された77の言葉を収めたのが本書です。仕事論に限らず、人はどう生きるべきか、という人生論あり、また井上さんが自責の念をにじませた自戒の言葉も含まれます。「自分という作品を作っているつもりで生きていきなさい」「問題を悩みにすり替えない。問題は問題として解決する」「逃げ道は作らない」「今の仕事がいやだからといって、それをやらずに次へ進むことはできない」――。

 それがどのような文脈で語られたかを記しながら、受けとめた麻矢さんの心象も書きつけます。「あの世では、父はいろいろな虚勢、自分をごまかしていたこと、逃げてきたことに直面しているはず」と語っているように、父を偶像視するのではなく、一人の等身大の人間として伝えようとしています。

〈私にとって父は人間のお手本だった。よいところも悪いところもすべて揃っている。人間らしい人だった。そんな父に触れた真剣勝負の真夜中の電話。私に語ってくれた本音の言葉はいまだに私の中に生きている〉

 さて、没後2年目にあたる2012年、生前に喜寿のお祝いとして進められていた企画の内容を変更し、「井上ひさし生誕77フェスティバル2012」と銘打って、1年をかけて8作品が連続上演されました。『十一ぴきのネコ』に始まり、遺作となった『組曲虐殺』をフィナーレとするこの一連の舞台の成功は、こまつ座にとっては2度目となる紀伊國屋演劇賞団体賞をもたらします。

 麻矢さんが初めて父の“原稿取り”をしたのが2009年の『組曲虐殺』。昭和初期、特高に殺されたプロレタリア作家、小林多喜二の晩年を描いた作品で、初演の時は舞台初日の4日前にようやく台本ができました。いつ送られてくるか分からない原稿を待ちながら、「電話を抱えて眠っていた」という著者をはじめ、現場が大混乱を味わったのはいかにも“遅筆堂”井上ひさしらしい幕切れです。その再演は、さすがにしっかり練り上げられ、私たちも芝居の奥行きを堪能することができました。

「新作は世に出た途端に古典になる。すでにある作品は、再演するたび新作以上の輝きを持つ。そこが井上戯曲の面白いところ。こまつ座演劇の楽しいところ。だから新作にこだわることはない」

 父の言葉とはまた別に、所々にさしはさまれる淡々とした文章に、ハッと胸をつかれます。

〈私がシングルマザーになった後、……マッチ箱のような小さな家を建てた時、誰よりも喜んでくれたのは父である。……「君は偉いなあ。親が本当に嬉しいのは、子どもが家を建てて、その家に招待された時だ」とわざわざ時間を作って遊びに来てくれた。 小さな家の中に入り、一番太い柱を手でとんとんとたたいて、「なかなかいい柱だ」とほほ笑んでいた。「時々ここへ寄って、おいしいコーヒーと煙草を一服吸わせてもらおう。悪いけれどコーヒーと灰皿を買っておいてくれ」と封筒に入ったものを渡してくれた。いくら上等のコーヒーを買っても有り余るお金だった。その日はインスタントコーヒーしかなく、それを飲み、煙草を一服つけた。その煙草の吸殻を私はまだ捨てられずにいる。 そして、ゆっくりと歩いて駅のほうへ消えて行った。この後すぐに父はがんになってしまい、二度と我が家へ遊びにくることはなかった〉

 もうひとつは、葬儀の際の描写です。

〈棺に入れたものはディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』、そしてガーシュウィンのCD、それに父が三十年もの間、律儀に芝居を書き続けた劇団の公演チラシが、献花の代わりに父の顔の周りに敷き詰められた。…… その中に紛れて、大好きだった家の前で撮った数少ない家族写真をこっそり入れた。 そこには屈託なく笑っている私たち三姉妹と若き日の両親の顔がある。それも紛れもない父の生きていた証であり、私の故郷であり続ける場所でもある。記憶の中で生き続ける故郷そのものなのだ。 和田誠と安野光雅、故ペーター佐藤の各氏が描いたたくさんのチラシが燃えて、印刷の染料が父の骨に染み込んで残った。それはとてもきれいなパステルカラーの遺骨だった。淡い、まるで虹のようなかわいらしい遺骨だった〉

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)